テレビ史の内側 #1 齋藤太朗編「光子の窓」「シャボン玉ホリデー」バラエティの最初の最初
「みんなのテレビの記憶」プロジェクトの中核企画として「創世記のテレビマンたちの証言を聞いて残す”テレビ史の内側”」があります。Youtubeで配信を始めましたが、こちらでテキストに起こしたものも残していきたいと思います。
土屋:今日は、よろしくお願いいたします。
齋藤:よろしくお願いします。
土屋:まず、一番最近の話をお聞きしたいと思うんですけど。
齋藤:最近?
土屋:はい。欽ちゃんの『仮装大賞』を「もうこれで僕、辞めるから」とおっしゃった時、あの時は、現場にいらっしゃって、どう思われたんですか?
齋藤:まあ、言うけど、「そんなことはねえ、まだやるだろうな」と、僕は簡単に思っていましたけどね。
土屋:あの直後に、僕、ちょっと欽ちゃんから話を聞いたんですけど、齋藤さんと一緒に始めた番組だ、と。その斎藤さんが本番の日は来てくれてるけど、どうもやっていない、と。
齋藤:そうなんですよ(笑)。
土屋:斎藤さんがやっていないのに、一緒に始めた俺がやってんのはおかしいじゃないかってのが一番大きい。
齋藤:まあ、あの人の理屈ですね。
土屋:はい。
齋藤:もっともね、欽ちゃんは最初から言っていたんです。僕が辞める時には僕も辞める、と。だから、その意味からいくと、本当にもう、ずっと早くに辞めなきゃいけなかった。
土屋:それを一番おっしゃっていましたね、辞めた理由の一番は。
齋藤:そうですか。
土屋:もちろんコロナのこととか、いろいろなことがあったんですけど、それをおっしゃっていまして、それを言って本番が終わった後に、斎藤さんが欽ちゃんのところにいらっしゃって、黙って握手をしたっていうふうに、欽ちゃん、おっしゃっていたんですけど。
齋藤:「聞いてたよ。まあ、まあ。」っていうような気分で。
土屋:なるほど。
(仮装大賞が)スタートした年が1979年の年末だったと思うんですけど。
齋藤:そうですか。
土屋:あの年に僕、入社しまして。
齋藤:(笑)。
土屋:あの年は、多分『ズームイン!朝』が始まったのもあの年だったと思うんですけど。
齋藤:そうですね。
土屋:『ズームイン』が始まった年であり、その大晦日に『仮装大賞』の第1回が、コマの……
齋藤:そうそう、コマ劇場で。
土屋:コマ劇場で始まった。ですから、僕、あの現場、1年生で手伝いに行っています。
齋藤:ああ、そうなんですか。それはどうもお疲れさまでございました。暮れの『紅白歌合戦』の裏番組っていうのを誰かにやらせなきゃいけないっていうのは、会社としてあるわけですよね。
また今年もやらなきゃいけないけども、何しようかなっていう企画を考える会議っていうか、素人さんが集まって仮装をやるのをやっているっていう話がふと出てきまして。
土屋:それはイベントとして、どこかでやっているってことですか。
齋藤:そうなんですね。どこかの……
土屋:パフォーマンスみたいなかたちで?
齋藤:やっていらしたんですね。それ、ひょっとしたら面白いかもしれないなっていうので、欽ちゃんのところに持っていって、(他にも)これはこういうのと、こういうのと、こういうので、仮装でこういうので~って。この中からどれかやろうと思うんだけどって言って。
欽ちゃんが「どれやりたい?」って言うから「俺、この仮装のやつ、やりたいな」って言ったら「ほんじゃあ、それやろうよ」っていうのが始まりなんですよ。
土屋:なるほど。
齋藤:ところが、一般の方がいろいろ参加してくださったけど、仮装っていう言葉にアレして、来たのがオカマの人とかね、そういうのがものすごく多くて。要するに、男が女装をする、ただそれだけで、それも踊りなんかついてりゃあ、まだいい方で。1回目の優勝が蒸気機関車だったんですけど。
土屋:たばこをたくさんアレして。
齋藤:たばこをアレして。
土屋:あの優勝した蒸気機関車っていうのは、演出側が、ある種の仕込んだものなんですか?
齋藤:いやいやいや。
土屋:じゃなくて? 偶然に?
齋藤:だから、説明文には「いろいろなものに仮装しましょう」っていうことしか書いてないんですけど、それをちゃんと理解してくれた人がやってくれたんですよね。だから、予選行ってびっくりしましたよ。
土屋:予選は何日か前とか、ずいぶん前にやって?
齋藤:いや、もう3カ月ぐらい前から、だから地方に……
土屋:いろいろな所に行って?
齋藤:はい。日本中、とにかく飛び回っていました。もう全然、僕、休みなしで働いていましたからね。
土屋:それは伝統で、ずっといろいろな所での予選っていうのはやるんですよね。
齋藤:そうそう、やるの。
土屋:その中に、じゃあいたんだ、蒸気機関車が。
齋藤:そうそう。あの人は、どこの予選に来てくれたんだろうな。福島の人だったですからね。あれで一つの流れができて、以降、面白いのがいろいろと、プラネタリウムだとか、あとは変なのがいっぱい出てきて、面白かったです。
土屋:そういうことですね。名作、卓球とかピンポンのとか。
齋藤:あれはうまいと思うんだ。大名作ですけどね。
土屋:そうですよね。ってことは、本当に言ってみれば、素人一人で番組が決まったというか。
齋藤:そう、先々はね。
土屋:その蒸気機関車の方が、ひょっとしていなかったら……
齋藤:どうなっていたかですわね。
土屋:はあ~面白いですね。
齋藤:ええ。
土屋:それが30何年、98回続くことになるわけですもんね。面白いですね。
齋藤:(笑)。
土屋:時間をぐっと(巻き戻したいと思うんですけど)『光子の窓』というのは、いわゆる、それまでの音楽番組と全く違うというか、かなりバラエティー。
齋藤:そうです。
土屋:これもやっぱり、いわゆるアメリカにひな型があったという。
齋藤:いや、あれは井原さんはどうやって始めたんでしょうかね。最初から、ある程度バラエティーショーになってできていましたよ。
土屋:いわゆるバラエティーっていうと、なんとなくコントとか、ちょっと笑いがあったり。
齋藤:そうです。コントがあったり、歌があったり。
土屋:じゃあ『光子の窓』もやっぱりそういう。
齋藤:ダンスナンバーがあったり。
土屋:30分ですか?
齋藤:30分。
土屋:ゴールデン?
齋藤:日曜の夜、夕方6時半かな。
土屋:その頃に『光子の窓』というか、日本のバラエティーショーの最初がスタートしていたわけですね。
齋藤:そうです。その辺が、だから井原さんのすごいところですよ。
土屋:その時代のテレビの本を読むと、井原さんがアメリカに見にいって、それを輸入したというか、っていうかたちっていうふうに言われたりするんですけど、『光子の窓』。
齋藤:『光子の窓』、最初の時はね、そのまま始まったんです。それから、いつだったですかね? 1年も経ったか経たないかのところで、井原さんがアメリカに勉強しにいって、それでずいぶん変わりましたけども。
土屋:例えばどんなことが?
齋藤:例えばね、簡単な話ですけど、歌手が歌を歌う。ホリゾントの前に立って歌うというのが、例えば、セットがなければ、ホリゾントの前に立って歌う。
土屋:そうですね。照明で後ろから当ててというか。
齋藤:アメリカから帰ってきたら、スタジオの真ん中で歌うっていうふうになったんですよ。ホリゾントまでずっと距離があって、スタジオの真ん中で、カメラがこうやって歌う。照明もだから、バックライトも何も、みんなが真ん中にあるっていう、そういうのが例えばあるとか。
セットもですね、全部下に車をつけてね。
土屋:なるほど。それで動かすっていう。
齋藤:それでずっと動かして入れるとかっていう。
土屋:井原さんがアメリカで見たままを、とにかくどんどん輸入して。
齋藤:それまで日本は全部……
土屋:立て付けて、後ろに……
齋藤:正面と上手・下手にセットを作って何かやるとか、それも壁に張り付いてやっていたのが、真ん中でいろいろやるっていう。
あと、立ち位置なんかもね、書かないと、スタジオの真ん中だから、どこだかわかんないわけですよ。僕はフロマネやっていたんですけど、その頃、技術のバミさんっていう。
土屋:出た!
齋藤:バミさんっていう、うわばみのように酒を飲む人だったらしいんですよね。その人がね、台本の隅とか、いろいろ貼るのが好きな人でね、チョークで書くんじゃなくて、ビニールテープをちぎって貼ればいいじゃないかって。それで「バミさんのテープ」っていうんで。
土屋:で、「バミ」って。
齋藤:今だって「バミ」って言うでしょ?
土屋:言います、言います。
齋藤:それがだから元なんですよ。
土屋:へえ~!
齋藤:バミさんのテープを貼る。それがそのうちに「バミる」っていう動詞にまでなっちゃって。
土屋:なりましたね、なっています。「チョークじゃなくて、テープの方がいいじゃないか」って言ったのが、齋藤さん。
齋藤:そうそうそう。だから、セットなんかもさ、ガーッて出したり、引っ込めたりしなきゃいけない。全部だから、バミテープを。
土屋:ここまで出すんだっていう。
齋藤:「バミテープを」って、今、簡単に言うけど、ビニールテープを貼ってやるようになったんですね。
土屋:へえ~!
齋藤:そんなフロマネをやらせていただきましたよ。
プロデューサーは、井原さん、自分でやっているわけですけど、実務がありますから、実務の方をやっていたのが秋元(近史)さんで。その秋元さんが『光子の窓』を見ながら「よし! 俺もなんとかして、番組一つ作ってやるぞ!」って作ったのが『シャボン玉ホリデー』なんですよ。
土屋:それは秋元さん、企画書みたいなものを? というか、どういうふうに当時でいうと、番組が成立……
齋藤:僕ね、下っ端で、あんまりその辺のことはよくわからないんですけども、秋元さんは、ナベプロと仲良しだったですから、ナベプロでできるっていうことと。
土屋:齋藤さんは、じゃあ『シャボン玉』もフロマネ?
齋藤:最初はね。
土屋:年はいくつぐらい上になるんですか、秋元さんとか井原さんって。結構……
齋藤:井原さんはね、五つか六つ上だと思いますけど、秋元さんは三つぐらい上かな?
土屋:じゃあちょっと上ぐらいだけど、ディレクターとフロマネぐらいの感じっていうか。
齋藤:そうです。それでね、日曜日の夜にカラー放送が始まったんですよ。日本テレビとしては、いろいろ売りたいんだけども、お金、高いんですよね。スポンサーつかないんですよ、なかなか。
土屋:制作費が高いから、売値が高いと。
齋藤:売値も高いし、カラー持ってる人なんていないじゃないですか。だから、スポンサーも、別にカラーでやってもらう必要ないっていうんで、カラー番組っていうのが売れないんですよ。
土屋:あの歴史的な番組、安かったんだ。
齋藤:安かったんですよ。その安い予算でやるのに、渡辺プロの……
土屋:クレイジー(キャッツ)?
齋藤:まだ売れてないタレントですよ。クレイジーも全然売れてないですよ。
土屋:クレイジー、売れていないんですか?
齋藤:全然売れてないですよ。クレイジー・キャッツなんて、誰も知らないですよ。ピーナッツは、全くのど素人でしょ?
土屋:新人。
齋藤:だから、そういう安いタレントで。安いんですよ。
土屋:新人だけでやるから。
齋藤:本当に安かったみたいですよ。ナベプロの渡辺(晋)さんっていう人が、やっぱり先を見る目があった人なのかな。
土屋:なるほど。
齋藤:テレビっていうもので売っていけば、いずれ他でもって稼げばいいよと、人気になって、というようなことをお考えになって、始めたみたいですね。
土屋:『シャボン玉』っていうのは、新人の塊の番組なんだ。
齋藤:そうなんですよ。誰も知らないんですよ。
土屋:それこそ本当に、笑いが結構あるようなものなわけですよね? その笑いの部分は、当時の作家さんが書いていた?
齋藤:そうですね。前田武彦が1回目、書いているんじゃないですか? あと誰が書いてるんだ?
土屋:青島さんとか?
齋藤:津瀬宏。青島さんはね、だいぶ後になってから入っていると思いますけどね。
土屋:クレイジー本人たちも考えるんですかね?
齋藤:いえ、台本頼みで。
土屋:でも、今見ると、有名なあのオープニングのところで「モォ~」っていう、例えばああいうギャグは、じゃあ前田さんが書いてたってこと?
齋藤:あれは、秋元さんと前田さんとで作ったんですかね? 一発目は、牛乳石鹸だから「モォ~」っていうので終わりにしようっていうのを考えたんでしょうけどね。
土屋:へえ~!
齋藤:ただ、一つアレなのは、VTRが出てきたんですよね。カラーでVTRで撮れた。ただし、NGが出たらえらいことでしたけどね。もう27分いったところでもって、NGでもって、また頭から撮り直してって、編集が一切できないですから。
土屋:そうか、そうか。じゃあ、生じゃないんですか『シャボン玉』って。
齋藤:生ではないです。
土屋:じゃあ何日か前とかに撮って、それも完パケで、いわゆる。
齋藤:完パケに撮らなきゃいけない。テロップは当日入れるんですけどね。オンエアしながら入れるんですけど。
土屋:これは、なんでVTRにしたんですか? スケジュールか。
齋藤:そうね、VTRってのがやっと出てきてますね。だから『シャボン玉』の結構後だな、始まっているのは。
土屋:じゃあ『光子の窓』が終わった後に、秋元さんが「今度は俺が一発!」って言ってやったのかもしれないですね。
齋藤:『光子の窓』は白黒ですからね。
土屋:で、生でやっていて。でも、新人だっていうのは……
齋藤:ええ、新人集団ですよ。
土屋:テレビ史的にいうと、それまで、お笑いって演芸ですよね。寄席のところで笑わせたっていうのをそのままテレビでやっていうのが、テレビの中で笑いを作るっていうのは、やっぱり本格的に『シャボン玉』っていうことになるわけですけど。
齋藤:そうです。『光子の窓』でも、コントみたいなものは必ず入っていましたから。あの辺が、だから始まりといえば始まり。
ちょっと待ってください、その前から、音楽番組、ずっとやってきましたでしょう? 僕がちょうど入った頃に、歌と歌との間にいろいろなものを入れようよって、例えば踊りを入れるとか。音楽番組っていっても、本当、音楽しかやっていなかった。歌ばっかりやっていたんですよ。その間に踊りのシーンがあるとか、司会者がちょっと面白いことを言うとかっていうのをやっていて、そして、少しコントっぽいものをやろうかな、やってみたらどうだろうなっていうのが始まったのも、やっぱりその33年あたり。
土屋:『光子の窓』?
齋藤:『光子の窓』の前ですね。秋元さんがやっていた『ミュージックパラダイス』っていう木曜日のお昼の番組なんかで。
土屋:ちょっとそんなのをやる、と。
齋藤:ちょっと面白いことをやる。クレイジーのバンドギャグでやっていましたでしょ? そういうものを音楽番組に入れるっていうことすら、すでに新しいというようなところで。
土屋:NHKの『夢であいましょう』、あれはその時代ですよね?
齋藤:もうちょっと後ですね。
土屋:もうちょっと後か。じゃあ『光子の窓』の方が、バラエティーとしては先で。
齋藤:全然先です。
土屋:じゃあ逆にいうと、NHKがやったバラエティー的なものっていうのは、日本テレビよりも後ってこと?
齋藤:そう、ずっと後です。
土屋:バラエティーと純粋音楽班に、だんだん分かれていく感じになるんですか?
齋藤:音楽課っていうのは、いつなくなったんだか忘れましたけど。
土屋:制作局の中に音楽課という……
齋藤:「編成局音楽課」だったんです。音楽課の時から、ジャズ班とクラシック班だったんですけど、昔、テレビが始まった頃っていうのは、クラシック音楽とジャズ、ポピュラーばっかりだったのが、レコード会社が歌謡曲をいろいろ持ってきて、レコード会社名のついた番組がいっぱいあったじゃないですか。それをどこがやったかというと、クラシック班が結局やって、クラシックばっかりっていうのは、やっぱり堅苦しいもんだから、結局ジャズ班と歌謡班みたいになっちゃったんですよ。クラシック班なんだけど本来は。
土屋:なるほど。ジャズ班とクラシック班から、大きい流れでいうと、そうなのかもしれないですね。
齋藤:そうそう、バラエティー班と音楽番組だったから。
昔の音楽番組っていうのは、ディレクターが歌手をまず入れて、そして、曲目もディレクターが考えるんですよね。もちろん、ご本人と相談したりもするんですけども「この曲、やろうよ」とかって言って、アレンジもアレンジャーに全部ディレクターが頼んで、それぞれ非常に個性的にやっていたわけですよ。
土屋:なるほど。
齋藤:それをやっているうちに、レコード会社がだんだん強くなってきて、歌手を仕込むと持ち歌を歌わせないと駄目だっていうふうになってきた。それまで、持ち歌なんてものは歌わないで済んでいたのに、持ち歌を歌わせなきゃいけない。持ち歌を歌わせるのに、今度は前奏も後奏も全部やらなきゃいけないってなってきちゃったんです。
テレビだから、僕らは前奏をできるだけ切っちゃう。後奏はなしで、歌い終わったら、ジャーンつったら、ジャーンって終わっちゃうっていうふうにして、次の曲っていうふうにして。
ところが、後奏がついてるじゃないですか。後奏もやらなきゃいけないとかって、レコード会社が言ってくるわけですよ。
土屋:レコードと、だから売ってるのと同じサイズでやってくれということですね。
齋藤:そう。衣装から何から、みんな決まっているでしょ? つまりなんだ、俺たちは野球中継みたいなもんでさ、歌手、歌ってるのをただ撮るだけかよっていうようになってきて、だから僕ら、音楽から足を洗ったんですよ。
土屋:はあ~!
齋藤:これは音楽番組でも何でもない。音楽のディレクターっていうのは、その番組を作る。曲目からタレントから何から、全部作ってやるのが音楽番組で。
土屋:なるほど。だから「俺たちがずっとやってきた音楽番組じゃないんだ!」と。
齋藤:そう。「そんなもん、音楽番組でも何でもなくて、野球中継みたいなもんじゃねえか!」って。
土屋:なるほど。レコードで出している歌をそのままスタジオで流すというのは、野球中継みたいなもんだ、と。
齋藤:そうそう。決まってるんですもん。だって衣装まで決まってて、振りまで決まってて、一体、何をすればいいの? ただ撮るだけでしょ?「そんなもん、できるかい!」っていうんで。
土屋:はあ~! そういう歴史があるんだ。
齋藤:そうなんですよ。
土屋:それを引き受けたのが、クラシック班の延長線の『コロンビア○○○』って番組が。
齋藤:そうそう。
土屋:要するに、レコード会社の言うがままにやっていた。ある種、もともとの音楽班、こちらからすると、野球中継じゃないかっていうことになるわけですね。なるほど。
でも、テレビで歌手が歌うと、次の日のレコード屋から、そのレコードが消えたっていう、テレビとレコードセールスが直結していた時代ですよね。
齋藤:そうかもしれませんね。