ゴー・ビトゥイーンズ展 こどもを通してみる世界

すべりこみ。

相変わらず荷物が多かったが、ロッカーに預けようかな〜という考えは展示へ直行したいという思いに負けました。

以下ネタバレ。


ダンボールで作った数字のオブジェ、よかったな。機械でやってるのかもしれないけど、きっとラフを引いたのは人間の手だ(そりゃそうだ)と感じるものは、ちょいださで良い存在感をにじみだすなあ。

イラストとかグラフィックや絵画はあまり無く、映像と写真がほとんど。前の会社で、わざわざ写真を大学で学ぶ感覚、わかんない、って言っていたデザイナーがいて、私もそのとき、うん、確かにわからん。ってちょっと思ったんだけど、今の仕事で写真のレタッチがわりと大切な要素になる作業をちょっとしてて、光の加減、白黒にしたときのまろやかさ、逆にビビットさ、表情の発見、そもそも何をとらえてるか、無難ではない遊び心、余白、そういうのぜんぶほんとにとても難しいと思っていて、フォトグラファーすごいって最近おもってる。ナマモノだもの。まあ、学ぶ感覚わかんない、っていうのは変わらないんだけど。ただそれを生業にするっていう本気の部分を、もっと知りたくなった。

雨のなか、ひとりの女の子がケーキを切り分ける映像は、鋭くて目が離せなかった。女の子は絶望もしない、希望もしてない、ただ目の前の作業は、私がやるんだ、という使命感を感じさせた。

こどものときは、世界はそうやって、私とはべつのもの、ただ存在していて、大きなもの。とても雑なひとがうんと雑にざくざくいっぱい大きな何かを切り刻んでたものが私にとっての世界だった。

水がひたひたになる感覚、冷たい雨、そして雨が降るときはたいてい薄暗くて、私の場合はさす傘が地味だった。単色な水色か紺色。おとなになってからはビニール傘。それを改めて思い返す。

こどものときは、記憶にない。ただ仲良くなりたかったら、仲良くなれたし、特に仲のよい友達とは手をつないで、たまに無性に傷つけたくなった。(昔からひねくれてたんだな)

自意識と世界へたいする好奇心のバランスがとれていて、からだは自分のもの、もちろん上手く使えないときは沢山あるけれども、意思にそくしてぶらぶらと動かせる。軽いから余計に。

私たちおとなが、そうやってこどもをこどもたらせる物理的な要素を失ったとしても、失わないでいられるものはなんなのだろうか。


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