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俳の森-俳論風エッセイ第33週

二百二十五、俳句の韻律と省略

あらためていうまでもないことですが、俳句は五・七・五の韻文です。今回は、この韻律が省略とどう関連してくるのかということを考えてみたいと思います。

朝妻主宰(雲の峰)が切字論で取り上げている句の内、省略を含むものを探してみましょう。
【一句一章(句意)】
鶏頭を三尺離れもの(を)思ふ。      細見 綾子
盆梅が満開となり酒(を)買ひに(出かける。)皆川 盤水
見る者も見らるる猿も寒さうに(している。)稲畑 汀子
うぐひすのなくや。ちひさき口明いて    与謝 蕪村
山茶花や。いくさに敗れたる国の      日野 草城

(補完関係)
石山の石より白し。秋の風。        松尾 芭蕉
神田川。祭の中を流れけり。       久保田万太郎

【二句一章(句意)】
(二物衝撃)
蟾蜍。長子(が)家(を)去る由もなし。  中村草田男
算術の少年(が)しのび泣けり。夏。    西東 三鬼

(情景提示)
夜桜や。うらわかき月(が)本郷に(出た。)石田 波郷
ひぐらしや。どこからとなく星(が)にじみ(出た。)
                     鷹羽 狩行
七夕や。髪(の)濡れしまま人に逢ふ。   橋本多佳子

【三段切れ(三句一章)】
目には青葉。山(の)ほととぎす。初鰹。  山口 素堂
初蝶来。何色と問ふ。黄と応ふ。      高浜 虚子
明日(は)ありや。あり。外套のボロ(を)ちぎる。
                     秋元不死男
緑なす松や。金(が)欲し。命(が)欲し。 石橋 秀野

こうしてみると、俳句では常に五・七・五にしようとするちからが働き、省略可能な助詞あるいは動詞を省略する傾向にあるようです。
そのことが、ことばのリズム感と緊密感を生み、散文にはない味わいを醸し出しているといえるのではないでしょうか。そして、ことばを省略できるのは、読者がそれを一義的に補うことができ、省略されても意味を取り違えることがない場合に限られるといえそうです。
 逆にいうと、一義的に助詞をあてがうことができなかったり、意味が通じない場合は、省略不能ということになるでしょう。
滝の上に水現れて落ちにけり        後藤 夜半
白牡丹といふといえども紅ほのか      高浜 虚子
ねむりても旅の花火の胸にひらく      大野 林火


二百二十六、二つ以上の句文を統べるもの

ここでは、朝妻主宰(雲の峰)の句形論をもとに、二句一章、三段切れ(三句一章)の句文が、一章として統べられる理由を考えて見たいと思います。
句意の二句一章、三段切れを取り上げますので、補完関係については言及しないことにします。

二句一章の二つの句文を例によって句文A、句文Bとします。情景提示も、二物衝撃もこれらの句文同士は、独立した関係にあります。それなのに、この二つの句文が一章をなすことができるのは何故なのでしょうか。
そこには、これらの句文を統べる何らかの力が働いているのではないでしょうか。その力をわたしは、場の力と呼んでみたいと思うのです。場の力とは、そこに作者がいて、作者の視点から選びとられた景物が一章を構成しているということです。

古池や蛙飛び込む水の音         松尾 芭蕉
一句を構成する景物は、作者の視野のなかに存在していると考えることができます。
夏草や兵どもが夢の跡          〃
作者は夏草を眼前にして立っていて、作者の感慨として「兵どもが夢の跡」という句文が立ち上がっていると考えられます。つまり、どちらのケースでも作者の立ち位置が確保されているということです。

一句のなかに作者の立ち位置があることが、俳句に空間が内在することの理由ではないかと思われます。何故なら、古池と作者との距離は、少なくとも水音が聞こえるほどの距離であり、その距離があることで空間が生まれるからです。さらに、夏草の句では、眼前の夏草のある空間に、時間的な広がりも加味されています。
何れの場合でも、その空間に作者はいて、その立ち位置から見た視点によって、一句は統べられているといえるのではないでしょうか。極論すれば俳句は詩空間そのものだと思うのです。

写生という手法を身につけたわたしたちが、眼前の景物のなかから取捨選択して一句をなすとき、そこに生まれる詩空間は、ひとりでに作者の視点によって統べられています。それ故、ことさら意識しなくても、句文A、句文Bが散逸してしまうことはないのです。
三段切れであっても事情は同じです。
初蝶来何色と問ふ黄と応ふ        高浜 虚子
彼一語我一語秋深みかも         〃
目には青葉山ほととぎす初鰹       山口 素堂

句文A、句文B、句文Cを統べているのは、やはり場の力といっていいのではないでしょうか。


二百二十七、詩空間を感動で満たす切れの力

前回、俳句は極論すると作者のいる詩空間そのものであるというお話をしました。今回は、切れ(切字)の働きで、詩空間が感動で満たされる様子を見てみましょう。Aが原句、Bは切字を変更して一句一章にした場合です。

A古池や蛙飛び込む水の音        松尾 芭蕉
B古池に蛙飛び込む水の音        

Aでは、古池というものを読者がしっかりと受け止め、自分のなかに古池のイメージを定着できるのに対し、Bでは、古池に思いがとどまるまえに、次へ流れてしまうような感じがします。それは、助詞の「に」が、飛び込むという動詞を呼び込んでしまうからかもしれません。
いずれにせよ、切字「や」によって、古池のイメージが強く打ち出され、作者の感動が詩空間を満たしていくように思われます。古色蒼然とした趣、その静けさのなかに蛙の水音が聞こえてくるのです。

A夏草や兵どもが夢の跡         松尾 芭蕉
B夏草は兵どもが夢の跡         

Bのように一句一章にしてしまうと、夏草に対する思い入れは、かなり希薄になってしまうのではないでしょうか。やはり「夏草や」と打ち出してこそ、「兵どもが夢の跡」という重厚な句文と釣り合うように思えるのです。

次に、一句一章で使われる「かな」「けり」を見てみましょう。
とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな    中村 汀女
くろがねの秋の風鈴鳴りにけり      飯田 蛇笏

「蜻蛉かな」の詠嘆によって、作者のこころが蜻蛉に寄り添っているのが分かります。また、「鳴りにけり」は、作者が風鈴の音色に驚いて、耳をそばだてている様子を彷彿とさせるでしょう。詩空間に作者の感動が行き渡っている証拠ではないでしょうか。

次に、いわゆる「や」「かな」「けり」などの切字のない場合を考えてみましょう。朝妻主宰説では、切字は、句点を含む語となります。
蟾蜍長子家去る由もなし         中村草田男
掲句では、句文Aと句文Bが一瞬戸惑う位に離れているため、切字「や」がなくても、句文間の断絶(切れ)を強く意識することになるでしょう。この句の構造は、芭蕉の「夏草や」と同じです。
そして、句文Aと句文Bの併置は、大いなる謎となって、わたしたちに迫ってきます。やがて、二つの句文が、スパークするように繋がったとき、二つを併置した作者の意図にはたと気づくのです。そして、この断絶を作者の感動が満たしていることを知るのです。


二百二十八、ポエム・季語って何?

今回は、趣向を変えてポエム風に始めてみましょう。
日本に四季があるということ
それがすべての始まりだった
自然は驚くほどの美しさで人々を魅了した
しかし時には
圧倒的な残忍さでその脅威をみせつけた
やがて
ひとびとは自然を見極め
類まれなことばに結晶させた
風を読めなければ漁師ではない
空を読めなければ農民ではない
それに秀でたものが
長と呼ばれ敬われた

漁師は命がけで漁をして
絶えることなく命を繋いできた
農民もまた
幾世代もかけて一つの田畑を耕し
大地の恵みを
手に入れてきた
そうしてときは流れ
無数の季節のことばがわたしたちに残された
季語―――それは
五感に刻まれた季節の刻印
季語―――それは
先人たちのいのちの証し
季語を唱えるだけでわたしたちは
その世界に飛んでいける
五感が勝手に反応してしまうのだ
何という不思議なことば!
さくらといえばさくらが咲き
もみじといえば山々が色づく
何ということばの魔法!
日本に四季があるということ
それがすべての始まりだった

季語は、一句のなかで作者のいる場所の空気感を決定づけているように思われます。夏井いつき氏は、絶滅危急季語辞典(ちくま文庫)のなかで、芭蕉の次の句に、湿り気を感じると指摘されています。
辛崎の松は花より朧にて         松尾 芭蕉
この芭蕉の一句には、肌に感じとることができるぼんやりとした湿気が存在する。鼻腔の奥のかすかな湿りを思い出させるような皮膚感がある。(略)
季語とはわたしたちにとって、すでに肉体化し皮膚感覚となったことばなのではないでしょうか。あらゆる五感情報がそこにはぎっしりと詰まっているのです。


二百二十九、二句一章のかたち

二句一章(句意)の形は、なぜ情景提示と二物衝撃だけなのでしょうか、句文Aと句文Bは、それぞれ独立した意味をもっていますが、これを二つの円として、数学の集合図として表記すると、次の三つの関係を想定することができるでしょう。
① 片方の句文が、もう片方の句文のなかに含まれる場合。
② 句文Aと句文Bが接するか重なりあっている場合。
③ 句文Aと句文Bが無関係の場合。
このうち、③はそもそも、俳句として成立しようがありません。残る①と②が、それぞれ①情景提示と②二物衝撃ということになります。それでは、例句を上げて確認してみましょう。

【情景提示】
七夕や髪ぬれしまま人に遭ふ       橋本多佳子
芋の露連山影を正しうす         飯田 蛇笏
夏の河赤き鉄鎖のはし浸る        山口 誓子

例句では、季語である句文Aの情趣のなかに、句文Bが置かれているように思われます。つまり、季語の情趣が一句を統べているといっていいでしょう。次に、二物衝撃を見てみましょう。
【二物衝撃】
霜柱俳句は切字響きけり         石田 波郷
蟾蜍長子家去る由もなし         中村草田男
楸韆は漕ぐべし愛は奪ふべし       三橋 鷹女

当初、句文Aと句文Bは、無関係のような印象を与えるかもしれません。しかし、読者が、二つの句文の関係に気づいたとき、これらは結合を果たすのです。
もし仮に、読者にとって二つの句文の関係が不明のままであれば、掲句はその読者にとっては、俳句ですらないともいえるでしょう。

次に二句一章(句意)になりえないケースを見てみましょう。まずは、句文として意味が独立していない場合です。初心者の犯しやすい過ちといえましょう。
【句文の意味が独立していない場合】
射的屋の女將のうなじ。汗光る。
射的屋の女将の頸に汗光る。

五七五にするために、省略不可能な助詞を省略した結果生じたもので、一句一章が崩れた形といえます。
【句文A=句文B、種明かし】
これは、朝妻主宰が種明かしと称しているもので、例えば、草田男の句を故意に変形すると次のようになります。原句のように、本来は一句一章で表現すべき内容です。端的にA=Bなら、二句にする必要すらないのです。
町空に新しきもの。つばくらめ。
町空のつばくらめのみ新らしや      中村草田男


二百三十、補完関係が意味するもの

ここでは、補完関係が意味するものを例句の鑑賞を通して探ってみたいと思います、ここで取り上げるのは、主語を補完する場合です。二つの例句をもとに、補完関係が、助詞「が」や「は」の省略では決してないことを確認していきたいと思います。

① 神田川祭の中をながれけり      久保田万太郎
② 神田川が祭の中を流れている

①と、②の散文は同じ意味でしょうか。もし、①を助詞「が」が省略された意味に解釈すると、②とそれほど違わないことになります。しかし、原句の意味は全く異なります。以下は、その鑑賞文です。
いつも見慣れた神田川が、今日は、祭の中を流れている。祭りの風物を川面に映して、静かに流れている。普段は気にも留めなかったが、川はいつもそうやって人の営みを映して流れていくものなのだ。これまでもこれからも・・・。

このような鑑賞を可能にするのは、上五の切れと下五の「けり」の働きでしょう。作者は、祭のなかで神田川を、いや川というものを再発見したのではないでしょうか。そこには、絶えることのない営々とした流れがあったのです。単に、「が」が省略されている訳ではないというのはそういう意味なのです。

① 一月の川一月の谷の中        飯田 龍太
② 一月の川が一月の谷の中にある

もし、②のように言われたら、それは理屈にしか聞こえないでしょう。しかし、原句は全く違います。ですから、次のような鑑賞文を引き出すことも可能なのです。
この素っ気無いくらいの無機質な感じはどうだろう。
私はこの句から、葉の落ち尽くした雪深い広葉樹の谷を思い、そこに暗く深い色を見せて流れる一条の川を想像する。一月の川も一月の谷も、発語された瞬間に、まるで別々の存在として立ち現れるのだ。一月という季語の力が、ものをものとして、分離・独立させてしまうのである。
だからこの句は、三月でも六月でもいけない。季語が動かないというのはまさにこういうことだと思う。この句は、単なるレトリックの句ではない。一月とはまさに物そのものを剥き出しにする月なのだ。そのような一月の谷川の在り様を、一月の川といい、一月の谷といったのである。そしてこの二つを「の中」という措辞でまるで嵌め絵のように結びつけてみせたのである。
この句はあまりにも鮮やかで、一瞬何が起こったのかわからないくらいだが、川といい谷というありふれた概念を、一月の一字が限定し、特定し、まさに実在する川そのものとして提示したのである。俳句でこんな芸当ができてしまう。それは驚きであり、読者の喜びでもある。


二百三十一、省略できる「の」、できない「の」?

俳句の韻律と省略の項でも述べましたが、俳句の音数律は、五音、七音、五音のなかでは、それぞれ助詞や語を省略して、音数を整えるように働きます。その結果、例えば上五の名詞に格助詞の「の」がついて五音以上になるような場合、この「の」の要不要について、迷う場合があります。今回は、格助詞の「の」が省略できるケースとできないケースについて見ていきます。

すでに、朝妻主宰は「切字という名の呪縛」の冒頭で、「の」が省略できるケースについて言及していますので、要約してみます。
語と語の間には互いに結びつきあって一つの意味をなそうとする性質があるとしたうえで、主宰は、省略された助詞が一義的に特定できるのであれば、省略可能だと述べています。名詞+名詞では、助詞「の・と・や」が省略可能で、「の」が省略されるのは、次のようなケースです。
大根の花紫野大徳寺           高浜 虚子
バス来るや虹の立ちたる湖畔村      〃
冬河に新聞全紙へばりつく        山口 誓子

それぞれ、紫野の大徳寺、湖畔の村、新聞の全紙の省略されたものです。蛇足を加えるならば、「の」の省略された箇所に句点があると仮定した場合、句として成立しないため、助詞の省略だと分かるのです。
大根の花。紫野。大徳寺。        (成立しない)
バス来るや。虹の立ちたる湖畔。村。   (成立しない)
冬河に新聞。全紙へばりつく。     (成立しない)

以上のことを踏まえると、上五に続く「の」の要不要も自ずから明らかでしょう。つまり、次の場合だけ「の」が省略できるのです。
A 一義的に「の」の省略だと分かる。
B 句点を打つと、句として成立しない。

ですから、次の句のように、「江戸神輿の鳳凰」の「の」は省略できます。
江戸神輿鳳凰まさに飛ばんとす
江戸神輿。鳳凰まさに飛ばんとす。    (成立しない)

逆に省略できないのは、以下のような場合です。原句①は、②のように言い換えても文章が成り立ちます。
① ポンポン船の冬浪。犬と殘りたり。  細見綾子
② ポンポン船と冬浪。犬と殘りたり。

このように、助詞が一義的に決まらない場合、「の」は省略できないことになります。もしこの句を、
ポンポン船。冬浪。犬と殘りたり。
と敢て破調の三段切れにすると、句としては成立しますが、冬浪は船が齎したものではなくなり、詩情が失せてしまうように思われます。


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