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母に最後のありがとう
感情が見えなくなった母に語りかける
母が旅立つ10日ほどだっただろうか。「身を守って生きていきなさい」という母からの手紙を読んだ私は、感情を見せずに横になっている母に語りかけた。
今は元気でいること、不安な事もあるけど頑張って生きていくから安心して欲しい。いっぱい感謝していること。母が1人残されたら一緒に住みたかったこと。母、強かったね。
色々叶えてあげられなくてごめんなさい
これは私から母への最後の言葉だった。一人じゃなかったら恥ずかしくて口にはできない。
こう本人の耳元で伝えると、母は片方の目からボロボロと涙をこぼした。
その涙を見て私も泣いてしまった。母の涙を拭いて手を握ったら、ものすごく強く握り返してきた。母の握った手が痛かったが、母の方から離すまで私はそのままでいた。
ここ数年私は母を守るという役目だった。手を握るとき私は守る側の手で握っていた。でもこの時、私を守るお母さんの手を思い出して、また泣けた。
そしてここから1週間後の訪問が最期になった。
最後に意思の疎通ができた日
目を開けている母と最後に会ったのは、母が深い眠りにおちる前日、12月31日だった。
その日は珍しく父と私の2人での訪問だった。母は車椅子に座っていたが、何を問いかけても返事もなかった。父が横にいるからかな、などと思っていた。
YouTubeでミサを見てもらった
ふと、思いたって私は自分のスマホで12月24日に四谷のイグナチオ教会で行われたクリスマスミサをYouTubeで母に見せた。
すると、それまでボーっとしていた母の顔つきが突然変わった。片手で私のスマホをギュッと強く握りながら食い入るように見つめ、もう片方の手で一生懸命画面を撫でるように触れていた。父も驚いていた。
ミサの最後の聖歌、もろびとこぞりてを聞いてもらい私達は帰ることにした。
ちょうどお昼のタイミングでもあり、職員さんと一緒に私達を見送ってくれた。車椅子の母は顔をあげることが難しかったので、私はしゃがんで手を振った。母は表情こそ変わらなかったが、一生懸命バイバイをしてくれた。
母は次の日から最期の時まで目を開けることなく、ひたすら眠り続けた。結果的に車椅子からのバイバイが母とのさよならになった。
母をみおくってから
母の命の期限は迫っているのは感じていたし、もう楽になれたのだから良いだろうとは当然思っている。
それでもあの時ああしてあげれば、とか、こんなこともしてあげられなかった。とか、ふとした時に込み上げてくる。子どもの頃からたまに重い病気にかかってきた私。健康面で心配させていただろうなとか。
だけど、そんな時思い直して自分に言い聞かせる。もう90なんだから、十分生きたんだからそれでいいんだ。
『人と言うのは聞けなくなっても聞こえる』らしい。看護師の皆さんがそう言っていたのだ。それが本当であれば、伝えたいことは伝わったと思って良いのだろう。
長年行くことができなかった教会のミサの様子も最期に感じてもらえたこともよかったと思う。
母をみおくってからは、色々な気持ちが堂々巡りしていた。
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母について、クヨクヨと綴る自分がなんとなく嫌だ。とは思ったけれど、もう少し書いてみたいと思います。重い読み物でも差し障りのない方はお付き合い頂ければと思います。