見出し画像

大相撲の歴史から貴乃花が消えた?【相撲協会100周年】

2025年は現在の公益財団法人日本相撲協会の前身である財団法人大日本相撲協会の設立から、100周年にあたる。江戸時代の相撲会所から紆余曲折を経てきた組織が、財団法人として認可されたのが1925(大正14)年12月だった。

翌1926年に個人優勝制度の正式導入とともに天皇賜盃の授与が始まり、今年初場所の豊昇龍まで、幕内最高優勝を果たした力士はのべ492人に上る。東京・両国の国技館内にある「相撲博物館」では、その歴史を振り返る企画「優勝力士~大相撲100年~」が、初場所初日の1月12日から始まり、この間の幕内優勝力士にまつわる資料が展示されている。

そこに、あの横綱の名がなかった。


趣向を凝らした展示の中に…

館内には1926年夏場所で平幕優勝した大蛇山に贈られた天皇賜盃の模盃(レプリカ)をはじめ、幕内優勝を飾った多くの名力士のパネルやパレードの旗手が締めた化粧まわし、各賞のレプリカなどが展示されている。各賞の大きなトロフィーは千秋楽の表彰式で目にするが、小型のレプリカはなかなか見る機会がない。優勝回数歴代最多の白鵬(現宮城野親方)、2位の大鵬、3位の千代の富士を並べたコーナーもあった。

昨年11月に亡くなった北の富士勝昭さんをフィーチャーしたウインドウには、化粧まわしや太刀とともに、現役時代から解説者時代までの写真などが飾られ、来場者が足を止めていた。

相撲博物館には、近いうちに「北の富士」展を企画してほしい。化粧まわしなどの定番だけでなく、着物やスーツ、革ジャン、金本知憲元監督にもらったという阪神タイガースのジャンパーなどベストドレッサーぶりを偲ぶ「衣装」や、ゴルフクラブなどの愛用品も見ることができたらいいと思う。

東京中日スポーツに連載していたコラム「はやわざ御免」の直筆原稿は、すでに相撲博物館に所蔵されているという。北の富士さんらしい、型破りの展示になれば、多くの来場者が訪れることだろう。

北の富士さんのコーナー

だが、そんな優勝力士たちの中に、貴乃花がいない。パネルもゆかりの品々も、館内に貴乃花の「た」の字もない。兄の横綱3代目若乃花もない。父であり師匠である初代貴ノ花もない。兄や父を取り上げたら、貴乃花がいないことに気づく人が増えるからだろうか。

父との親子優勝、兄との兄弟優勝も

館内の壁のうち一面には、史上最年少や入門後最速、外国出身力士初、学生出身力士初、新入幕、蔵前国技館最初と最後などの新記録や大きな話題となった優勝力士が、パネルで並んでいた。

親子優勝としては栃東親子(先代・現玉ノ井親方)の写真が飾られ、初代貴ノ花と「若貴」兄弟の親子3人優勝は無視されていた。栃東親子が最初の親子優勝というわけでもない。横綱初代若乃花と初代貴ノ花、「若貴」は兄弟で賜盃を抱く快挙であり、「若貴」による史上初の兄弟優勝決定戦も騒がれたが、ここには兄弟優勝のトピックス自体がなかった。

親子優勝などのトピックスを振り返るコーナー

貴乃花は22回の優勝を果たし、曙、武蔵丸(現武蔵川親方)と一時代を築いて史上空前の大相撲ブームを巻き起こした。コロナ禍で巨額の減収に見舞われた協会財政を支えた先人たちの蓄えにも、あの時代が寄与しているはずだ。

父も「角界のプリンス」と呼ばれて昭和の相撲人気を牽引し、1975年春場所の初優勝では観客の興奮で大阪府立体育会館が揺れた。春日野理事長(元横綱栃錦)のはからいにより、兄で師匠の二子山親方(元横綱初代若乃花)が優勝旗を手渡した場面は、相撲史に残る。

100年間の幕内最高優勝とそのドラマを、限られた展示スペースで紹介しきれるものではない。優勝回数の多い順に取り上げる必要もない。だから横綱でさえも柏戸、玉の海、佐田の山ら見当たらない力士がいる。博物館職員は苦心したと思うが、さすがに貴乃花とその父、兄の「不在」は不自然に見えた。

記憶に新しい「貴の乱」

貴乃花は現役引退後に一代年寄・貴乃花親方として貴景勝(現湊川親方)らを育てる一方、協会理事としては「改革」を訴え、相撲協会執行部と激しい対立を繰り広げた末、2018年に協会を去った。数年におよぶ争いは「貴の乱」として記憶に新しい。

現役時代からの国民的人気もあって大多数のファンやマスコミが貴乃花親方の味方につき、親方衆にも支持者がいて、相撲協会執行部は完全に悪役だった。やがて徐々にわかってきたことが協会内にも伝わるなどして形勢が変わり、協会退職に至ったのだが、当時、貴乃花親方と対立した親方たちの中にも、今回の展示には「現役時代は別だろうに」と驚く人が少なくない。早くから距離を置く記事を書いていた私もそう思う。

パン・アメリカン航空賞のトロフィーと栃錦に贈られたレプリカなど

数年前、「道産子力士」展が開かれた際には大鵬、北の富士、北の湖、千代の富士ら多くの北海道出身力士とともに双津竜の写真が飾られていた。親方になって時津風部屋を継ぎ、2007年に数人の弟子が若手力士を死亡させた傷害致死事件で逮捕された人だ。相撲史の一大汚点となった事件だが、力士としては「ゾウさん」と呼ばれる巨漢で、輪島や北の湖の時代に小結まで上がった。

当時、展示を見たある親方は「不祥事を起こした人を外したら、誰もいなくなっちゃうよ」と自虐的に笑った後、「まあ、こういうところがこの世界らしさかな。懐が深いと言っていいのかわからんけど」と続けた。

ノムさんが戻った南海ホークス

かつてプロ野球・南海ホークス(現ソフトバンク)の本拠地だった大阪球場の跡地に、南海ホークス・メモリアルギャラリーができた時、「野村克也」の「の」の字もなかった。ユニホームなどの品々どころか、詳細な年表に野村監督時代だけ監督名の記載がないほどの徹底ぶりだった。

1977年に監督を解任されたしこりから、家族が展示を拒絶していると聞いたが、それでなくとも1988年に球団がダイエーへ身売りされて福岡へ移転し、寂しくなった南海ファンは、やりきれない思いだった。そのギャラリーも、2020年に野村さんが亡くなった後、元南海・阪神投手の江本孟紀さんらの尽力でリニューアルされ、野村さんの名や品々が見られるようになった。

両国駅のホームからも見える位置に掲出された100周年の看板

平成の名横綱をなきものにする大胆な選別が、博物館職員の判断で行えるはずはない。誰の意思が働いた結果なのか―。ただ、それを詮索するよりも、気づいた人たちがどんな気持ちになり、今の相撲協会にどんな印象を持つだろうか、と考えてしまう。このところ急増した新しい観客に、後味の悪い、不自然な歴史を見せることが、大相撲文化の伝承になるのだろうか。

相撲博物館にも70年の歴史があり、蔵前国技館の開館とともに誕生して以来、相撲に関する貴重な資料を収集・保存し、公開して人々に楽しく相撲の歴史を知ってもらう努力を重ねてきた。東京場所中や引退相撲の日などは、多くの来場者でにぎわっている。

企画は年3回の東京場所ごとに替わり、とりわけ今回の「優勝力士」展も4月17日まで予定されている。一般の美術館・博物館などでは長期間の展覧会に途中の展示替えが付きものだ。今からでも、多くのファンに100周年を気持ちよく祝ってもらえるものになればと思う。

相撲博物館は東京場所開催中でない時も開館しており、入館無料(東京場所中と引退相撲の日は入場券で入った人のみ入館可)。休館日などは相撲協会のHPに掲載されている。(2025.1.31)


いいなと思ったら応援しよう!