俳の森-俳論風エッセイ第40週
二百七十四、俳句は他選
俳句は他選といわれるのは、作者自身は表現上の過不足に気づきにくく、良否の判断が極めて難しいということではないかと思います。
表現不足については、作者が作句の現場を熟知しているために、表現上の欠落に気付かないことが主な原因かと思われます。また、表現の過分については、作者が誇張されたことばを選択することに、原因があるようです。
拙句の具体例を示しましょう。
作者は、幾万という銀杏の葉が時を移さず一斉に色づくことの不思議さに感動しています。それを表現するのに、作者が感動の渦中にあってその感動を語ろうとすると、事実以上に誇張されたことばを選択しがちです。
次にあげた例句の内、前三句の傍線部は、事実よりもやや誇張されたことばといえましょう。主観が強いといわれるのは、そのことばの選択が、あまりにも事実から乖離しているという意味ではないかと思われます。
黄葉して万の銀杏の色揃ふ 金子つとむ
悉く銀杏黄葉となりにけり 〃
一色の銀杏黄葉となりにけり 〃
小社の銀杏黄葉の華やかに 〃
ここで問題なのは、主観表出の程度です。作者が感動を述べるのに、そこに若干の誇張が入るのは当然でしょう。しかし、その程度が甚だしいと、一人よがりの表現ということになってしまうのではないでしょうか。最後の句では、銀杏黄葉に対する感動は、華やかにという一語によって示されています。
前の三句の「色揃ふ」も「悉く」も「一色」もすべて、その時点で作者にはそう見えた、そう感じられたということで、事実には違いありません。しかし、それがその場を知らない読者にとって誇張と感じられるならば、受け入れ難いのもまた道理ではないでしょうか。
端的にいえば、読者に伝わるためには、使用されたことばが読者に受け入れられ、映像を結ぶことが必要なのではないでしょうか。その点、最後の句は、前者よりやや映像を結びやすいのではないかと思われます。
このことを読者の側からいいますと、一句から三句目に共感するには、読者が作者と似た体験をして、「色揃ふ」や「悉く」や「一色」といった措辞に、そのまま反応できる必要があるでしょう。吟行句会では、しばしばこのような状態を見かけます。
作者が感動の渦中にあって、しかもその感動から離れることは容易ではありません。それ故、俳句は他選と言われるのではないでしょうか。自己を省察し、自己のなかに他者の視点を取り込めたものだけが、自分の句の良否を判断できるものと思われます。
二百七十五、臨場感
俳句が季語の発見プロセスを詠むものなら、季語を発見したときの作者の感動はどのような形で一句に反映されるのでしょうか。わたしたちは、無意識の内に、その場の感動に相応しいことばや律動を選びとっているのではないかと思われます。
いっぽう読者は、一読してその場面の映像、ことばの勢いといったものを感受します。そこに広がる何か切迫した感じを受け取るのです。これを俳句の臨場感と呼ぶならば、これこそが、読者を句に立ち止まらせ、句の世界に引き込んでしまう最大の要因のように思われます。そして、その臨場感を生み出している当のものが、他ならぬ作者の感動ではないかと思うのです。
外にも出よ触るるばかりに春の月 中村 汀女
掲句には、作者の感動がストレートに表れています。「外にも出よ」という命令形が、作者の感動の大きさを如実に表しているといえましょう。上五が命令形で始まる句も珍しいのではないでしょうか。
さらに「触るるばかりに」が、揺蕩いながら上り来る春月の大きさを余すことなく伝えています。わたしたちは、いつしか句の現場に引き込まれているのです。
ところで、わたしの小庭の片隅には、一メートル程の若い柊の木があります。香りが好きで植えたものですが、十一月ともなると、清楚な純白の小花をびっしりと咲かせます。その凛とした気配は、とても気持ちがいいものです。庭に出て、鼻を近づけて匂いを嗅いだりして、一句に仕立てようとしました。
雨晴に柊の花匂ひけり 金子つとむ
柊の花の香りの小庭かな 〃
しかし、いくら作ってもピンときません。数日後、妻が小花を一つ摘んできて、目の前で拳をひらきました。柊の花が一つ、しっかりと蕊をつけて目の前にありました。
ひろげたる手に柊の花一つ 〃
見た通りの情景をそのまま詠んだだけですが、わたしには、それが一番感動を言い当てていると思えたのでした。俳句が即興性を大切にするのは、感動によって生れ出ることばを大切にするからではないかと思われます。
季語の景物が眼前にあって、好意を抱いて眺めていたとしても、それだけでは句にならないでしょう。やはり、季語を発見するプロセスが必要ではないかと思います。
つい待ちきれなくて、先に句を作ってしまいがちですが、感動がなければ、そこには臨場感も生れてこないでしょう。そこに佇み、何かが満ちてくるのを待つ、それが作句への近道なのかも知れません。
毎年よ彼岸の入り寒いのは 正岡 子規
二百七十六、否定形と緊張感
今回は否定形の措辞を含む作品に見られる緊張感について考えてみたいと思います。例句をいくつかあげて考えてみましょう。まず子規の句から。
ある僧の月を(待たずに)帰りけり 正岡 子規
薔薇の香の紛々として(眠られず) 〃
痰一斗糸瓜の水も(間に合はず) 〃
()内が否定形となっている箇所ですが、これらの措辞に共通しているのは、作者の願いとは裏腹に、あるいは作者の意に反して事態が進行しているという事実です。
これらの措辞に、作者の思いを補えば以下のようになりましょう。
待てばいいものを月を待たずに
眠りたいのに眠られず
どうしても間に合って欲しかったのに間に合わず
このように、否定的表現からうかがえるのは、作者の強い感情といえましょう。それが、作品に緊張感をもたらしているのではないでしょうか。
次に虚子の句を見てみましょう。
何事も(知らず)と答へ老の春 高浜 虚子
山国の蝶を荒しと(思はずや) 〃
白雲と冬木と終に(かかはらず) 〃
同じく、否定形の箇所に括弧を施しました。虚子もまた、何事も知っているのに知らずと答え、蝶を荒しと思うからこそ思はずやと反語し、白雲と冬木は厳然とした事実として、終に関わることはないといっているのです。
山国の句から反語表現を外してみますと、
山国の蝶を荒しと思ひけり
となり、意味はほぼ同じですが、どこか物足りなさを否めません。やはり反語とすることで、作者にとっての意外性が強く打ち出されているのではないでしょうか。
このように否定形の措辞は、作者の心理的な屈折を内包しているといえましょう。それが作品に深みと奥行を与えているのではないでしょうか。それだけに作品には、作者の主観が色濃く反映されることになります。
最後に草田男の句を見てみましょう。
そら豆の花の黒き目数しれず 中村草田男
妻二タ夜あらず二タ夜の天の川 〃
冬の水一枝の影も欺かず 〃
殊に最後の作品は、欺かずという措辞を得ることで、偽りのないありのままの自然の厳しさを表現しています。掲句は草田男の絶唱といってもいいのではないでしょうか。
かくいう筆者も、冬の鵙の猛禽としての側面を打ち出すために、否定形を使用してみました。
冬の鵙秀にゐて狩の眼を解かず 金子つとむ
二百七十七、俳句の臍の緒
季語は、季節の景物や自然現象であり、わたしたちは、そのほとんどを五感で感じることができます。五感によって、季語とわたしたちの体は直接つながっているともいえましょう。
それでは、いわゆる空想季語と呼ばれているものはどうでしょうか。例えば、亀鳴く(三春)、雪女(晩冬)、狐火(三冬)などは、誰でも見聞できるわけではないでしょう。また、中国伝来の七十二候に起因するものでは、獺魚を祭る(初春)、鷹化して鳩となる(仲春)、腐草蛍となる(晩夏)、雀化して蛤となる(晩秋)などもあります。
しかしこれらも、まったくの空想というわけではなく、自然現象と深く関わりをもっているのです。その意味では、どんな季語も自然を母体として生まれてきたといえるのではないでしょうか。ですから、季語は、自然という母体とつながる臍の緒という言い方もできると思うのです。
ところで、初めは何かを具体的に指示するものとして生まれたことばは、やがてそれに類似するものやイメージを取り込んで、多義的になっていくものと考えられます。季語も同じように、長い歳月を経て本意・本情と呼ばれる季語の世界を作り上げてきました。現物とイメージの混合された世界です。
俳句を作る際に、季語の指示性を重視して現実と不即不離の世界を構築するのか、それとも季語のイメージに重きをおいて、自然から解き離れた空想の世界を構築するのか、その主張はさまざまです。しかし、季語という臍の緒は、自然とつながっています。はっきりしているのは、季語に対する考え方次第で、作句のポジショニングが決まるということではないでしょうか。
私見では、俳句は現在、イメージ性により傾いているように思われます。その理由は、利便性の高いわたしたちの生活が、身の回りから、自然を遠ざけてしまったからです。密閉され空調の利いた室内は、音や気温を遮断してしまっているのです。
現代人は、季語を濃密に体験することが少なくなっているのではないでしょうか。食べ物の旬も曖昧ですし、何よりも既にことばだけの季語もたくさんあります。
例えば、夏の蚊帳を経験した世代は、どんどん少なくなっていることでしょう。もし蚊帳というものを未体験のまま作句すれば、イメージだけで作ることになるのは、やむを得ないことです。季語体験の希薄化が、俳句のイメージ化を加速していると思うのです。
さて、有季定型を標榜するわたしたちは、現実の季語に触発されたいと願っています。そのために、時には意識して利便性を遠ざけてみるのもいいかもしれません。俳句は私的な季語発見プロセスなのですから。
二百七十八、ことばの映像喚起力
作句をしていて、ほとんど描けているのにどことなくしっくりこないということはないでしょうか。情景がちょっと分かりにくいようでしたら、ことばの映像喚起力を疑ってみたらいいかもしれません。
実際に、例句で説明しましょう。
秋燕や一つの路地を知り尽くし 金子つとむ
この句のポイントは〈知り尽くし〉ですが、今一つピンときませんでした。句意はこれでいいと思うのですが、〈知り尽くし〉では、少し違うようにずっと感じていたのでした。しかし、その理由が明確には分かりませんでした。
ところが、ある時、知るということばが、映像を伴わないことに思い至ったのです。それで、句に訴求力がうまれないのではないかと・・・。
そこで、もっと映像性のあることばはないかと探して、飛ぶという変哲もないことばに行き着いたのでした。
秋燕や一つの路地を飛び尽くし 〃
〈知る〉と〈飛ぶ〉を比較すると、〈飛ぶ〉には明らかに映像を喚起させる力があります。そして〈飛ぶ〉は、写生をしていれば難なく得られた筈のことばだったのです。
掲句の失敗の原因は、写生ではなく、感慨の方から作句作業を進めたことにあるようです。そして、もう一つの陥穽は、自分の頭のなかには、映像がしっかりと出来上がっているため、表現の不備に自分で気づくことは、容易なことではないということなのです。映像喚起力、推敲の際には、時々思い出してみるといいかもしれません。
もう一つ例句を上げてみましょう。
抓みたる草の穂風にながれけり 〃
戯れに抓んだ草の穂綿があえなく風に流れる様子を詠んだものですが、〈流れる〉が、いま一つしっくりとこなかったのです。それは、穂綿をごっそりと風が持ち去るような映像です。横に流れながら落ちていく、それにぴったりのことばはないかと探してみたのでした。わたしは、句を推敲するときは、ほとんどパソコン上で行いますが、エクセル表を使って、推敲課程を全て記録しています。
その理由は、決定稿に至るプロセスを明確にすることで、より早く決定稿に至るための要領がわかるのではないかと考えたからです。
今回の映像性ということも、その中から浮かびあがってきました。また、たまたまインターネットで夏井いつき先生と一緒に句会をすることで、先生の持論に接する機会を得たことも影響しています。
そんな折、傾れるということばが見つかったのでした。
抓みたる草の穂風になだれけり 〃
〈ながれけり〉から、〈なだれけり〉へ、たった一字の違いですが、より実景に近づけたのではないかと思います。
二百七十九、ことばの選択と主観
以前、ことばの質量変化の項で、省略可能なことばをあえて使用するときは強意になるというお話をしました。そして、その例として、見る、聞くなどの通常は省略可能な動詞を上げました。ここでは、さらに進んで、ことばの選択のなかに、既に作者の主観が色濃く滲むものだということを見ていきたいと思います。
小春日和に誘われて田舎道を散歩していたときのことです。百羽ほどの雀が、民家の納屋の棟に一列に止っていました。納屋とはいっても、瓦葺きの立派なもので、豪農の家でした。瓦葺きには、雀口などといって、雀が営巣しやすい隙間がたくさんあります。わたしの印象としては、雀は瓦葺きが好きなようです。
その雀たちが、棟瓦のうえでいかにも安心しているような風情でしたので、何とかそれを句にしたいと考えました。それに、近頃、これほどの雀の群れを見ることは珍しくなっていたからです。そこで、
冬うらら雀並みたる棟瓦 金子つとむ
としてみました。並みたるがゆったりとした感じで、冬うららと響きあうように思えますが、雀の数の多さが出ているかどうか心配でした。そこで、
冬うらら雀の占むる棟瓦 金子つとむ
に落ち着きました。この時、わたし自身は、占むるはやや大げさすぎるとも感じましたが、実景に一番近いものとして採用しました。
さて、両句は、並む、占むるという動詞が違うだけです。並むは見たままを叙景したものといえましょう。それだけに、作者の感動がどこにあるのか、不鮮明のような気がします。もちろん、作者は、散歩の際に見た沢山の景色のなかから、この景を選んで作句したわけですから、この景が読まれたことに、すでに作者の主観が刻まれているといえましょう。
しかし、並みたるということば、あまりに平凡で読み過ごされてしまうのではないでしょうか。一方の占むるはどうでしょうか。占むるには、ほんの少し、過剰感があります。読者に「本当?」という疑いも持たせてしまうのです。
わたしがこころを動かされたのは、まるで棟瓦を占めるように止まっている雀の群れの壮観さでした。厳密にいえば、棟瓦に多少の隙間はあったかもしれません。しかし、占むるといえば、棟瓦をほぼ満たしている雀の数の多さを表現することができましょう。実際、棟瓦に止れずに零れ落ちたいくつかが、瓦の遠近に散らばっていました。
占むるというような多少違和感のあることばに読者が立ち止まり、そして受け入れたとき、その句は、共感を得られたことになるのではないでしょうか。
二百八十、ことばの発見、場面の発見
秀句といわれる句には、何かしら発見があるように思われます。発見とは作者に感動を引き起こした当のものであり、作者に何かを気づかせた場面であったり、作者の心持ちを表すことばそのものであったりします。また、この作者の発見によって、読者の感動も惹起されるのではないでしょうか。
試みにいくつか例句を拾ってみましょう。まずは、場面の発見です。
外にも出よ触るるばかりに春の月 中村 汀女
毎年よ彼岸の入り寒いのは 正岡 子規
初蝶来何色と問ふ黄と答ふ 高浜 虚子
汀女の句では、上り始めた春の月が眼前に迫るようです。子規の句は、それまで幾度となく繰り返されたであろう母のことばが、そのまま句として採録されています。子規が発見したからこそ、このことばは句になったのです。
また、虚子の句のこの躍動感はどうでしょう。初蝶に出会った一座の興奮が彷彿としてきます。おそらく、俳句仲間ではないでしょうか。
これらの句は、場面から得た感動を余すところなく伝えているといえましょう。
次にことばの発見についてみてみましょう。
滝の上に水現れて落ちにけり 後藤 夜半
冬の水一枝の影も欺かず 中村草田男
をりとりてはらりとおもきすすきかな 飯田 蛇笏
ことばの発見とは、作者が感動を表現するのに最適のことばを見つけたということです。傍線部のようなことばが得られたことで、作者の感動の正体が明かされ定着されるのです。そして、だれもが一度は経験していたのに、捕まえきれていなかった感動が、まざまざと甦ってくるのではないでしょうか。
これらの句は、既に何十年も前に作られたものですが、少しも色あせることがないのは、感動を表現するの最も相応しいことばが発見されているからではないでしょうか。
さて、課題俳句を担当していて、次の句に出会いました。
深秋の藪に光れる忘れ水 渡辺 政子
辞書をひきますと、忘れ水とは、野中などに絶え絶えに流れて人に知られない水とあります。美しいことばです。藪の嵩がしだいに減って、その水が現れたのでしょう。
この作品には、実際の景に出会った作者の感動と、それをすでに忘れ水という名で残していた先人への思いが重なっています。忘れ水ということばの発見は、単に作者の感動の表現にとどまらず、ことばの歴史、人間の歴史へと思いを馳せる契機ともなっているのです。
一語たりとも自分の作ったことばはないという事実に今更のように驚いたのでした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?