連載11/12 ミュンヘン派
ミュンヘン派の指導者
19世紀ドイツのアカデミズムは、デュッセルドルフ派もありますが、その期間は1819-1918年に及び、「デュッセルドルフ派」と分類される画家は4,000人に上ります。100年間の長期間に輩出された数千人という画家が、一つの傾向によって分類できるか疑問ですし、多すぎて手に負えないので、取り上げないことにします。ミュンヘン・アカデミーを中心とする「ミュンヘン派」はカウルバッハとピロティが学長をつとめた1850-1918の期間で、代表的な画家は100人もいるわけではありませんが、温かい雰囲気の子供の絵の画家、ゲオルク・ヤコビデスや、神秘主義にも傾倒したガブリエル・フォン・マックス、ウィーンで一世を風靡したハンス・マカルトの興味深い作品があります。
ミュンヘン・アカデミーの学長は、1849年にカウルバッハ(1805-74)が就任しました。また、1856年に教授となり、74年にカウルバッハの後任として学長になったカール・フォン・ピロティ(1850-1918)はミュンヘン派を率いる存在でした。カウルバッハは、ナザレ派のペーター・コルネリウスの後任であり、中世リヴァイヴァルの壁画やフレスコ画を描いています。ピロティは、ミュンヘンアカデミーで学び、風俗画や歴史画を得意とし、ミュンヘンの王宮の壁画を描きました。当時、ドイツのリアリズム美術を代表する画家でしたが、今日ではむしろ教師としての評価が高いようです。弟子にヤコビデス、マカルト、フォン・マックス、レンバッハ等がいます。
ガブリエル・フォン・マックス(1840-1915、墺)
プラハ、ウィーン、ミュンヘンのアカデミーに学びました。ミュンヘンアカデミーで教鞭をとり、後年は貴族に叙されました。抑えた色彩で、宗教的もしくは、神秘的・象徴主義的な作品を描きました。超心理学、ダーウィニズム、アジア哲学に傾倒し、神智学協会の会員でもありました。先史時代の民俗学に関する大きなコレクションを所有し、ペットとしてたくさんのサルを飼育し、時には擬人化した姿で、サルの絵も多く描きました。ピロティの弟子ですが、風俗画や歴史画はのこしていません。
ハンス・マカルト(1840-84、墺)
ウィーンアカデミーに学びましたが、才能がない、と言われて退学になり、ミュンヘンでピロティに師事しました。後にウィーンに戻り、絵画の他、家具やインテリア、衣装のデザインも行いました。1870年代には売れっ子となって「マカルト様式」という言葉が生まれたほどでした。1879年の、フランツ・ヨーゼフ皇帝と皇妃エリザベートの銀婚式では、パレードの背景や衣装、車をすべて一人でデザインし、自ら白馬に乗ってパレードを先導しました。この「マカルトパレード」は1960年代まで、ウィーンの名物だったそうです。ガブリエル・フォン・マックスが古代の珍品やサルに囲まれて暮らしたところ、マカルトは彫像や楽器、宝石などを収集し、そのアトリエは美の殿堂のようだった、とヴァーグナー夫人は記しています。皇帝から寝室のデザインを請負いましたが、制作途中で亡くなりました。