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俳の森-俳論風エッセイ第8週

五十、ことばの重量化


たまたま、古典文法読本(板羽淳著、北溟社)を読んでいたところ、次のような記述にであいました。
一分節の平均音節数(仮名の数)は約3.5であるとされています。これを一七音の俳句に当てはめると、
17÷3.5=4.85
になります。ということは、一句は四~五の文節で構成されることが多いということになりそうです。
さみだれを/集めて/早し/最上川(四分節)
古池や/蛙/とびこむ/水の/音(五分節)
ここで、文節というのは、日本語の意味が通る最小単位のことです。

俳句の文節数が、平均四~五というのは、別の言い方をすれば、たかだか四~五分節で俳句は何かを言わなければならないのだということです。そこで、四~五文節を最大限に生かす方法が編み出されたのです。
その一つが季語であるといえましょう。季語の使い方は、大別すると二通りしかありません。一句のなかで、季語の情趣を追認するように使うか、季語の情趣に新たな認識を付加するように使うかの二つです。二句一章の形でいえば、前者が情景提示、後者が二物衝撃ということになるでしょう。季語の世界は、例句によって常に広がっています。

そして、もうひとつは、ことばの重量化です。以前に、俳句で「見る」とか「聞く」ということばを使えば、それは「ことさらによく見る」、「ことさらによく聞く」という意味になるといいました。それと同じように、ことばが十全に働いている状態では、ことばが重くなるのです。
何故なら、ことばが十全に働くとは、そのことばがまるで石組みのようにその居場所を定め、他のことばと緊密に関係しあうということを意味するからです。

たかだか四~五文節ですから、俳句では、ことばどうしがえもいわれぬ関係のなかで関わりあうようすをつぶさにみることができます。そのことばの例えようもない美しさ、かけがえのなさこそが、ことばを重く感じさせるといってもいいでしょう。

うすめても花の匂の葛湯かな       渡辺 水巴
遠山に日の当りたる枯野かな       高浜 虚子
月天心貧しき町を通りけり        与謝 蕪村
滝の上に水現れて落ちにけり       後藤 夜半
外にも出よ触るるばかりに春の月     中村 汀女
夢の世に葱を作りて寂しさよ       永田 耕衣

 ここには、かけがえのないことばが、これ以上はありえないような美しさで並んでいるように感じられます。

五十一、季節がうごくと心もうごく


台風のあとに、ドラマチックな夕焼けを見ることがあります。その夕焼けも、ほんの少し誰かと立ち話している間に、灰色の雲に変わっていたりします。ちょっと落ち込んでいた自分が、友達からの一本の電話で気分が変わることもあります。そんなことは日常茶飯事、とりたてていうほどのことではないのかもしれません。
けれども、俳句は違います。季節の景物にこころが動いた瞬間を、五七五で言いとめようとします。何故、そんなことをするのでしょうか。こころが動くことは、生きているわたしたちの、いのちの粒立ちのようなものだからではないでしょうか。俳句は、その粒立ちを、いのちの実感として言いとめようとするのです。

大きなこころざしをもって、営々と努力することもいのちのありようなら、風や光にふと心を動かされるのも、今生きてあるいのちのありようといっていいでしょう。
俳句に表現されていることがそのようなものだからこそ、たった十七音でもひとのこころに共感をもたらすことができるのではないでしょうか。

俳句では、よく報告句はいけないといわれます。例えば、次のような句です。
立ち話夕焼け空をちらとみて       
句意は、夕焼けの空をちらっとみやって、立ち話に戻ったということですが、夕焼け空をみて心が動いたようすが少しも感じられません。これを、
梅雨夕焼雲を焦がして終りけり      金子つとむ
としてみたらどうでしょう。「雲を焦がして」ということばに、夕焼けを惜しむような気持ちが表現されていないでしょうか。

 つまり、報告句は、まるで義務で作ったかのように、こころが動いていない句のことなのです。作句は、ことばこね回すのではなく、こころの動いた瞬間をのがさずに言いとめる工夫をするだけでいいのです。
 熊谷守一という画家は、蟻を凝視して、「蟻は、左の二番目の足から歩き出すんです。」ということばを残しています。また、川端茅舎という俳人は、次のような句を作りました。
露の玉蟻たぢたぢとなりにけり      川端 茅舎
高浜虚子は、茅舎の句集の序文で、「花鳥諷詠真骨頂漢」という賛辞を捧げているほどです。対象をよく見つめて作句する方法は、写生と呼ばれています。

窓から見える景色でも、散歩の道すがらでも、すこしでも気になるものがあったら、立ち止まってよく見てください。季節が、小さな発見をさせてくれるかも知れません。


五十二、客観写生句の鑑賞


第四十八回の蛇笏賞を受賞された深見けん二氏の「菫濃く」のなかから、次の二句を鑑賞してみたいと思います。
初蝶のしばらく水にうつりけり      深見けん二
この句が意味するところを順次追ってみると、
初蝶:初の字が示すように、季語の初蝶は、その年に始めて蝶にであった作者の喜び、驚きを表現しています。掲句の場合、初蝶が作句動機といっていいでしょう。
しばらく:しばらくということは、水に映っている間のみならず、それ以前から作者は、蝶を見続けていたことを示しています。
水に:この水は、小さな小川か、水溜りのようなものではないか。しばらくとの関連から、そういえるでしょう。
うつりけり:作者は初蝶の姿そのものだけではなく、水に映る姿に注意を向けている。むしろ、そのことを句にしたわけですから、水に映る姿にこそ作者の関心があるといってもいいのではないでしょうか。
でも、それは、何故なのでしょうか。この句を読むと、最後にこの謎が読者に手渡されるのです。

この句は、作者が見た通りの情景を句にしています。そして、読者に手渡されたこの謎が、読者をこの句に留め、引き寄せる働きをしています。読者もまた、蝶の影に見入ってしまうのです。作者が見つめている蝶の影は、いのちの象徴なのかも知れません。作者の関心は、蝶の意匠ではなく、明らかに、それらの意匠を剥奪された影に向かっているのです。

今年又師の籐椅子に腰深く        深見けん二
おそらく虚子忌での嘱目でしょう。前句と同様に解釈してみます。
今年又:今年又は、それが何年もあるいは何十年も前からの習慣であることを示しています。
師の籐椅子に:何のために師の籐椅子に座るのか、ここでは理由は示されません。一年を振り返り、虚子の教えに忠実であったか否かを自省するためではないかと思われます。
腰深く:そんな自省のときを過すのは、虚子に対する全幅の信頼があるからでしょう。「腰深く」が、そのことを雄弁に物語っているようです。
この句にも、前句同様、巧みに謎がはめ込まれています。読者は、「今年又」や「腰深く」の措辞から、作者が籐椅子に座る理由に迫ることができます。作者の師に対する尊敬と全幅の信頼を読み解くことができるのです。

このように、客観写生句とは、句そのものが、作者の存在やその関心のありどころをあぶり出す仕掛けになっています。読者には、謎とともに、それを解く手掛かりとなることばが提示されているのです。


五十三、俳句に求めているもの


作者は俳句に何を求めるのでしょうか。また、読者はその俳句を読むことで、何を得たいと思うのでしょうか。一言でいえば、俳句の魅力とは何かということです。辞世の歌や句があるように、俳句という文芸には、その個人と一体化した抜き差しならないものがあるように思われます。それは、いったい何なのでしょうか。

以前に、俳句は「感動瞬時定着装置」であると述べましたが、感動は普通「おう」とか「ああ」とかいう感嘆詞で表現されるか、「すごい」「はやい」などの一言で表現されることが多いように思います。流行のことばでいえば、「すごっ」「はやっ」とかなるかもしれません。わたしたちが、促音に込めたものが感動ということになるでしょう。

例えば、仲秋の名月を二人で眺めている場面を想像してみましょう。「わあ、きれい」とか、「おお」とかいうだけで、その感動は相手に伝わるでしょう。ところで、もし第三者にこの感動を伝えるには、どうしたらいいでしょうか。
第三者はその場にいるわけではありませんので、第三者に感動を伝えるためには、その場面を再現することから始めなくてはならないでしょう。
そこで俳句では、感動の現場の構成要素を提示することで、その場面を再現します。散文の叙述と俳句の提示とではどこが違うのでしょうか。それは、叙述が読者の論理性に訴えるのに対し、提示は想像力に訴えるということです。

俳句の表現位置はいまここです。感動は、いつも今ここにあります。その感動の現場を、現在進行形で再現するのが俳句なのです。わたしたちの今は、わたしたちの生の最前線といっていいでしょう。良く考えてみれば、わたしたちが生きているのは、常にいまここなのです。
わたしたちの五感が感じ取るものや気分の流れなど、捉えようとすれば、様々なドラマを内部に秘めてわたしたちは生きています。わたしたちが、俳句を作りつづけ、俳句に期待を寄せるのは、そのような生の実感を形あるものとして留めたいからではないでしょうか。

次の瞬間には消えてしまうような一瞬のよろこび、そんなあえかなものを、俳句はことばに定着させているのです。
様々な季語は、いのちの輝きを示しています。他者と感動を共有できるのは、共に生きているからです。
感動がわたしたちの間に連体感を生み、わたしたちに勇気を与えてくれます。俳句は、わたしたちに一瞬一瞬の生の実感を与え続けてくれるのです。
それは、生の最後の瞬間まで続くでしょう。辞世の句とは、あくまでも生の側に立って生の実感を詠うことなのではないでしょうか。


五十四、自己発見としての俳句


花が咲いた。鳥が飛んだ。虫が鳴いた。
わたしたちは、自然の営みを逐一俳句にしているように思われます。二時間ほど、鳥見がてら散歩をしただけで、句ができたり出来なかったりします。わたしたちは、単なる自然の目撃者であり、記録者なのでしょうか。それとも、作句には、ほかに何か意味があるのでしょうか。

わたしたちが俳句にするのは、わたしたちのこころに感じたものといえます。ですから感じるものがなければ、何時間散歩しても一句さえ覚束ないこともあるのです。
こころもち泡立草の穂先垂る       金子つとむ
着地しておんぶばつたの荷が傾ぐ     〃
犬蓼の畦這ふ茎もくれなゐに       〃

これらの句の内容は、自然の営みのほんの些細な現象に過ぎません。それを、何故わたしは句にしたのでしょうか。そこにどんな価値があるのでしょうか。

わたしたちは、何かを感じたから句にします。それは、わたしたちのこころの反映だといえましょう。しかし、実際に句にしてみるまで、それが何であるかわたしたち自身にもわからないのです。
実際にできあがった俳句から、わたしたちはそこに自分が見ようとしていたものを見ることになります。犬蓼といえばその花穂にばかり気をとられていたのが、今回はその茎のくれなゐに目を向けている、自分自身が少しずつ変わっていく、その結果として句も変わっていくのです。

このように、俳句は、わたしたちの心の表徴としてそこにあるのではないでしょうか。ですから、一度その句材を詠んだからといって、それで終わりではないのです。わたしたちの見る目が変われば、見え方も変わってきます。

前掲の三句は、散歩をした同じ日にできたものです。その日に限って、泡立草の垂れた穂先が見え、おんぶばったに背負われたもう一つのばったが見え、犬蓼のくれなゐの茎が鮮やかに目に飛び込んできたのです。自分がこの句を詠んだということに、実はわたし自身も驚きました。特に、くれなゐの茎には、ある種の切実さを感じたからです。

このようにして、作句を通して、わたしたちは、わたしたちのこころを発見していくのではないでしょうか。句会などで他人の句を読んでいても、その人が淋しげな句ばかり詠んでいると、その気持ちを慮ってしまいます。

俳句を作ることは、自分発見の旅でもあります。その旅を導いてくれるのは、自分が感じたことをまっすぐに詠むというたったそれだけのことではないかと思います。

五十五、作者と読者の間の溝について


自信作が全く評価されなかったり、気軽に投句したものが思わぬ反響を呼んだりすることはままあることですが、大須賀乙字は、季感象徴論(大須賀乙字俳論集、村山古郷編、講談社学術文庫)のなかで、その間の事情を次のように述べています。
それでも、読者が理解しないのは、表現上に欠点があるか、読者の経験範囲から全く遠ざかった境地であるか、しからざれば読者の価値批判の眼が曇っているからである。読者の価値批判の眼というものは、因襲的に固定したる季感をもっている人にあっては、甚だにぶらされているのである。

読者を想定しない日記のようなものであれば別ですが、俳句の場合、必ず読者がいます。むしろ、読者に共感してほしいという思いが、作者の側には強く存在します。そのときは、俳句はどこを目指したらいいのでしょうか。

作者には表現上の嗜好や、語感、ことばのイメージなどがあります。作者はそれらを駆使して俳句形式に敵った表現を目指しますが、乙字のいうように、それが、「読者の経験範囲から全く遠ざかった境地であるか、しからざれば読者の価値批判の眼が曇っているか」を予め知ることは不可能でしょう。
そうすると、作者のすべきことはただ一つ、表現したい内容を伝わるように、表現上の欠点をなくすことだけになります。これを別のことばでいえば、作者が納得できて、読者にも理解できる表現を目指すということです。

しかし、読者にも理解できる表現というのは、いうは易しで至難のことです。大須賀乙字は、前掲の書の一言俳談のなかで、次のように述べています。
他人の句には難癖つけ易しというは当らず。わが句は落ち付くまでの道行き細々と知れれば、不足多し。(太字筆者)

また、同書の別の箇所では、次のように述べています。
そこで作者の用意としては、冷静に結果を観察すべきである。作者は一句完成するまでの過程に、貴重なる種々の対象に触れている。その対象が目先を放れぬからして、句面より当然連想さるべくもない対象なるにかかわらず、作者はその対象が当然連想さるると思っている。自分の句がすぐれて見えるのは、そのためである。
ゆえに一度句作の過程を忘れて、結果に注意すれば、自作に対する正当の判断ができるのである。(太字筆者)

この指摘はほんとうにその通りだと思います。肝に銘じて置きたいことばではないでしょうか。


五十六、季語の発見


先にとりあげた季感象徴論のなかで、大須賀乙字は、芭蕉の「石山の石より白し秋の風」の考察を通して、季語は都度発見されるものだということを述べています。その部分を若干引用してみましょう。

すなわち読句から得る季感は、実は季の景物気象その物だけの感じ感情ではなくして、その句を含む一句の感じ、感情によって、具体化されているのである。(中略)
しかるに、これまでの俳人のいい草によれば、牡丹に積極的な繁華な趣があり、藤に愁いをひくがごとき風情があるとようにきめてしまっている。(中略)

季節に感じて句を作るという本来のあり方からすれば、乙字の主張は当然のことのように思われます。しかし、季語を勝手に入れ替えて、どちらがいいかなどと思案してしまうのも事実ではないでしょうか。

このようなことの起る背景には、季語の二面性があります。既に繰り返し指摘しているように、季語のもつ自然物としての側面と、季が特定され、例句の体系が出来上がることによる人為的な側面です。
自然的な側面を純粋に守ろうとすれば、乙字のようになりますし、人為的な面に即すると、本歌取りのような表現もできるわけです。これは、作者の表現上のスタンスですので、他者が立ち入ることはできませんが、わたし自身は、自然的な側面を大事にしていきたいと考えています。

その理由は、一句のもつ力ということを考えてみたときに、一句の生命をなすのは、そこに込められた感動のちからであると思うからです。
赤蜻蛉夕日を負ひて草の秀に       金子つとむ
この光景は、晩秋の畦道で実際にわたしが見て、感じた光景です。いかにもありそうな句に思われるかも知れませんが、同時に次の句も詠みました。
草の秀の蜻蛉その儘夜に入る       〃
草の秀の蜻蛉は、そのまま翌朝までそこで過すのではないでしょうか。以前、奥日光の戦場ヶ原で、穂咲下野(ほざきしもつけ)に縋るように、びっしりと朝露で覆われた蜻蛉を見たことがあります。昼と夜、暖と寒、自然の営みのなかで、蜻蛉もまた小ささいのちを紡いでいるのです。

俳句は、九割以上、自分のためのものという気がしてなりません。残り一割はもし共感してくれる人がいてくれたら在り難いといったところでしょうか。偽りなく自分を見つめ表現することができれば、それでいいのではないかと思います。一句一句のなかで季語を発見していく、これにまさる喜びはないのではないかと思うのです。


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