
【和訳しました】Badly Drawn Boy/Once Around the Block
自分は、語学力の向上を目的として、洋楽の歌詞を和訳した文章を週に一度noteに投稿している者です。今週はバッドリー・ドローン・ボーイの"Once Around the Block"を訳しました。
どうしてこの曲を選んだのか。ちゃんとした理由があります。
先日、何の目的も無いまま久し振りにヴィレッジヴァンガードに行ったのですが、そこにいた全てのお客さんが家族や恋人と共に屈託の無い笑顔で漫画やCDを選んでいて、その多幸感溢れる光景を見て感極まってしまい、店を出てからボロボロ泣いてしまうという何ともバカバカしい出来事がありました。こちらの記事に詳細が書いてあります。
変わった文化を愛好しながらも自らの生活を充実させる、それは本当に難しい試みであると思います。ヴィレヴァンに居た人達はその偉業を気負わずに達成している様に見え、「自分も、今からでもこういう人生を目指さないといけないのだ。この鬱々とした気分からは脱却しないといけないのだ」と強く思い、取り敢えず青春時代によく聴いていた曲を翻訳する事で、マイナーな文化への偏愛と幸福な生活との両立を目指していた若かりし頃の心の輝きを己に蘇らせたいと考えました。それが、今回この曲を訳した理由です。こういう曲を聴きながら気楽に恋愛漫画を読んでいた頃に戻りたい、いや、心だけでも戻らないといけない、暗い毎日とはおさらばするのだと、タイムマシンの開発に異常に執着していた「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の博士の様な心境で英和辞典を捲りました。
"Once Around the Block"は、2000年に出たバッドリー・ドローン・ボーイのファーストアルバム、"The Hour of Bewilderbeast"に収録されていた曲です。2000年て。もうそんな昔になるのかよ。四半世紀前じゃん。自分で書きながら、今、時の流れの速さに唖然としています。
それで、そのアルバムからシングルカットされた"Once Around the Block"の、憂鬱で気怠い気分をポップとして昇華させ、ただ気軽に郊外をフラついている生き方を短編映画のフレームに収めて称揚している様なメロディーに当時の自分の友達が完全にハマってしまい、それに感化されてこっちも「ああ、良い曲だなあ」と思い始めて、最終的にはこの曲をヘッドフォンで聴きながら自転車で牛舎やビニールハウスの並ぶ畦道を通ってほぼ一時間かけてタワーレコードに行ったりしてました。
そういう感じでこの曲への幻想が結構なまでに高まっていた、「この曲は田舎で冴えなく暮らしている俺をLos Angelsの郊外へ連れて行ってくれるのさ」とか考えていたからこそ、MTVでPVを初めて見た時は「な、なんや、この下らない内容は…」と結構な衝撃を受けたものでした。お互いが歯列矯正器を付けているカップルがキスしていたら、それが引っかかって外れなくなりました。それだけ。「ちゃんとせい」と思いましたね。「もっと芸術的な作品にせんか」と。子供心ながらに。
今現在から振り返って考えてみると、バッドリー・ドローン・ボーイはこのファーストアルバムを出す前にU.N.K.L.Eの作品に参加していたらしいんですが、U.N.K.L.Eが1998年に発表した"Rabbit in Your Headlights"のPVとか、同時期に出たレディオヘッドの"Karma Police"のPVの様な「車がモチーフで、仰々しい雰囲気に満ち満ちてはいるが、その実大した事は起こっていない(個人の感想です)」という、あの頃のミニマムな作風のPVの系譜に収まっていた気がします。
Badly Drawn Boy/Once Around the Block
君は火の付いた蝋燭の様に震えていて
僕はもうすぐその灯りを吹き消してしまう
たぶん今夜が 君と会える最後になるのかも
でも僕は君の生き方に魅了されている
君の高貴さは しばらくの間残り続けるんだろう
君はここに居る代わりに ただ感じている
僕が内側に籠もるほど
与えられる物は何も無くなっていく
僕は君の動きに夢中なんだ
どうにかして君への手掛りを探さないと
君が持っていた欲望を 元通りに直してやりたい
それは君の生きたいという願望から
僕が盗んでいた才能なんだ
僕は今 君の視界を通した光景を見ていて
もう君の純粋さでは驚きはしない
恐怖を振り切ろうとして君は走る
君は迷う為に走っているんだ 心のままに
魂の求めるままに
左に曲がって その急な曲がり角をまた左に
そしてもう一度左に曲がったら
その角で君は僕と出会う
僕らはまた そこからやり直せる気がする
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
「このフィルムは、1994年、車の中でキスした際にお互いに膠着状態になってしまい、10マイル(約16キロ)の渋滞の原因になってしまった2人のメキシコ系ティーンエイジャーに捧げられている」
このPVの最後に表示されるテロップの訳文です。
歌詞の冒頭、「君は火の付いた蝋燭の様に震えていて 僕はもうすぐその灯りを吹き消してしまう」からその先の「僕は今 君の視界を通した光景を見ていて」までは、歌い手の独白が続くばかりで風景の描写等は一切出てきません。そのため、ここまでの箇所を「灯りが消えた為に視界が閉ざされてしまった状態」だと考える事もできます。
何一つ視認する事が出来ない世界で、「君はここに居る代わりに ただ感じている」という歌詞が指し示す通り、歌い手は自分と「君」との存在を暗闇の中で混同させていき、遂には3ヴァース目で「君が持っていた欲望を/元通りに直してやりたい それは君の生きたいという願望から/僕が盗んでいた才能なんだ」という言葉と共に「君」の視線を借りて再び世界を眺めます。この曲の歌い手にとって「君」は、光や明晰さを象徴する存在となっています。
4ヴァース目では歌詞の雰囲気は微妙に変化しており、若干の否定的な表現ながらも「君」の運動、それ自体が描写されて曲内に動きが生まれます。運動そのものを描写した曲には、例えばルー・リードの「ワイルド・サイドを歩け」があります。
Lou Reed - Walk on the Wild Side (Official Audio)
ホリーはフロリダ州のマイアミからやって来た
ヒッチ・ハイクでアメリカを横断して
その途中で 眉毛を抜き
足の毛を剃って 彼は女の子になった
彼女は言う
「ねえベイビー、ワイルド・サイドを歩かない?」
「ねえハニー、ワイルド・サイドを歩かない?」
上に貼ったリンク先の記事によると、"Walk on the Wild Side"とは、同性愛者の娼婦が客を引く際に使う誘い文句であったそうです。その誘い文句を用いて、ルー・リードは「ホリーがアメリカを横断している最中に男性から女性になる」という「運動」そのものを「ワイルド・サイドを歩いた」のだと捉えて描写し、シニカルな視線で眺めながらもその存在を肯定しました。「男だったホリー」でも「女になったホリー」でも無く「ホリーが男から女になる運動そのもの」を歌詞で表そうとする試みは、ある運動をイメージの連続体として分節化し数値に変換して捉えようとする西洋思想とは対照的な、運動そのものを「一なるもの」としてとらえていた東洋思想に後年傾倒していったルー・リードが当時から世界に向けていた視線を象徴しています。彼の「自らの表現を窮屈なイメージの軛から解放して『運動そのもの』として表したい」という欲求は、「メタル・マシーン・ミュージック」や、後年のドローンや即興演奏へアプローチした作品群からも如実に感じ取る事ができます。
John Zorn, Lou Reed and Laurie Anderson -Concert for Japan(2011年のライブ映像)
翻って、"Once Around the Block"では、運動は一体どのように描写されているでしょう。「君」の視界で世界を見ている歌い手によって、彼が夢中になっている彼女の動きはこう表されています。
左に曲がって その急な曲がり角をまた左に
そしてもう一度左に曲がったら
その角で君は僕と出会う
左に計三回曲がる、要するに元の場所に戻る。
徒労。完全な徒労です。そもそもこの曲のタイトル"Once Around the Block"の意味自体が「ある区画を一周」という行為を指しています。彼は、ここまで彼女の動きを褒めておきながら、何故こんな無駄な動作を彼女に対して妄想しているのか?
通常、他者の動きを傍観的に眺めている人物は、その出来事とは別次元の世界にその身を置いているものです。それは何故なのかというと、その特権性によってその人物は目の前の出来事を冷静に観察し、正確に描写、若しくはセンスの良い脚色を加える事が可能になるからです。
例えばレディオヘッドの「カーマ・ポリス」のPVでは、確かに車内に居た筈のトム・ヨークが、「車が燃え始める」という大事故が起こった途端にさっさと消えてしまいます。個人的にはそこが本当に不満で、燃えだした車の中でパニックで大泣きしながら火を消そうとするトム・ヨークの姿をちゃんと映さないと「善悪の曖昧な世界での暴力とは何を意味するのか?」というテーマに迫れず、これでは「中年男性が車に故意に轢かれかけていたけど、火を使って撃退できました」以上の事が起こっておらず、そこから導き出される教訓も「正義は勝つ」くらいしか無いと思うのですが。まあ、そこが評価されているのかもしれません。
Radiohead - Karma Police
"Once Around the Block"が不思議なのは、ただただ彼女の動きを描写しているだけの歌い手が観察者としての特権的な位置に属していない事です。彼は「その角で君は僕と出会う」、つまり彼女の運動の軌道上にいる。「僕が内側に籠もるほど 与えられる物は何も無くなっていく」と自らを形容している様に、どんくさい人間として普通に存在しているのです。
歌い手の所から走り出した彼女は、三回角を曲がって、そしてまた歌い手の所に戻って来る。つまり、歌い手は彼女の運動の始点であり終点でもある訳で、彼は観察者でありながらその様な位置に自分を存在させる事によって、彼女の運動そのものを象徴しよう、彼女の運動そのものを自身に憑依させようと目論んだのでは無いでしょうか。
例えるなら「ワイルド・サイドを歩く」の様な「運動そのもの」としてこの世に存在しようとする為に、「ある区画を一周」という、それ自体が「不朽不滅の一なるもの」である円運動の一点で彼女を待っている。それは、実際の世界では「一切動く事がない」という状態を逆説的に意味してしまいますが、そもそもバッドリー・ドローン・ボーイは恋愛をその様なものだと考えていたのだと自分は思います。だからこそ、PVに「歯列矯正器が絡まって膠着状態になってしまった男女」という「それ自身では自由に動けない存在」を出演させ、そしてそのモチーフに「この惨めなドタつく塊こそが本当の恋人達の姿であり、彼と彼女が作り出す暗闇の中で生まれる運動こそが本当の恋愛なのだ」という主張を込めたのでは無いでしょうか。
恋愛に対する過剰なまでの思い入れと、同じく過剰なまでに冷めた視線。その両極端な態度を、自分はこの曲から感じます。
自分はバッドリー・ドローン・ボーイを一作目以降殆ど聴いた事が無い(怠惰故に)人間なのですが、今回この記事を書く際に聴いた最近の曲も、一枚目と変わらない素晴らしい物だと思いました。2020年に発表されたアルバム"Banana Skin Shoes"の収録曲を最後に貼り、四半世紀に渡って活動を続けているシンガーソングライターに敬意を払いながら、筆を置こうと思います。
Badly Drawn Boy - Fly On The Wall
なんていい曲なんだ!それではまた〜!
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