俳の森-俳論風エッセイ第45週
三百九、感動の一語を探る
感動の一語とは、一句のなかでとりわけ強力に働き、読者が俳句を読んだときに、その句に立ち止まらせ、引き付けるようなことばのことです。作者にとっては感動を表現するための一語であり、読者にとっては魅力ある一語ということになりましょう。
さて、この感動の一語を、自ら創作してしまう俳人がいます。(太字部が、感動の一語)
高嶺星蚕飼の村は寝しづまり 水原秋櫻子
また、それを豊富な語彙のなかから、探し出す名人もいます。
深秋の藪に光れる忘れ水 渡辺 政子
忘れ水とは、野中などに絶え絶えに流れて人に知られない水のこと、なんと美しいことばでしょう。
はらからと酌む可惜夜の春炬燵 中川 晴美
可惜夜(あたらよ)には、惜しむべき夜、いつまでも眺めのいい夜などの意味があり、「春宵一刻値千金」という詩句を直ぐに思い浮かべます。
さらには、普段使いの一語を、感動の一語に格上げしてしまう俳人もいるのです。
とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな 中村 汀女
冬の水一枝の影も欺かず 中村草田男
滝の上に水現れて落ちにけり 後藤 夜半
芋の露連山影を正しうす 飯田 蛇笏
傍線を引いたことばは、ありふれたことばでありながら、読者の共感を引きだす感動の一語として機能しているように思われます。作者の主観を多分に含みながら、景と混然一体となっている、そのような感じがします。
まず、汀女の〈ふゆる〉から見ていきましょう。蜻蛉というもののもたらす安らかな景色、童心に帰った作者から思わずこぼれたことばが、〈ふゆる〉ではないでしょうか。
草田男の〈欺かず〉はどうでしょうか。冬の自然の厳しさを巧みに言い止めているように思われます。
また、夜半の〈現れて〉は、水を物質としてではなく、まるで生き物のように捉えているような感じがします。滝の上に見える水の盛り上がりを〈現れて〉と作者は表現したのですが、作者はそこに単なる水以上の何物かを見ているように思うのです。
蛇笏の〈正しうす〉にいたっては、山の姿に作者は憧憬すら抱いているように思われます。作者もまたそうでありたいと願っているのではないでしょうか。
この感動の一語を見つけることは、作者が感動の正体を見極めるということでもあります。それは、それに感動した自分自身を見つける旅でもあり、自然をより深く理解するための道でもあるように思われます。
三百十、句形が崩れる理由
句会などで、時々意味の通じない句を見かけることがありますが、その理由はおよそ二つではないかと思います。
一つ目は、五七五にするために、本来なら削ることのできない助詞などを削ってしまって、意味不明に陥るケースです。これをひとます分断型と呼んでおきます。
二つ目は、あまりにもたくさんの内容を詰め込もうとして、俳句の器を溢れさせてしまうケースです。ここちらは、詰込み型です。実際の句会での添削例をもとに、説明したいと思います。
○ 分断型
【原句】秋出水。出し抜け。静寂破りけり。(三段切れ)
【添削】出し抜けに静寂を破る秋出水。(一句一章)
三段切れになっています。出し抜けは、出し抜けにという意味でしょうが、この〈に〉は省略できないのです。添削では語順を変え、一句一章にしました。
【原句】墓参り。買わず。我家の百日草。(三段切れ)
【添削】庭のもの幾つか摘みて墓参。(一句一章)
とてもいい情景を詠まれています。自分で育てた草花を供えることは、ご先祖様への供養となるでしょう。季語が、二つ、墓参(初秋)と百日草(晩夏)です。初心のうちは、季語一つを心掛けてください。原句のままですと意味が通りにくいので、添削では、自分の庭のものを摘んで供花としたという風にしました。
○ 詰込み型
【原句】利根の土手。帰燕身支度。宙を舞ふ。(三段切れ)
【添削】利根川の河原に集ふ秋燕。(一句一章)
燕は、河原などに集まってから集団で帰るようです。原句は言いたいことが多すぎて、何がポイントかよく分かりません。一番いいたいことを見つけることが先決です。一句にたくさんのことを詰め込むと句にならないのです。
【原句】ぬく飯に茶碗二杯。寒卵。(二句一章)
【添削】寒卵落して食らふ飯二杯。(一句一章)
俳句は、俳句である前に日本語です。虚子の句に、〈ぬく飯に落として円か寒卵〉という句がありますが、飯だけでも十分通用すると思います。虚子は、〈寒〉に対して、〈ぬく〉を強調したかったのだと思いますが、普通は冷たいご飯に卵はかけないからです。また、飯を食うのは茶碗ですので、茶碗も不要でしょう。
原句で必要なのは、飯と二杯と寒卵ということばだけになります。全部で十音ですから、七音も残ります。その七音を、〈落して食らふ〉としたわけです。〈食らふ〉を止めて、〈落してぬくき〉とすることもできましょう。
俳句はよく省略の文芸などと言われますが、どの文字が要らないかが分かるようになると、俳句にもっとたくさんの情報を入れることができるようになります。
三百十一、感動の一語に至る
感動の一語を得る方法は、創るか、見つけるか、成すかのいずれかといえましょう。
高嶺星蚕飼の村は寝しづまり 水原秋櫻子
の高嶺星のような造語は、ごく少数の天才のみがなし得ることだろう思います。わたしたちにできるのは、見つけることか、成すことではないかと思います。
感動の一語を探すというのは、自分の感じた「あの感じ」に一番近いものを探すことだといえましょう。わたしは、ちょっと違うと思うと、よく類語辞典を利用しています。似たようなことばを候補としていくつかあげて、文字の意味や、響きや固さ、それがもたらすイメージなどを総合的に判断して選ぶようにしています。
一番ラッキーなのは、ある場面からそのことばが、僥倖のようにふっと浮かぶ場合でしょう。でもそのためには、わたしたち自身がことばをたくさん知っている必要があります。辞書で見つけたからといって、すぐ使える訳ではないからです。
はらからと酌む可惜夜の春炬燵 中川 晴美
深秋の藪に光れる忘れ水 渡辺 政子
可惜夜や忘れ水を見つけた作者は、きっと普段から語彙を増やすために、知らない言葉、気になることばは必ず辞書を引いておられるのだろうと思います。
語彙を増やすということでいえば、わたしの場合、青葉集(雲の峰)の鑑賞がとても役に立っています。平均すると毎回二十回くらいは辞書を引くからです。ほんとうに皆さんよく文字をご存知で、感心してしまいます。
日本語の文字は、五~六十万語あるそうですから、覚えきれるものではありませんが、これはという言葉を覚えておくと、いつか使える機会があるかもしれません。
しかし、〈見つける〉という地点にとどまっている限り、句意は既存の感慨の範疇ということになりましょう。殆どの俳句は、季語の情趣を追認するような形で詠まれています。作者は季語の情趣に共感して詠んでいるわけです。
これに対し、〈成す〉が狙うのは、季語の情趣を広げたり、まれに全く新しい情趣を付加することです。
冬の水一枝の影も欺かず 中村草田男
滝の上に水現れて落ちにけり 後藤 夜半
透徹した自然の摂理、あるいは非情さのようなものを感じさせる〈欺かず〉ということば、また、〈現れて〉には、滝を龍に見立てる場合に似たある種の怖れのようなものが投影されているように思われます。
作者のよって感動の一語に格上げされた普段使いのことばは、季語の情趣を踏まえつつ、それに新しい側面を付加させる働きをしていると思うのです。
三百十二、感動のほとぼり
ひばり句会のIさんはとても感受性が豊かで、ものごとに感動しやすいタイプです。よく擬人化の句を作られるのですが、本人はなかなかそれに気づかないといいます。
擬人化だけでなく、わたしたちは、感動の過中にあるとどんなに大仰な表現をしても、気づかないものなのです。感動のほとぼりが、わたしたちをある種の興奮状態におき、冷静な判断を妨げているものと思われます。
汀女の句に
外にも出よ触るるばかりに春の月 中村 汀女
がありますが、どんな場面かちょっと想像してみましょう。汀女は外にいて、月の出を見ているのでしょう。そしてそのあまりの美しさに家のなかにいる家人を呼んでいるのです。しかし、これが普段の会話であれば、
「来て、来て、月!」
くらいになるのではないでしょうか。決して、掲句のようには言わないと思うのです。掲句は、感動を直截に表現していますが、実は非常に冷静な措辞によって、場面を構成しているのです。
それでは、Iさんの擬人化の句とその添削例をいくつかご紹介しましょう。
【原句】ねじ花に見返り阿弥陀振り返り
【添削】捩花や見返り阿弥陀様をふと
原句ではねじ花に阿弥陀様が振り向いていることになってしまいます。捩花やと切ることで、中七以下は、作者の感慨だということが分かります。
京都の永観堂の「見返り阿弥陀」でしょうか。この付き具合はなかなかいいのではないでしょうか。
【原句】山を見ず吾を看つめる蛙かな
【添削】向き合へる蛙の顔を写しけり
看という字は、看護の看ですので、普通は〈看取る〉の意味になります。吾を看つめるがやはり擬人化でしょう。
添削のように向き合うとすれば、擬人化ではなくなります。すかさず携帯で写真を撮られたとのことでしたので、このようにまとめてみました。
【原句】鳩四五羽雪を惜しみて雪を食む
【添削】鳩四五羽雪に降りきて雪を食む
水の代わりに雪を食んでいるのでしょうか。面白い光景です。ただ、雪を惜しみては、やはり鳩を擬人化していることになります。降りきてとすることで、雪に降り立つ鳩の映像が浮かび、作者との位置関係もはっきりします。
Iさんのように感動することは、とてもいいことです。それが、表現の始まりだからです。感動のほとぼりが冷めてから、見直してみると、擬人化などは、案外すぐに気がつくのではないでしょうか。
三百十三、自信作の落し穴
三十年ほどのわたしの作句経験からいいますと、こころ秘かに自信作と思っている作品ほど、表現に落し穴があるものです。ここでいう落し穴とはほかでもありません、自分ではなかなか気づかない表現上の瑕疵のことです。他人ならすぐに疑問に思うようなことが、本人は分からないものなのです。
つい先だってもこんなことがありました。当地ではゴールデンウィークの期間が田植の最盛期で、その頃から蛙の声が夜を賑わします。天にも轟くような蛙の声をこれまでも何度も詠んできましたが、今回ふと次のような句が生まれました。
天地を言祝ぐごとく蛙鳴く 金子つとむ
天地を言祝ぐという感想はこれまで持ったことがなく、わたし自身にとっても新たな感慨でした。そのせいもあって、この句は、出来たときから一月余り、一度も推敲することなくやり過ごしていたのです。
ところがある時、この句の蛙は何匹に見えるだろうとふと気になりだしたのです。夜の蛙の合唱を眼前にして作ったのですが、気が付くと夜という情報も数多の蛙という情報もこの句には一切含まれていません。現場を知っている私自身はそのつもりなのに、句には全く反映されていなかったのです。
もし、数多ということを強調するなら、〈数多の〉ということばを入れることもできます。
天地を祝ぎて数多の蛙かな 金子つとむ
また、さらに夜という情報を入れるなら、
天地を祝ぎて数多の夜の蛙 〃
などとすることもできましょう。しかし、いろいろ考えた挙句、最終的には原句に戻ったのでした。
わたしのなかから〈祝ぐ〉ということばが生まれてきた背景を考えてみますと、人間の活動がもたらした環境汚染、分けても放射能汚染に対する、やり場のない憤りが作用していたように思えるのです。
そして、この句のポイントは、やはり〈祝ぐ〉にあるのだと考え直したのです。そう考えると、数多も夜も必須ではなく、〈祝ぐ〉と〈蛙の声〉があればいいと合点したのです。また、〈言祝ぐごとく〉を〈祝ぎて〉としてしまうと、相対的に〈祝ぐ〉が弱くなります。
結果的には原句に戻りましたが、蛙の数と夜景であることを検討したことは無駄ではなかったように思います。作者の感動を伝えるために、その作句現場からどんなことばを拾って表現に活かすのか、それは、作者自身が感動の正体を見極めることでもあるのです。
並びでて毒かもしれず蕨の芽 宇多喜代子
三百十四、感動を詠むということ
わたしは、俳句とは自分の感動を詠むものだと考えていますが、これにはいくつかの理由があります。わたしたちは、どんな些細なことでも、それがかけがえのない瞬間だと思うから、作句するのではないでしょうか。
季語と出会った喜び、季語を発見した喜びといってもいいかもしれません。個人的にそれを残しておきたい、さらにはだれかと共有したいという思いが、作句動機となるのではないかと思うのです。
それでは、感動とはいったい何なのでしょうか。すこし抽象的な言い方ですが、わたしは生きているということは、常に最先端の自分と出会うことなのだろうと考えています。移りゆく季節のなかで、移りゆくわたし自身が季節の景物と出会うのです。その景物との出会いの一瞬が、感動の源泉ではないかと考えています。このことを理解していただくために、自作の詩をご紹介したいと思います。
〈いまここ〉
いまここにいます/そんなことをいうと/当たり前じゃないかと/言われそうですが
心配性で/気まぐれで/物思いに耽り易い/わたしのこころは/すぐにどこかへ/行ってしまいます
俳句はいまここの/文学です/いまここにいる/わたしが
いまここにある自然と/対峙するのです
いまここは/いつだって新しい/わたしも/自然も
過ぎ行くときを/過ぎ去らせ/いのちの小舟の舳先に/乗って/わたしはいつも/いまここにいます
いまここにいると/目の前の相手のことが/ほんとうに/よく分かります
ちょっとした目くばせも/表情の翳りも/吹き過ぎる風のいろも/そのやさしさも
わたしは/いまここにいます/いまここにいて/いまここを/楽しんでいるのです/いのちを/いとおしむように・・・
感動とは常に未知の領域にあるものです。わたしたちは、感動を予測することはできません。極論すれば、感動することで、わたしたちは、自分自身を再発見することができるのではないでしょうか。
自分の美意識のなかで、俳句を創作するのも一つの方法ですが、わたしは、感動を源泉として作句するほうが、よりスリリングで面白いのではないかと考えています。
わたしたちは、明日どんなものに出会い、どんな句を作るのか、予想することはできません。俳句の種となるような一瞬の閃きを、ハイク・モメント(俳句的瞬間)と呼ぶそうですが、日ごろから身に付けておきたいのは、そのハイク・モメントを瞬時に言葉にする表現力ではないかと思うのです。
三百十五、奇跡のようなこの世を詠う
俳句が感動の詩だとするなら、わたしたちは、何故に季節の景物に感動し、時には涙を流したりするのでしょうか。版画家の棟方志功は、〈わだばゴッホになる〉(日本経済新聞社)という自伝的な著書の見開きに、次のようなことばを残しています。
アイシテモ、あいしきれない
オドロイテモ、おどろききれない
ヨロコンデモ、よろこびきれない
カナシンデモ、かなしみきれない
それが板画です
棟方志功
志功は、版画のことを彼独自の言い回しで板画と呼んでいますが、右のことばから、志功が全身全霊をかけて板画に取り組んでいる、その気迫のようなものが伝わってくるようです。これが一つの道を究めるということなのかもしれません。志功にはまた、板極道という本もあるくらい、板画というものを楽しみ、とことん突き詰めていたのだろうと思います。
わたしたちの俳句の道も、志功のことばを俳句と置き換えても通用するくらい、とめどない世界のように思われます。俳の森に分け入るたびに、さらなる奥深さを痛感してしまうのです。
学生時代に文芸部に所属していたのですが、北海道ヒッチハイクの紀行文で、サロマ湖で見た夕日を「悲しくなるくらい美しい」と表現したところ、仲間から「悲しくなるくらい美しい」という意味が分からないと言われ、ショックを受けたことがありました。
それは、長らくわたしのなかで疑問として残っていましたが、今になって思うのは、わたしたちが自然から受け取るものには、かなりの個人差があるということです。
しかし、こんなにも短い俳句で共感し合えるわたしたちは、自然から多くのものを感動として受け取ることができる人たちなのではないでしょうか。仕事をリタイアして、こころが自在になってくる時期は、老いということを意識し始める時期でもあります。
かけがえのない命を思うとき、この世のことは、奇跡ではないかと思うような瞬間が訪れることがあります。老いてこそわたしたちは、いのちの実像に迫ることができるのではないでしょうか。わたしたちが、感動を見極め、自分自身を見つめることを怠らない限り、俳句がわたしたちを導いてくれるように思うのです。ネットで知り合った十河さんは、既に自在の境地に達しておられるようです。
歩行車を押して春野に消えゆかむ 十河たかし
花散りて虚空に去りしもののあり 〃
ひとひらの花の散りゆく早さかな 〃
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