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ラファエル前派のモデル エリザベス・シダル

2014年にブログに投稿した記事の転載です。


Elizabeth Siddal (1829-62)

ロセッティによる水彩スケッチ、1854年頃、デラウェア美術館

金属加工職人の娘としてシェフィールドに生まれる。ロンドンに移住し、婦人帽子店に勤務していたところ、画家のデヴァレルに見出された。長身で赤毛の容姿は、当時の美の基準からは外れたものであったが、ラファエル前派のお気に入りのモデルだった。デヴァレル、ホルマン・ハント、ロセッティの作品に描かれた。特にJ.E.ミレーの「オフィーリア」は有名である。ロセッティの愛人となってからは、他の画家のモデルとなることはなかった。芸術家と交流を深め、自らも詩と絵画の才能を発揮した。ラファエル前派の庇護者であったラスキンの金銭的援助を受け、絵画を学んだ。しかし、健康状態の悪化により、プロの画家となることは断念した。D.G.ロセッティと婚約するも、彼には他にも愛人があり、結婚に消極的だったため、二人の婚約期間は10年に及んだ。抑うつ状態にあったエリザベスは、当時広く普及していた毒性のある鎮静剤のアヘンチンキに依存するようになった。結婚後2年ほどでアヘンチンキの過剰服用により死亡。

モデルをつとめた主な作品

デヴァレル《十二夜》

デヴァレル《十二夜》フォーブス・マガジン・コレクション、1850年

赤いチュニックを着た、ヴァイオラ(シェイクスピアの『十二夜』のヒロイン。男装している)のモデルがエリザベス・シダル、その隣に座っているオーシーノー公爵のモデルがデヴァレルで、道化のフェステのモデルがロセッティ。エリザベスの、モデルデビュー作です。ラファエル前派の画家たちは、街に出て美しい少女を見つけるとモデルとしてスカウトしました。モデルたちはstunner(驚くほどの美人)と呼ばれました。描かれた場面で、オーシーノーは自分の思いに応えてくれない、オリヴィア姫のつれなさを嘆いているところです。一方、公爵の目を覗き込むヴァイオラは、密かに公爵に恋をしています。本作は、家の内側から光が発しているように描かれており、辻褄が合わないとも言われています。デヴァレルは短命で、のこされている作品数は少ないです。

ウォルター・デヴァレルは正確には「ラファエル前派兄弟団」の一員ではありませんでしたが、ロセッティと親しく付き合い、グループの理念に共感していたことから、分類としては「ラファエル前派」として間違いないと思います。Pre-Raphaelite Brotherhoodの結成メンバーはホルマン・ハント、ロセッティ、J.E.ミレーの3人ですが、メンバーと交流があり、影響を受けている画家は広く「ラファエル前派」とされるようです。細かい分類については、英語版Wikipediaの記事に書かれています。

ホルマン・ハント《ヴェローナの二紳士》

ウィリアム・ホルマン・ハント《プローテュースからシルヴィアを救うプヴァレンタイン》バーミンガム市美術館、1851年

ホルマン・ハントはロイヤル・アカデミーでロセッティと知り合い、J.E.ミレーも交えて「ラファエル前派兄弟団」を結成しました。画面中央に膝をついている、シルヴィアのモデルがエリザベスです。シェイクスピアの『ヴェローナの二紳士』のワンシーンです。衣装の質感や、足元の植物まで、ラファエル前派らしい鮮やかな色彩で、精密に描かれています。批評家には酷評されたものの、ラスキンは細部や色彩を賞賛しました。しかし、シルヴィアについては、「男が一目惚れするような女性ではない」と言っています。

J.E.ミレー《オフィーリア》

J.E.ミレー「オフィーリア」テイト美術館、1851年

ハムレットのヒロインを主題とした数多い絵画の中でも、もっとも成功したうちの1枚です。『ハムレット』の舞台はデンマークですが、本作の背景はイギリスの田園地方で、精緻な観察を元に描かれました。戸外で、1センチ四方を何時間もかけて描く作業は重労働であったとミレーが述べています。植物の繊細な表現は目覚ましいもので、草花には象徴的な意味や、花言葉などが隠されています。また、右下の葉の間には、ドクロが描き込まれている、と主張する批評家もいますが、それが本当に意図して描かれたのか、たまたまそう見えるだけなのかは不明です。19歳だったエリザベスはバスタブに浸かってモデルを務めましたが、冷たい水に長時間浸かっていたため、肺炎を発症しました。漱石の『草枕』にも「ミレイのオフェリヤ」への言及があります。また、2012年にtwitter上でラファエル前派作品の人気投票が行われたところ、本作が1位になったそうです。出典

ロセッティの作品

ロセッティ《ハムレットとオフィーリア》1858年、大英博物館

同じテーマを、同じモデルを使って描いても、ロセッティとミレーでアプローチの仕方が異なります。これは、ハムレットがオフィーリアに「尼寺へ行け」と言い、オフィーリアがこれまでにもらったものを返そうとしている場面です。オフィーリアが座っている、椅子の横に置かれているキリスト磔刑の像に呼応しているかのようなハムレットのポーズと、背景の滑り台か螺旋階段のように見えるものが気になります。

D.G.ロセッティ《至福のベアトリーチェ》テイト美術館、1870年ころ

ロセッティは、イタリア系であること、ファーストネームに「ダンテ」とついていること、詩を書くことなどから自分をダンテと重ね、恋人のエリザベスをダンテの理想の人、ベアトリーチェと重ねました。ロセッティがエリザベスをモデルに描いたのは、ダンテの詩に取材した作品が多いです。また、エリザベスがモデルとなった作品には、一緒に天使が描かれていることもあります。ダンテがベアトリーチェを理想化していたように、ロセッティもまたエリザベスを理想化し、霊的、精神的な愛の対象とみなしていたようです。それがもっとも顕著に表れているのは、エリザベスの死後に完成された《至福のベアトリーチェ》であると言われています。一方で、ロセッティは他所に現世的な愛を求め、エリザベスはそのことを苦にしていました。なお、「twitter投票」における人気第2位は本作でした。

ロセッティによるスケッチ、1855年、アシュモリーン美術館
ロセッティによるスケッチ

ロセッティはエリザベスのスケッチを多く描き、その数1000枚とも言われています。

エリザベスの容貌はヴィクトリア朝の美人の好みとはかけ離れており、実際に会ったことがあって「エリザベス・シダルを美人とは思わなかった」という証言をのこしている人もいます。しかし、赤毛で、長身で、堂々とした「ラファエル前派式」美人のルーツの一人といえます。

ロセッティと愛人関係にあったのは、エリザベスとは対照的なタイプのファニー・コーンフォースや、ウィリアム・モリス夫人で、ロセッティの後期の作品のミューズとなったジェーンなどです。エリザベスは婚約者という立場を他の愛人に取って代わられるのではないかとおそれていました。

エリザベスは遺書のようなメモも遺しており、自殺と考えられる死でしたが、当時自殺者は教会の墓地に葬られることができないなど、不利を被るため、遺族は自殺であったことを隠しました。すると、世間では「ロセッティは妻を殺害した」という噂が流れました。ロセッティは妻の棺に自作の詩の原稿を入れて葬りましたが、後に墓を掘り起こしました。

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