於茂登 ーふるさとは今も基地のなかにあるー
「こんな山の中に集落ができるのかと半信半疑だったさ」
96歳の喜友名朝徳さんは、昨日のことを思い出すようにそう言って笑った。
2月とはいえ、晴天の日の石垣島は暖かい。縁側から差し込む光が、朝徳さんの顔に刻まれたシワを、くっきりと照らしている。
荒野を拓く
1957年5月、朝徳さんは計画移民先遣隊の1人として、沖縄島から石垣島へと410キロの距離を渡って来た。船には、すぐに住めるようにと分解したトタンぶきの家屋をそのまま乗せていたという。入島後まず、先遣隊は教育長事務所を訪れ、入植地への学校の設立を訴えている。新たな地域をつくる彼らにとって、子ども達の教育は重要なことだった。
翌日、島のほぼ中心にある於茂登岳麓の入植地、真栄里山(現在の於茂登)までやって来て、土地を見た誰もが「はやまったのではないか」と心の中で思った。山あり谷あり、あちこちから水の流れがあり、土地は石だらけだった。
それでも与えられた土地は1.5ヘクタールある。
故郷の北谷村では、戦後90%以上の土地が米軍に接収されていた。朝徳さんの家族も家や畑、お墓までを奪われ、貧しい暮らしだった。
「腹いっぱい芋を食べたい」それが正直な気持ちだった。
海を渡って沖縄島からやって来たのは朝徳さんら北谷村出身者が11名、玉城村出身者が7名。2ヶ月後には与那国島出身者2名が合流した。
20名の開拓者は、自分たちの食料となるサツマイモから栽培を始め、農地づくりに取り組んだ。荒れた土地を水牛で耕し、水を入れてはまた耕す。痩せ土なので、木の葉や草を撒いて人間がそのうえを踏んで肥やしていく。
同時に山から木を切り出し、皆で20戸の家を建てた。もとは大工だった朝徳さんの腕が活かされた。
そうして同年12月には、先遣隊の家族たちが迎え入れられた。
朝徳さん34歳の時である。
入植から5年が経った1962年、集落の名は「真栄里山」から「於茂登(おもと)」に変わる。新たな名前は皆での投票で決め、「於茂登」を希望する者が最も多かったという。私はそこに、沖縄県内一高く、水の聖地である於茂登岳の麓に生きる者の誇りを感じた。
しかし豊かな水の恵みがありながら、当初はそれをどのように農業用水、生活用水として供給すべきかに最も頭を痛めていたと、朝徳さんは振り返る。
命をめぐる水と生きて
朝徳さんからお話を聴いた数日後、私は嶺井善さんと於茂登岳を登っていた。
話に聴いた用水の供給システムと、山を流れる水を肌で知っておきたいと思ったからだ。
善さんは、沖縄島南部の玉城村から来た開拓者の2世で、於茂登でウコンやサトウキビを育てている。自然のサイクルや山にいる動植物などの知識も豊富だ。そしてなぜか善さんと一緒にいるときにばかり、特別天然記念物のカンムリワシに遭遇する。
「山で切った木を下ろす時にできたさ」
足元を指差し、善さんは言う。入植当時、建物をつくるため、繰り返し丸太を滑らせていた部分が溝になって残っている。
途中、石碑があり、善さんはその前で手を合わせる。
朝徳さんたちは、山中で見つけたこの石を担いで下山し、文字を彫った後にふたたび担ぎ上げ、この場所まで登った。その様子を、善さんはよく覚えていた。
石碑には『大御岳ぬ清水(ウフ ウタキヌ シミズ)』と彫られ、その裏側には於茂登の水の恵みにより集落が繁栄したことが記されていた。鬱蒼と茂る木々の合間から、左上が欠けたようなその石碑にだけ光が差した。
「ウフ ウタキヌ シミズ」
たどたどしく呟き、私も手を合わせる。
「自分たちは、自然に流れる水を分けていただく」
善さんが、ぽつりと言う。
足もとを流れゆく水は、森や畑で命を育み、人々の暮らしをめぐって、やがて空にかえり、ふたたび山に降りそそぐ。永遠の循環を思う。
於茂登開拓一世の方々は、ダムをつくり電気の力で水を送るやり方を選ばなかった。パイプで水をタンクに集め、タンクから低い位置へ自然流下させて畑や集落へと送る方法を考え、そのシステムが今も於茂登を潤している。
帰り道、林の中を案内してもらった。戦時中に山の中で暮らした方々の茶碗や瓶のかけらがまだ残っているという。石垣島では地上戦はなかったが、日本軍の指示により住民は山の中へと強制移動させられた。そこはマラリアの有病地で、石垣島では2,496名の人たちが命を落とした。朝徳さんらがこの島に来る12年前のことだ。
林の奥深く、歩き慣れていない私は、善さんを見失った。
360度の木々、人工物はまったくない。強い風が吹いて葉がざあっと音を立てる。ふと思った。私は今、本当に2020年に存在しているのだろうか。確証が持てなかった。耳を澄まして聴こえてくるのは、軍人の怒号か、開拓者たちが木を切る掛け声か。
――響いているのは於茂登岳の南側、平得大俣で岩を砕く音だった。
我に返る。善さんの姿を見つけた私は、また歩き出した。
平得大俣では、1 年前から自衛隊の基地建設工事が始まっていた。国は、九州南方から与那国島までの南西諸島にミサイル部隊を中心とした自衛隊配備計画を進めている。2015年に防衛省は石垣島に受け入れを要請、候補地を平得大俣とした。このことを新聞記事で知ったという周辺地域の住民も少なくなかった。
「山から流れる水や降った雨が、島の中央の低地の深いところに溜められ、その地下水は市の水の2〜3割を賄っている。水源地であり地下ダムでもある場所の上に基地を持って来て・・汚染の心配をしながら水を使うことになるのか」
善さんは嘆く。
朝徳さんらが故郷、北谷村を去る原因となった米軍嘉手納基地や、普天間基地周辺では、泡消火剤由来とみられる高濃度のPFAS(有機フッ素化合物)が検出され、大きな問題となっている。また、航空自衛隊那覇基地でも泡消火剤が流出して周辺が汚染される事故が起こっている。
国がやる仕事は自分たちにはどうにもできない、と朝徳さんは語る。
「沖縄島で基地ができたからこっちに来たのに、こっちでも基地がつくられるなんて」
笑いながら繰り返しそう呟き、そのまま口を閉ざした。
*
この年の6月。私は北谷町(もと北谷村)の上勢頭で、フェンスの向こうに広がる嘉手納基地を見ていた。梅雨の時期らしくない、よく晴れた日だった。
朝徳さんのふるさとは、今もこの基地の中にある。
朝徳さんはこの地で生まれ育った。だが戦争が始まり、台湾へと出征することになる。終戦は22歳の時にフィリピンで迎えたが1年ほど捕虜として拘束され、その後ようやく北谷村に戻った。沖縄の地上戦を知らぬ朝徳さんが、この時にみたふるさとの光景はどのようなものだったろう。
朝徳さんから家族を、ふるさとを奪った戦争は、本当にもう終わったのだろうか。
戦闘機が轟音を立てながら空を裂いていった。
やがて来る季節に
2021年10月、於茂登。
伊良皆高虎さんは、自身が育てた月桃のハーブティーを慣れた手つきで淹れてくれた。南国の薬草の豊かな香りが、部屋じゅうに広がる。
高虎さんは、与那国島出身の於茂登開拓者の3世にあたる。高校を卒業して石垣島から沖縄島へ渡り、専門学校で学ぶために北谷町の上勢頭で暮らしはじめた。戦闘機の轟音は想像を遥かに超えるもので驚いたという。そしてその音にも少しは慣れはじめた頃、そこが彼の故郷、於茂登の朝徳おじいたちが生まれ育った地だと知った。
「初めは深く考えてなかったですよ、ただ “へぇ〜”って」
高虎さんは、上勢頭での当時を振り返る。
「しばらくしてからかな。住んでたとこから全島エイサーの会場がたまたま近くて、ぶらっと歩いて行ったんですよ。そしたら北谷のエイサーをやってて・・」
沖縄の伝統芸能のひとつ、エイサー。全島エイサー祭は毎年コザで行われる大きなイベントで、集まった人々がそれぞれの地域のエイサーを踊る。 その熱気に包まれたコザ運動公園に、高⻁さんは導かれたのだった。
荒地を拓き、水をひき、一から集落の礎を築き、教育も大切にしてきた朝徳さんら於茂登の開拓1世の人々は、生活が落ち着きはじめた頃、この地域で繋いでゆく文化・行事にも力を入れようと話し合い、自分たちのルーツでもある北谷のエイサーを継承する「おもとエイサー」を誕生させた。
まず北谷から指導員を呼び、猛特訓が行われた。この時じかに学んだのが、当時まだ中学生だった善さんだった。高虎さんは、その善さんから教わった世代だ。生まれた時からおもとエイサーが身近にあり、その源流と集落の歴史はもちろん知っていたが、子どもの頃は多くがそうであるように深く捉えてはいなかった。
「感動しましたね。めちゃめちゃかっこよかったんですよ」
高虎さんは、コザでの北谷エイサーを思い出し、目を輝かせた。
「大昔から受け継がれて来た・・受け継がれつづけて来た。そして自分たちも知らず知らず受け継いでいた。エイサーをやっていたことが、自分の中でちょっと誇りになって。それからエイサーが好きになりました」
今では地元の小学校で、善さんと共に「おもとエイサー」を教えている。
専門学校卒業後、高虎さんはしばらく沖縄島で働いていたが、父親が体調を崩したことをきっかけに於茂登に戻り、家業のハーブティーを生産する農家を継いだ。
「後を継ぐことはないと思い島を出ていましたが、昔から美味しいと思って飲んでいたお茶。それがなくなってしまうのはもったいないと、この時思ったんです」
近隣地域である平得大俣への基地建設。
高虎さんは、必要ならば自衛隊の配備はあってもいいという考えだ。ただ国や市だけで進めるのではなく、市民に情報を開示し、その声を聴いて、いらないという声が多いのならつくるべきではないと考えている。
市民によるこの地域への配備計画の賛否を問う住民投票を行おうと、彼は仲間たちと活動し、多くの島人たちの支持を得た。けれども石垣市側は実施を拒んだ。
それでも声を上げつづけるのは、さらに次の世代が暮らしやすい社会を残せるよう、住民の権利を証明するためでもある。
自分たちの地域のことを、自分たちで話し合って、決めていくー。
お話を聴きながら、ハーブティーをいただく。
この月桃が根を広げる土の歴史を、それを育んだ水の清らかさを、私は知った。
今日も変わらぬ雄大な於茂登岳と、その麓で紡がれる人々のものがたり。
どこか遠い地にいる人々に、そっと話してみたいと思った。
文・写真/蔵原実花子
*表紙写真(入植先発隊)出展・参考文献/「入植50周年記念誌 土と緑と太陽と」
*本文は、international art zine「NEW SONG 2nd issue “SOMEWHERE ELSE”」(編集/蜂谷翔子・2022年)に掲載された短編『於茂登-OMOTO-』を再編集し、公開しています。
追記
喜友名朝徳さんからお話を伺い、嶺井善さんと於茂登岳に登ったのは、2020年2月のことでした。それから3年後の2023年3月16日、工事完了を待たず、陸上自衛隊石垣駐屯地は開設。翌々日にはミサイルが石垣島に持ち込まれ、於茂登岳麓の駐屯地に搬入されました。弾薬庫は、住民の生活の場と目と鼻の先に配置されています。
伊良皆高虎さんが参加する住民投票運動は、現在2つ目の裁判である当事者訴訟が結審、5月23日に那覇地裁で判決が言い渡されます。原告の市民の投票する権利、市長の実施義務について、司法の判断が注目されます。
関連作品
● 映像ドキュメンタリー
「於茂登 命をめぐる水と生きて」(制作/蔵原実花子・2020年)
「つなぎゆく〜石垣島住民投票 3年目の秋に〜」(制作/蔵原実花子・2022年)
● note ルポルタージュ
(文・写真/蔵原実花子)
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