昔好きだった先輩が書く文字
その先輩はとてもしっかりしていて、アルバイト先で誰よりも多く仕事が任される先輩だった。
僕がわからない仕事を快く教えてくれて、急いで品を取りに行かなければならないときには率先して取りに行ってくれて、手元が忙しいときには上司にもはっきりと謝ってから断ることができ、失敗しても前を見続ける、そんな先輩だ。
きっと僕だけではないだろう。彼女の働きぶりが賢明で、かつ信頼のおけるデキる人物だと捉えることは。
月日が経ち、その先輩とは学業の話題で盛り上がることができるほど距離が縮まった。
(別に好意はない。ただ、この人物に僕も助けられ、高まるこの気持ちは単なる憧れの的なだけだ、と)
お互いの共通の好みである小動物飼育の話で、アルバイトの休憩時間を二人きりで過ごしていたある日のこと、僕は先輩に大学生活の話題を持ちかけた。話は冷めることなく、生命科学を学ぶ普段の学生生活も知ることができ、とても有意義な会話をした。そして、僕が生物学に関するアカデミックな話を深堀して振った瞬間の彼女の瞳は一段と瞬き、薄ら紅い口紅を纏った口元が綻んだのを確認した。
(彼女の人間的な可能性はどこまで広大で、どんな領域にまで関心があるのだろうか、)
饒舌に語る彼女の横顔を見、それを彼女も察したのか今度は携帯電話に入った研究内容の資料を僕に見せてくれると言う。
その時小さな斜めがけのショルダーバッグに手を入れて取り出そうとすると、丸いメモ書きが一緒にひらひらと舞い落ちた。
すかさず僕は拾い上げ、慌てる様子もなかった先輩の目を盗み、ちらっとメモ書きの内容に目を移してみると、そこにはアルバイトで覚えたことをまとめた文章がいくつか並んでいた。
僕はその一瞬で頬が熱くなった。それは、普段は強い意志で力強く生きている先輩の書く文字があまりにも貧弱で、角が削られていて、漢字の画数が常に−2, 3 されているような書体を目撃してしまったからだ。
思った。僕の考えている先輩の人間像はあくまで客観なものなのだと。客観では捉えきれない内面が、この輝く瞳を持った先輩の中にはまだまだ残されているのだと。
見当もつかなかった文字を書く、この人のことを知りたい。その貧弱な文字のように弱い性格や一面が垣間見れるのならば、教えて欲しい。 もっと近づきたい。
瞬間的に起こった出来事だったけど、わかったことは今後を大きく変えてしまうようなことで。
(この確かな好意に嘘をつくことはできないよ。)
昔好きだった先輩のテキストにやられた。
そんな事実を今明かしたい。
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