見出し画像

新しい出会い、新しい日々、新しいのミリョク

カタカナは時にあさはかだ。魅力、さえも何だかカルクしてしまう。
さておき。日本では4月や10月が新たな出会いのシーズンとなる。私もそんなときに新たな一歩を踏み出した。その一歩は、海を大きく越える予定だったけれど、越えたのは県境だけだ。でもまあ、とりあえず良しとしている。


「当たり前」の不十分さ

当たり前に繰り返していく日々に、不安を感じたのはいつからだっただろう。小学生、中学生、高校生くらいまでは、平日と週末のルーティンに対して、何の疑問も抱いていなかった気がする。入学時は成績がそこそこよくて、真ん中の学年で中だるみして凹んで、受験前に爆上げして何とか滑り込みセーフ。そんな過ごし方。

大学生になり、上京。そこで広野に羽ばたいたかのような感覚に陥ったときにはじめて、「フツウ」に満足しなくなったような気がする。

「当たり前」の魅力

ここで「当たり前」「いつもの」の魅力についても語ろうと思う。

「いつもの」人、「いつもの」店、「いつもの」ごはん、「知っている」こと。その圧倒的な安心感に勝るものはない。あれだけ好きではなかった故郷でさえ、心が弱っているときは「知っている」安心感が包み込んでくれる。いつかの思い出がよみがえってしまい、記憶を消したくなるような衝動にかられても。それを上回るくらいに、「大丈夫、ここにいていいんだよ」とでも言われるかのような、優しさは心を癒してくれるときがある。

アップデートしていないことへの、不安めいたもの

それが不安に変わったときはいつなんだろう。「いつもの」「フツウ」が不安に変わったとき。それが幸せのかたちの一つと知りながら、そう思ったとき、驚きながらも、これが自分なのだとも思ってしまった。

「いつもの」は環境に対することだけではない。いつまでも同じ自分。変わらない自分。変われない自分。そんな自分に焦ることは、時々振り返ると、起きているのだ。周りと比べても意味がないけれど、昨日の自分と今日の自分に1ミリも差がなかったら焦ってしまう、そんなときが。アップデートしない日々に意味があるのか?と思ってしまう。存在価値すらないのではないかと。でも、そんな日もあって、そうでない日もある。全くもって、気まぐれなメンタルなのだ。

偽りの自分、それも同じ自分

でも思うに、昨日と今日で1ミリも変わらない人はいない。毎日命を削って生きている人々には申し訳ない気分になるけれど、例えば誰かとすれ違った瞬間。たった1分のYouTube。数分の散歩。夢で体感した時間。このどれもが、誰かを、自分を、変えることもあるから。

ところで私は今、定職につかないタイムスパンの2度目だ。今回は、意図をもたずにこうなってしまったというのが正しい。さておき、1度目を脱したきっかけは、何度も見たYouTubeをまた見て、ふと「腑に落ちた瞬間」にある。

私は偽る(よく見せる)のが苦手だ。好きな人に対して媚びることはあるくせに、面接官に対して自分をアピールするのが苦手だったのだ。前者と後者の差がないと気づくのは、前述のYouTubeが教えてくれた。

新しい出会いをつかむために、自分を知ってもらうこと。自分を売り込むこと。仕事をする上で大事なスキルだと今はわかるけれど、社会の一つのピースとなること、そのために自分を偽るように見せることが苦手だったのだ。

新しさの楽しさと意味

常に自分をアップデートしていたい。スキルを磨き続けたい。お客様に最高の価値を提供したい。そう思い、走り続けた接客業時代。それが私の原点になっている。その後職種を変えたあとも、根底が変わることはなかったけれど、「アップデート」という意味ではなぜかスローダウンしてしまったように思う。“シテシマッタ”と思うのだけれど、なんでそう思うんだ?とどうでもいい悩みを抱える日もあって。

でも、今まで話してきたとおり、日々の小さな変化を感じ、楽しむことに魅力があると思うし、意味があると思うから。

大きなことを成し遂げていないと思う日があっても。
昨日より今日が何も変化できていないと思う日があっても。

それでも明日は来て、明後日も来てくれる。今は。その中に新しさがあるだけで幸せだ。

サポートありがとうございます。健康でいてください。