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走るメッセンジャー ブータン日記3

不思議な旅は3日目にして最初の山場を迎える。
ブータンの前首相との夕食会に招かれ、首都ティンプーの街中から大型のバスで郊外へ。山あいにある小さな都市だ。首都といっても、背の高い建物は少なく、のどかな雰囲気がただよう。昼間は交通量が多いものの、日が暮れたこともあり、すぐに街外れに至った。

明かりがほとんどない駐車場にバスが停まった。車から降りると、暗がりの先にある建物に招かれる。ぼんやりとした明かりが灯っていた。
その中にあったのは、ブータンの伝統的な暮らしを伝える資料館。いくつも展示室が並んでいた。窓から中をのぞきみると、土間と台所を再現した部屋には、さまざまな形状の鍋やおたま、かまど、精米に使う木製の筒と棒などが並んでいた。
日本の田舎町で見る風景に似ていた。古民家に行くと、同じようなかまどがあったり、蔵や物置小屋に古い道具が仕舞われているのだ。顔立ちといい、食文化といい、ブータンの文化に触れるほど親近感が湧いてくる。

資料館の一角。街中でも大量の唐辛子が干されていた。
屋内はこんな感じ。

いくつもの部屋を素通りして大広間へ。全員が着席して、前首相の到着を待つ。「スジャ」と呼ばれるバター茶が振る舞われ、口をつける。濃いめのミルクティーのような色をしているが、香りはあまりなく、甘みもない。茶葉、バター、塩というシンプルな材料でつくられている。それほど塩味が強いわけでもなく、意外とさっぱりしていて飲みやすい。

ブータンでは、このバター茶とミルクティーをあちこちでいただいた。ブータンの人はどちらが好きなのかを聞くと、年配の方はバター茶、若者はどちらかというミルクティーを好む。そして、今回の夕食会のような、フォーマルな場では、たいがいバター茶が出されるのだとか。

それにしても静かだった。みんな口数は少なく、声のトーンも落としている。ホテルで食事を取る際はうるさいほどなのに、嘘みたいだ。表情も心なしかこわばり、緊張感がただよっていた。
要人と顔を合わせるとはいえ、ドレスコードは上下とも丈の長い服を着てくることだけ。Tシャツやタンクトップに短パンが正装の集団にしてはフォーマルには違いないが、一般的に見ると、とてもカジュアルな装いでOKだった。ラフな服装だからか、重たい空気がなんだか妙にちぐはぐで面白い。

バター茶のおかわりが2杯、3杯と増えていったところで、主役がようやく姿を現した。ドアの隙間から見えたにこやかな笑顔がツェリン・トブゲ前首相だ。
坊主頭にメガネ、伝統衣装に身を包んでいる。風貌とおだやかな表情が相まって、徳の高い僧侶のようである。
食事の前に、トブゲさんが語り始めた。TEDでの講演経験もある政治家らしく、魅力的なスピーチだった。ゆったりとした間の取り方、表情の作り方、緊張感を和らげてくれるユーモア。英語の苦手な僕でも引き込まれる。

元首相の言葉に耳を傾ける。

彼はなぜ今回のレースが開催されるのかを語ってくれた。スノーマン・レースが掲げているコンセプトは「気候変動へのアクション」。ブータンは国土の大半が山々であり、高度に工業化、都市化されているわけではない。当然のことながら、気候変動に影響を与える二酸化炭素の排出量は先進国に比べ、はるかに少ない。
むしろ、ブータンでは、森林が二酸化炭素を吸収する量が国内の排出量を上回っている「カーボン・ネガティブ」という状態である。その上回っている分を、排出権として他国に売っているほどだ。
いかに自然が豊かな国なのかが分かる。
「にも関わらず」
元首相が言葉に力を込めた。
地球温暖化の影響で、ブータンの高山にある氷河が溶け出しているという。膨大な量の水は、重力と地形によって、低いところへと流れていく。窪地に留まれば、氷河湖となる。天然のダムとして、氷河湖は水を蓄え続けるが、いずれ限界が訪れる。
湖が形成されるのも高地であり、もともとは氷河の一部であったとすると、湖のへりになる部分は弱い可能性がある。そうでなくとも、莫大な量の水が流れ込むのだ。水圧に耐えられなくなっても不思議はない。

レース中に訪れた氷河湖。標高5,400m付近で酸素が薄い。

氷河湖が限界に至ると、何が起こるだろうか。
小さな穴が開いたダムを想像する。勢いよく流れ出る水は、次第に穴を押し広げ、ついには壁面を崩壊させる。荒れ狂うように加速する濁流。すべてを押し流していく。山麓に生きる人々の集落をも巻き込んで。
この国では近年になり、そうした自然災害が起きるようになった。かつては存在しなかった氷河湖が誕生し、大きく成長している。
そして、その現状はあまり知られていない。
元首相は淡々と説明を続け、問いかける。
「気候変動とはかけ離れた生活をしているのに、なぜ?」
地球規模の問題が「幸せの国」をおびやかしている。そして、この瞬間も標高5,000mを超える山の中でひっそりと進行しているのだ。自分たちの力だけではどうしようもない問題である。

そうした現状を世界に伝えるために、スノーマン・レースが生まれた。
「君たちは戦士であり、メッセンジャーだ」。元首相と目が合った。彼はすべての選手の顔をのぞきこんでいた。
戦士という響きに仰々しさを感じたが、少し考えて思い直した。
コースとなるのは、世界でもっとも過酷といわれるトレッキングルートであり、踏破するのはエベレストに登頂するよりも成功率が低いとされているだ。それも4週間かけて歩くところを、5日間で走り抜ける。そんな難路を進み続ける姿は「戦士」である。
日数をかけないと容易にアクセスできない氷河湖のほとりもコースに含まれている。そこで見聞きしたこと、レース中のさまざまな体験を自分たちの国に持ち帰り、多くの人に伝える。そんな役割をランナーに期待しているという。

実のところ、僕は行ったことのないエリアをただ走ってみたい一心でエントリーしていただけである。「気候変動へのアクション」というコンセプトは捉えどころがなくて困っていた。この3日間でも、主催者であるトーマスが「気候変動へのアクション」と繰り返し、何ができるのかを考えるように選手たちに促していた。テーマが大きすぎるために戸惑い、困惑していた。自分に何ができるだろうかと。
それが元首相の言葉で、一気に明確化した。戦士であり、メッセンジャー。とても分かりやすい。メッセージは各自が現地調達。あとは走り抜いて届けるだけだ。

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