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俳の森-俳論風エッセイ第17週

百十三、舌頭に千転の効用

四十九話で、舌頭に千転する効用は、表現を練り、普遍性を獲得することではないかと述べました。実際は、普遍的な句が簡単にできるわけではありませんが、ここでは、もう一つの効用について述べてみたいと思います。

それは、何度も読み返すことで変わるのは、作者のこころの状態ではないかということです。特に自信作が出来た場合などは、有頂天になっているはずです。それはいわば興奮状態。そこから、平常心に戻るための手段が、読み返すことなのではないでしょうか。

作者は平常心でつくり、読者は平常心で読むのです。作者の興奮状態は、感情の籠りすぎた主観的な表現となってあらわれ、読者にはなかなか伝わらないものです。繰り返し読むことで、昂っていたこころが鎮まると、句の欠点も見えてくるのではないでしょうか。

しかし、そのようにしても、自作の欠点は見えにくいものです。自分の句集を編むときなど、主宰や先輩の助言を仰ぐのは、そのような事情からです。
篠原梵は、彼の全句集「年々去来の花」のあとがきで、次のように述べています。
未発表の句ばかりだから、やはり誰かに見てもらふ手順を経たい。自分の句については、手くらがりのやうな、目くらみのところがあるにきまってゐるので、そこのところを指摘してもらはねば、安心ができない。(太字筆者)

ここで、手くらがりは、手によって光線が遮られて手元が暗くなること、目くらやみも目がくらんでみえない、つまり自分の句についてはよく分からないということでしょう。例えば、拙句に
雲雀つと羽搏きとめて風躱す       金子つとむ
これは、ホバリングしている雲雀が、急に羽ばたきを中断する動作を詠んだものですが、勿論肉眼で確認するのは無理でしょう。わたし自身、双眼鏡で見ていて気付いたくらいですから。
その時は、大発見と思いましたが、それをそのまま句にしても、大半の人には意味不明でしょう。何故なら、俳句は肉眼で作るということが大前提だからです。

このようなことにさえ、自分自身ではなかなか気付かないものなのです。
自作を何の色眼鏡もかけずに、平常心で見ることが可能なのかどうか、わたしにもよく分かりません。折に触れて自作を何度も何度も読み返すしかないのではないでしょうか。何年も経ってから自作の欠点に気付くことも、稀ではないのですから。


百十四、詩的空間

冬の朝、わたしは二階の小窓から日の出前の東雲の空を見ています。濃い薔薇色がみるみる薄れ、やがて朝日がのぼってきます。いつもなら見過ごしてしまう日々のドラマを、その日は何故か食い入るように見ています。ふと、わたしの脳裏に、ひとつの句が浮かんできます。
寒暁の紅薄れゆく日の出かな       金子つとむ
一切の予備知識を排して、初めてこの句の出合った読者は、何を感じるでしょうか。そのプロセスを逆に想像してみたいと思います。

まず、寒暁という季語です。読者の脳裏にはその読者固有の寒暁のイメージが広がってくるでしょう。暁の空に薔薇色を思い浮かべた人なら、次の「紅薄れゆく」をすぐに肯ってくれるでしょう。寒暁の薔薇色はほんとうに美しいもので、それが薄れてしまうのはとても残念だからです。

ここで季語はどんな働きをしているのでしょうか。季語は、作者の「いまここ」を大まかに規定します。ここは余り定かではありませんが・・・。そして、「紅薄れゆく」では、作者がどこか空を見渡すような立ち位置から、惜しむようにそれを見ていることがわかります。作者と空との間には、距離感があるのが分かるでしょう。作者と空との距離感が、一句の空間を構成しています。

この空間は、特別意識して作るものではありません。写生をすること、つまりそのときの感じに出来るだけ近いことばで表現することで、ひとりでに生まれるのです。
季語が現実のものであるように、この空間も読者にとって体験可能な空間です。この空間が、読者が作者とおなじ立ち位置に立つことを容易にしています。

厳密にいえば、作者の見たものと、読者が想像したものは違います。いわば、句によって触発された、読者固有の空間といってもいいでしょう。しかし、空間があることで読者はそこに身を置く事ができるのです。そして、最後に作者がもっとも言いたかったことばを受け取るのです。それは、「紅」です。

「寒暁」の「紅」、作者はそれだけが言いたかったのです。「紅」は、一句の作句動機であり、季語の寒暁はこの紅と響き合う関係にあるといえましょう。この「紅」のようなことばを、わたしは共振語と呼んでいるのです。
どんな句にも共振語があります。それは、作者と季語との出会いの証のようなことばだからです。作者と季節(季語)との日々の出会いによって俳句は生まれているのです。
季語と共振語の響き合いの強さが、秀句かどうかの判定基準になるのではないでしょうか。


百十五、名句にみる詩的空間

名句と呼ばれる句のなかから、一句一章と二句一章の句を取り上げ、その空間がどうなっているのかを見てみたいと思います。取り上げるのは次の二句です。
とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな    中村 汀女
芋の露連山影を正しうす         飯田 蛇笏

先ず、汀女の句から見てみましょう。
汀女は、すでに蜻蛉に気付いて歩いています。汀女の回りには、蜻蛉の飛ぶ空間が広がっているのです。そして、しばらくして彼女が立ち止まったのは、まさに蜻蛉の群れのなかだったのです。
それを汀女は、「あたりにふゆる」と表現しました。なんという直裁な表現でしょう。童心に返ったかのような彼女の喜びが伝わってきます。秋の日が蜻蛉に、そして汀女にひとしくふり注いでいます。蜻蛉の透明な羽が、ときおり秋日に光るのさえ、髣髴としてきます。

種を明かせば、そこは、横浜三渓園と言われています。しかし、そのことは特に重要ではありません。この句のなかから、蜻蛉に気付いて歩いてきた作者が、たくさんの蜻蛉に囲まれた光景を想像できればいいのです。
それは、なんと心安らぐ光景でしょう。読者は、「ふゆる」ということばを素直に肯うことができるのです。

次は蛇笏の句です。
作者は、その視界に芋の露と連山を捉えています。眼前に芋の露、遠くに連山という構図です。芋の露から連山までは、かなりの距離があるとみていいでしょう。「正しうす」には、その空気感まで見事に表現されています。
芋の葉が露を結ぶ秋の景です。空気も澄んで山容がくっきりと望まれるようになったのでしょう。普段から見慣れている山なればこそ、この「正しうす」に実感が籠っているのではないかと思われます。

このように、空間がはっきりと示されていると、わたしたちは安心してその世界に身を委ねることができます。そうして、作者とおなじ立ち位置に立って、まさに作者とおなじ感動を得ることができるのです。これが、共感の実態ではないかと思われます。

いうまでもなく、その空間は詩的な空間ですから、何処と場所を特定する必要はありません。その空間は、作者が感じた詩情を再現するために構成されたものだからです。
その空間に招き入れられた読者は、作者とおなじように詩情を受け取ることでしょう。
俳句は、詩的空間を通して、詩情を伝えるものと言ってもいいのではないでしょうか。


百十六、感動が大きいほど

感動が大きいほど、こころを込めて、熱く語るのは人情というものでしょう。俳句でも同じです。自分の感動が大きいほど、主観的な表現が表に出やすくなります。しかし、ここでよく考えてみましょう。感動をもたらした当のものは何かと・・・。

自分が今しがた見聞したことが、感動をもたらしたのです。読者にも同じ感動を得てもらおうと思ったら、逆に写生に徹するだけでいいのはないでしょうか。
このことは、頭で分かっていてもいざその場に立つとなかなか実行できませんので、俳句はいつまでも難しいのではないかと思われます。

さて、拙句の実例をあげてみます。ある時、こんなことがありました。
車で出かけようとしたとき、庭の樫の梢で、小さな声がするのです。それも一つや二つではありません。目を凝らしてみると、やや黄味がかった樫の葉に良く似た眼白の群れでした。ちちっ、ちちっと啼きながら、すばやく枝移りしています。何かを食べているらしいのですが、小さくてよく分かりません。
もう八年もこの地に住んでいますが、初めての経験でした。眼白や鵯が山茶花の蜜を吸いにくるのはよく見かけますが、樫の木に幼虫でもいたのでしょうか。しばらくすると、彼らは飛び去ってしまいましたが、その声は、いつまでも耳底に残りました。

こんな情景を句にするとき、わたしは決って、
樫の木に寒禽の声頻りなり        金子つとむ
などと、強い調子でやってしまうのです。この句の情報は、樫の木で寒禽が頻りに啼いているということだけです。群れの採餌の情報は、残念ながら欠落しています。
自分の見た景そのものに既に感動がある訳ですから、このような場合は、写生をするだけでよかったのではないでしょうか。寒禽の群れが樫の木で何かを啄んでゐる情景が示せればいいと思うのです。

寒禽の小群れ庭木に声零す        〃
これが、推敲句です。群れの情報を入れて、採餌は読者の想像に任せることにしました。
自分が毎日見聞する様々な景のなかから、この景を句にしたということのなかに既に作者はいます。その景を一章として句点を打ったということは、そこに作者の感動があるという証拠です。
切れとは句点の謂いであり、句点は感動であるというのはそういうことです。その確信があるからこそ、作者は写生句で満足できるのではないでしょうか。


百十七、いひおほせて何かあるー去来抄より

初心のうちは目に見えるものなら何でもいおうと思って、一句に沢山詰め込みがちですが、それは、自分を感動させたものの正体がまだよく分かっていないからと思われます。写生とは、もとより、眼前にあるものをただ写すということではありません。

先ずは、自分を感動させたものは何かを知ることが大切です。それは、対象をよく見ることであり、同時にそれによって心を動かされた自分自身の内面へと深く分け入ることでもあります。何故なら、感動とは、対象によってもたらされた自分自身のこころの変化だからです。

さて、去来抄の一文を引用してみましょう。
下臥(したぶし)につかみ分けばやいとざくら
先師路上にて語り曰く「此頃、其角が集に此句有り。いかに思ひてか入集しけん」。
去來曰く「いと櫻の十分に咲きたる形容、能謂(よくいひ)おほせたるに侍らずや」。
先師曰く「謂應(いひおほ)せて何か有る」。
此におゐて胆に銘ずる事有り。初めてほ句に成べき事と、成まじき事をしれり。
ここで問題となっているのは、詩情ということではないかと思います。俳句でいえば、詩情とは作句動機となった感動です。其角は、「糸桜の下に臥せっていると、枝が下まで伸びているので手でつかんで分けないと閉じ込められてしまう。」といっているのですが、確かに去来のいうように糸桜を彷彿とさせる上手い言い方です。
しかし、芭蕉は、それに対して「ノー」といっているのです。芭蕉は、この句に詩情を認めていないのではないでしょうか。詩情とは、作者の感動です。表現には感心させられますが、それは感動ではないといっているのです。

冬の冷たい雨の降る日、妻が階下で絵を描き出したのを見て、次のように読みました。
冬の雨絵を描く妻と読む吾と       金子つとむ
この句はやや機知的に構成されています。描くと読む、妻と吾の対比です。しかし、詩情の表現という点で物足りなさを感じました。そこで、
階下にて絵を描く妻や冬の雨       〃
と推敲しました。自分のことは伏せたのです。しかし、言外に自分は二階にいて、絵ではない他のことをしていると読み解くことができます。詩情は、二人が別々のことをしていることにあるのではなく、家事を終えた妻が絵を描く、その静謐な時間にあると思い直したからです。
 其角の句は、
幼子の触れてほほえむ糸桜
とでもすれば、詩情の表現になるのではないでしょうか。

百十八、吟行と写生

本来俳句はどこにいてもできるものだと思いますが、季節に対する感受性が鈍っていると、なかなか思うようにはできないものです。特に都会で暮らしていると、自然の息吹きを感じ難いという側面もあるでしょう。

そんなときに吟行をすると、新しい景物に出会ったり、さまざまな季語に出会ったりして、感受性を取り戻すことができます。ありとあらゆるものが俳句の対象となり得ますが、自己の内面を探ったり、物事の本質に迫るようなことは、とても難しいことです。
初心のうちは、目に見えるものを写し取る、吟行と写生は、ベストマッチのように思われます。

例えば、花どきのお寺を訪ねたとしましょう。石段を登ると山門があり、それを潜るとお堂が見えてくる。一句のなかに、石段や、山門、堂などのことばが入ってくると、読者は容易にその景を想像することができるでしょう。
作者もまた、写生を駆使して、こころに敵うものをたくさん見つけることができるでしょう。

眼前にある様々なものが、一句を埋めてくれます。そこでは、空想に浸る必要などないのです。考えてことばを捻りだす必要もないのです。
俳句の材料は、自然が用意してくれています。実際に見たものから、これだと思うものを一句のなかに置くだけでいいのです。
作者は、まるで鋭敏な一個の季節センサーのようです。石段を登ることも、山門に佇むことも、堂を見上げることも、全てが俳句になります。何故なら、季節を今、まるごと感受しているからです。
子規は、仲間たちと「一題十句」という写生の修行をしていたそうです。よく観察をして、一つの題で十句をつくるということです。

俳句は、感動の証として生まれてきます。幾つになっても感動できるということ、季節がわたしたちを感動させてくれるということ、これにまさる喜びはないのではないでしょうか。
そのお寺には、やはり先人たちの足跡がありました。一茶の句碑です。こんなところまで一茶は来ていたのか、そこでまた句ができます。
写生はまさに魔法の杖、いつのまにか俳句が面白いようにできるようになるのです。

飛花落花山門へ磴登りゆく        金子つとむ
幔幕のゆれて花散る御堂かな       〃
木の芽雨一茶の句碑の肩濡らす      〃

百十九、作品のいのち

俳人同士で俳句の話をしていると、芭蕉がどうの、一茶がどうの、子規がどうのと、数百年単位の時間を自由に行き来しています。勿論、本人たちにその意識があるわけではありませんが、すぐれた俳句は、既に数百年のいのちを永らえているわけです。

ところで、俳句のどこにそんな力が潜んでいるのでしょうか。芭蕉の俳句が今なおわたしたちを魅了してやまないのは、何故なのでしょうか。
それは、詩情ではないかと思うのです。詩情とは作句動機となった作者の感動であり、読者にとっては俳句を介して伝わる作者の感動です。それは、ことばで説明し切れるものではなく、味わうべきものだと思います。
わたしたちは、読むたびに一句の詩情に出会うことができます。その味わいが深ければ深いほど、その句は、生涯わたしたちを魅了し続けることでしょう。

俳句は、いってみれば、詩情の泉。読むたびに滾々と詩情が湧き出てくるのです。それは、季語と詩句のハーモニーによって生まれていますので、枯れるということがありません。
既に長い俳句の歴史があり、先人たちの名句に触れることができることは、かけがえのない喜びといえるでしょう。

どんなにことばを紡いでも、詩情を言い尽くすことはできませんが、芭蕉の句についてのわたしの鑑賞文をご紹介します。(松尾芭蕉この一句、平凡社刊より)
明ぼのやしら魚しろきこと一寸      松尾 芭蕉
上五は、闇から光へ、つまり死から生への転換を暗示して絶妙である。薄明の中に提示された一寸ほどの白魚。「しろきこと」と強調しているのは、白魚の命の充実を捉えているのである。何度も口誦すれば、「しろきこと」と「一寸」の僅かの間、「一寸」の促音と撥音の組み合わせが、白魚がぴくりと跳ねる様子を彷彿とさせる。
舌頭に千転せよといったのは芭蕉である。白魚の命の躍動を捉えて、リズミカルに仕立てた一句である。

山路来て何やらゆかしすみれ草      〃
この童心ぶりはどうだろう。山路きてには、山を越えてきた安堵感が漂い、その心の余裕が菫を見つけさせたともいえる。こんな山奥にも人知れず咲いている花、なにやらゆかしとは、そんな花への愛惜がふと口を継いででてきたものだろう。
人に見られることなどお構いなく、ひっそりと命を紡ぐ花。ゆかしとは、そのような花たちへの賛辞でもある。人は皆、そのようなものに出会い、慰め、勇気づけられて生きていくものなのである。


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