俳の森-俳論風エッセイ第32週
二百十八、子規の目指した写生句
子規が写生を唱導してから百年以上が経過し、日々様々な作品が作られ続けています。ところで、もともと子規が目指した究極の写生句とはどんなものだったのでしょうか。そこで、今回は次の句をもとに考えてみたいと思います。
赤い椿白い椿と落ちにけり 河東碧梧桐
普通一句のなかに二つの色を持ち込めば、作者には色の対比を印象づけたい意図があるのだと思われがちです。けれども、掲句からは、不思議とそういう意図が感じられないのです。それは、何故なのでしょうか。
一つには、青木亮人氏が、「その眼、俳人につき」(邑書林)のなかで指摘しているように、掲句は、「句を読む速度と内容を想起する速度が合致する作品」だからではないでしょうか。掲句をもし、
赤い椿白い椿の上に落つ
とでもすれば、句意の僅かな屈折のなかに、作者の意図が仄見えてしまうでしょう。
しかし、碧梧桐句は、少なくとも、眼前の景を見たまま、そのまま、何ら技巧を交えずに詠んだように思われます。赤い椿、白い椿と順に落ちたといわれれば、あまりの技巧の無さ、単純さにそれはその通りに違いないと肯うしかないのです。
青木氏は、同書で次のようにも述べています。
子規はこの句を「眼前に実物実景を観るが如く感ぜられる」と評し、新時代を体現する「印象明瞭」と絶賛した。(太字筆者)
子規は何故これほど絶賛したのでしょうか。掲句は無邪気といえばあまりに無邪気な詠みぶりですが、それだけに、椿が直線的に落ちる様を見事に表現しえているのではないでしょうか。椿のあり様がそのまま句形に乗り移ってしまったかのようです。
先に技巧の無さを指摘しましたが、これこそが技巧といえなくもないのです。子規は、掲句のなかに自然の息遣いを感じ取ったのではないでしょうか。
そのことが、子規をして、「実物実景を観るが如く」といわしめた当のものではないかと思うのです。子規は、『古池の句の弁』(俳諧大要、岩波文庫)のなかで、「芭蕉は終に自然の妙を悟りて工夫の卑しきを斥けたるなり。」と述べています。子規が目指していたのは、このように自然の気息をそのまま写し取った句だったのではないでしょうか。
苗代のへりをつたうて目高哉 正岡 子規
苗代に落ち一塊の畦の土 高野 素十
滝の上に水現れて落ちにけり 後藤 夜半
二百十九、コミュニケーションとしての俳句
俳句のコミュニケーション性については、これまでも折に触れて言及してきましたが、秋山巳之流氏は、「魂に季語をまとった日本人」(北溟社)のなかで、俳句の師の角川源義氏のことばを、次のように紹介しています。
先師は呟いた。
《ところで、俳句というものは、実に孤独な文学だと思います。つまり自分というものの表現にしか過ぎないのです》(太字筆者)
また、俳句評論家の山本健吉氏は、挨拶と滑稽という論文(「俳句とは何か」角川ソフィア文庫)のなかで、「一、俳句は滑稽なり、二、俳句は挨拶なり、三、俳句は即興なり。」と述べています。氏のいう挨拶と即興は、そのままコミュニケーションの特性といってもいいのではないでしょうか。
たとえば、句会の場面を想像してみましょう。
一般的な句会は、当季雑詠もしくは、当季の兼題を投句することで成り立っています。当季に限定するのは、俳句が季節の詩であることも勿論ですが、現在のホットな思いを作品にすることで、俳句によるコミュニケーションを図っているという見方もできます。俳句は身近な出来事を、作者の視点で詠うため、それを受け取るほうも作者をより身近に感じることができるのではないでしょうか。
また、月間の結社誌を通して、わたしたちは、今生きてあるわたしたちの心情を相互に披露しあっているのだともいえましょう。結社の結束力は、その偽らざる相互披露にあるのではないでしょうか。
俳句は、いまここを生きるわたしたちの息遣いそのものなのです。結社誌の作品欄からは、今を生きる仲間たちの声が聞こえる仕組みになっているのです。
さらに、先人たちの俳句を読むことで、時代を超えたコミュニケーションも可能です。
山路来て何やらゆかしすみれ草 松尾 芭蕉
を読むときは、わたしたちは、芭蕉さんの傍らにいます。何故なら、俳句の共感のプロセスとは、読者が作者と同じ視点をもつことだからです。
牡丹散つてうちかさなりぬ二三片 与謝 蕪村
蕪村さんの傍らにも、わたしたちは容易に飛んでいけます。この句に共感するだけで、それが適うのです。
誰しも、好きな作家、好きな作品があるでしょう。その作品を通して、わたしたちは、見知らぬ作者に出会っているのではないでしょうか。芭蕉が西行を敬愛したように、一茶が芭蕉を敬愛したように、文芸上の繋がりは、容易に時を越えてしまうのではないでしょうか。
二百二十、ブラックボックス
わたしたちのなかには、ことばにならない思いが常に渦巻いています。社会生活を営むということと個人の内面との間には、軋轢や葛藤があるものです。
いいたいけれどいえないもの、いってはならないと抑制されているもの、雲のようなことばにならない思い、わたしたちの内面には、ことばにならないことばが、蠢いているのではないでしょうか。
優れた俳句が、優れた認識力に裏打ちされているように感じるのはなぜなのでしょうか。俳句はとても短い詩ですから、ちょっとした心のときめきを捉えようとしています。その結果、写生の眼は否応なく、自分自身に向けられることになるでしょう。
俳句を通してわたしたちは、外部を見る眼、内部を見る眼を訓練しているのではないでしょうか。
俳句の訓練のおかげで、わたしたちは、ことばにならないものが、ことばになる瞬間を捕まえることができるようになります。なぜほかのことばではなく、そのことばなのかは、本当のところよくわかりません。しかし、そのことばの方が、より適切だと分かるのです。
例えば、反戦デモをしていて、
夏夕べ風が吹き去る反戦歌 金子つとむ
という俳句が生まれました。強い風の吹き荒れる日で、実際、事実はそのとおりだったのですが、「吹き去る」では元気がないなと思ったとき、「湧き継ぐ」ということばがふっと浮かんできました。
どうしてそのことばが浮かんだのか、それはブラックボックスで知るよしもありません。しかし、吹き去るより湧き継ぐの方がいいと咄嗟に思ったのです。そこで、次のように推敲しました。
夏夕べ風に湧き継ぐ反戦歌 金子つとむ
わたしたちが、たくさんの季語を知り、たくさんの語彙を覚え、たくさんの俳句を作ることで鍛えているのは、ことばを生み出すブラックボックスの回路なのかもしれません。それだけに、俳句のことを説明するのは、とても難しいことなのではないでしょうか。
ブラックボックスの中身を明らかにすることはできませんが、そこには、わたしたちが生きて、見て、感じたことのすべてが詰まっているように思われます。人それぞれに違うブラックボックスがあるのです。
このように考えてみると、俳句は、自身のことばに耳を傾け、それを正直に捕まえることで成り立っているのではないかと思えるのです。
蓮散つてすなわち黄泉の舟となる 角川 照子
二百二十一、算術の少年-「の」の使い方-
朝妻主宰(雲の峰)がよく二句一章の二物衝撃の例句として取り上げる句に、
算術の少年しのび泣けり夏 西東 三鬼
があります。今回は、二物衝撃ではなく掲句の「算術の少年」という言い方に着目してみたいと思います。
試みに現代俳句協会のデータベースから、例句を拾ってみると、以下の句が見つかりました。
九月の少年の一途に話かけてくる 堀 保子
入学の少年母を掴む癖 右城 暮石
マフラーの少年が来る夜の埠頭 野木 桃花
凧揚げの少年風ときて帰る 大堀 祐吉
「の」には、格助詞、並立助詞、終助詞などの用法がありますが、例句の「の」は、いずれも格助詞です。「の」には、さまざまな意味がありますが、その代表的な使い方は、次の例のように、対象を限定し、大から小へと収斂していくやり方です。
ゆく秋の大和の国の薬師寺の
塔の上なる一ひらの雲 佐佐木信綱
みちのくの伊達の郡の春田かな 富安 風生
ところで、先に上げた例句の「の」の意味を補ってみると、以下のようになりましょう。
算術の少年・・・算術をしている少年
九月の少年・・・九月という季節にいる少年
入学の少年・・・入学する少年
マフラーの少年・マフラーをしている少年
凧揚げの少年・・凧揚げをしている少年
ここでもやはり、「の」は限定する働きをしていることがわかります。それは、頭にほかでもないを補ってみるとよく分かります。(ほかでもない)算術をしている少年、(ほかでもない)マフラーをしている少年という風に・・・。
このように捉えると、この少年たちの心の内を、算術や、九月や、入学やマフラー、凧揚げが占有している状態とみることができるのではないでしょうか。
算術の少年は、単に算術をしている少年ではなく、算術のことで、こころが一杯になっている少年といえましょう。それだけに、問題が解けなくて忍び泣きするのではないでしょうか。
同様に、マフラーの少年は、マフラーを着けたことで、心が満たされているのです。そして少し無頼を気取って、わざわざ夜の埠頭まで出かけていくのです。
例句はどれも、この「の」の働きを巧みに利用している句といえましょう。
懸垂の少年ひとり炎天下 金子つとむ
二百二十二、詩語をつかむ
俳句は詩であるというとき、俳句のことばはどのような状態になっているのでしょうか。わたしは、一句のなかに詩語として働くことばがあるはずだと考えています。
ここでいう詩語とは、単に詩歌で使用されることばという意味ではなく、ことばが実体化する状態ということができます。このことを、後藤夜半の句で、見ていきたいと思います。
滝の上に水現れて落ちにけり 後藤 夜半
掲句を読んで釘付けになってしまうことばは、「現れて」です。滝の上に次から次へのやってくる水を作者は、「現れて」と言い止めたのです。広辞苑によれば、現れるとは、隠れていたものごとや今までなかったものが、はっきり表面にでるという意味です。
作者は、滝の上に現れた水が、滝壷に落ちることが滝そのものであると看破しました。作者が書きとめたのは、その中のある一塊の水の在り様です。比喩的にいえば、実際には、この句が何千、何万と集まって、あるいは、永劫に繰り返されることで滝の姿となるのです。
この「現れて」のようなことばをわたしは詩語と呼びたいと思うのです。
「現れる」という普通のことばが、ここでは、滝の本質を言い当てたことばとして、働いているのです。詩語があることで一句は生動し、わたしたちは、まさに次から次へと絶え間なく現れる滝の水を眼前にすることができるのではないでしょうか。
そして、この「現れる」を詩語にまで押し上げたのは、作者の感動の力ではないかと思うのです。「現れて」は、作者の感動が掴み取ったことばといえるでしょう。
詩であっても、事情は同じではないかと思います。ここでは、木下夕爾氏の作品から、詩語として働くことばを捜してみましょう。(空白行を省略)
晩夏
停車場のプラツトホームに
南瓜の蔓が匍ひのぼる
閉ざされた花の扉のすきまから
てんとう虫が外を見てゐる
軽便車が来た
誰も乗らない
誰も降りない
柵のそばの黍の葉っぱに
若い切符きりがちょっと鋏を入れる(詩集『晩夏』より)
最後まで読んだとき、若い駅員の心情まで見えてくるのは、「鋏を入れる」ということばが、まさに実体化しているからではないでしょうか。そして、このことばがあることで、詩全体が生動しだすのです。
二百二十三、片言でも通じるけれど
句会に参加していると、表現に問題があっても、初心者の選に入ったり、特選を得たりする場合があります。
優れた俳句は、決して片言ではありませんが、片言であっても通じてしまうのは何故なのでしょうか。
このあたりの事情を、鍵を失くした少女という設定で考えてみたいと思います。
夕方、鍵を失くした少女が、道端で泣いています。通りがかりの人が声をかけると、その少女は、夕焼け空を指差して、次のように答えました。
「夕焼け。鍵。ない。」
Aさんは、少女の傍らに子ども用の自転車があったので、少女は、自転車の鍵を失くしてしまって、家に帰れないのだと思いました。しかし、そう考えたのは、もちろんその場に居合わせたからです。
Bさんは、自転車には気づかず、この子は、鍵っ子なのだと考えました。失くしてしまったのは、家の鍵です。家の鍵を失くして、家に帰れないと解釈したのです。
二人とも、少女が泣いているのは、家に帰れないからだと考えました。夕闇が迫っていたからです。
少女のことばは片言ですが、そこからわたしたちは、少女の言いたいことを推し量り、理解しようとつとめます。俳句もまた、相手を分かろうとする読者の気持ちによって支えられているのではないでしょうか。
夕焼や失くした鍵の見つからず
もし、このような俳句を作ったとしても、優しいAさんやBさんには、通じてしまうのです。
また、さらに、
夕焼や家の鍵未だ見つからず
夕焼や自転車の鍵見つからず
などとすれば、鍵がどんな鍵が、読者は想像することができるでしょう。そして、夕焼は、少女の帰りたいという気持ちを代弁してくれています。
さらに、
夕焼や広場でさがす家の鍵
などとすると、いっそう情景がはっきりしてきます。何を伝え、何を省略するかは、作者が決めることです。それは表現意図によって異なってくるでしょう。
朝妻主宰(雲の峰)の句形論は、片言ではなく正しく伝えるための方法を明示しています。
俳句で甘えようと思えばいくらでも甘えられます。しかし、大事なことは、自分の思いを正しく伝えることなのではないでしょうか。正しい日本語は、百年後でも二百年後でも必ず伝わると信じて・・・。
二百二十四、季重なりの情趣
八月初めの句会で次のような句が投句されました。
切り通しの紫陽花ひそと枯れゆけり 原田 みる
当期雑詠ですので、作者は今の季節の紫陽花を詠んでいるのは確かです。しかし、句会を離れて掲句をみたとき、枯れということばはやはり気になるでしょう。枯るは、荒涼とした冬の季語ですが、掲句は初冬辺りの景物ととれないこともないからです。
掲句には朝妻主宰(雲の峰)の添削が入りました。
切り通しの紫陽花ひそと褪せゆけり 原田 みる
こうすることで、季語の紫陽花が主役として立ってきて、わたしたちは、紫陽花の咲き終わる頃の季節に誘われます。季重なりを回避することで、季の混乱は避けられたわけです。
しかし、ここで再度考えてみたいのは、仮に「枯る」が季語だということを作者が失念していたとしても、作者は何故「枯れる」ということばを使ってこの情景を詠んだのかということです。
作者は緑一色の世界のなかで、はやくも役目を終えたかのように枯れていく紫陽花の姿に眼を奪われたのではないでしょうか。「ひそと」には、そんな紫陽花に寄せる、作者の心情を見ることができるでしょう。
紫陽花の枯れ色は、周りとの対比効果もあいまって、どきっとするほど眼を射るものです。それは作者が発見した情趣であり、これを何とか表現できないかと思うのです。特に未だ花色の残るなかに、一つ二つの萼片だけが枯れている様には、どきりとさせられます。
実は、筆者も以前に作者と同じような思いに駆られて、作句したことがありました。
紫陽花の毬に枯色ささりけり 金子つとむ
わたしの句も、季重なりの弊をとどめており、完成作とはいえませんが、大事なことは自分が感じたこと、いいたかったことにこだわり、よりそれに近い表現を目指していくことではないかと思われます。
新しい情趣はむしろ季重なりの句の方にあるのではないでしょうか。何故なら、多くの人が意識的あるいは無意識的に回避した世界を詠んでいるからです。「枯る」を季語だと知らずに、花が枯れたとか、草が枯れたとか表現してしまったとしても、そのことばを選択したのは、それなりの感動があったからだと思うのです。
ですから、推敲の際は、感動ごとごっそりと抜き取ってしまうのではなく、感動を残して表現だけを推敲することが大切なのではないでしょうか。
紫陽花の色の抜けたる一二片 金子つとむ
紫陽花の末一色となりにけり 小林 一茶
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