俳の森-俳論風エッセイ第29週
百九十七、秋桜子が目指したもの その二
前回、秋桜子の添削例を見てきましたが、そのコメントの中からいくつかのキーワードを拾ってみましょう。
・ 蜩の声はすずしい感じですから、こうくどく言ってはいけません。
・ 全体の気品をそこねる。
・ 「井水」という言葉がいかにも耳障り。
・ 棚などをよぢて咲いている方が・・・・、「井を汲む」と照応・・・。
・ 「いつもの」という俗語も、この際低級ですし、・・・名詞が直接二つ続くのも、調子わるい・・
もちろんこれだけで、秋桜子の俳句観を云々するのは危険ですが、ここには、その一端が現れているように思われます。予め季語に即した理想とするイメージがあって、そのイメージに添って、『ことばの使い方がいかにも洗練され、吟誦にたえ、気品があって、それでいてくどくない・・・』そんな表現を目指したのではないでしょうか。
それは、現実の景物を契機として、その理想化された姿を詠むということではないかと思われます。現実そのものではなく、作者の個性によって理想化された姿に変貌させるのです。そして、それこそが「文芸上の真」であると、秋桜子は主張しているのではないでしょうか。
ところで、秋桜子はこの本(俳句のつくり方)の別の箇所で、俳句のつくり方の注意事項を以下のように述べています。そのタイトルだけを羅列してみます。
注意六条
(イ) 詩因を大切にすべきこと
(ロ) 一句に詠み得べき分量をきめること
(ハ) 省略を巧みにすること
(ニ) 配合に注意すること
(ホ) 用語は現代語(注:文語)
(ヘ) 叮嚀に詠むこと
避けるべきこと八条
(イ) 無季の句を詠まぬこと
(ロ) 無意味の季語重複をせぬこと
(ハ) 空想句を詠まぬこと
(ニ) や、かなを併用せぬこと
(ホ) 字あまりにせぬこと
(ヘ) 感動を露骨に現わさぬこと
(ト) 感動を誇張せぬこと
(チ) 模倣をせぬこと
特に、季重りについては、無意味の季語重複と断っているように、また、添削例にもあったように必要な重複は由としていたようです。理想を求めるといっても、根本には写生を於いていたからでしょう。空想句を詠まぬことというのがそのことを物語っています。
百九十八、秋桜子と素十
高浜虚子は、秋桜子と素十と題する論考のなかで、両者を次のように評しています。(以下、評伝高野素十、村松友次著、永田書房より)
高浜 虚子「秋桜子と素十」
虚子の論旨は次の通りである。
○文芸には理想を描き出そうとするものと、現実の世界から自分の天地を見出すものとある。そのどちらも「写生」を必要とする。
秋桜子君は前者に属する。筑波山縁起五句や、天燈鬼・龍燈鬼の句がその例である。素十君は後者に属する。蟻地獄・水馬・塵取・草の戸を・門前の・花冷の・道ばたに・傘さして・菊の香や・くらがりに、等の句がその例である。
ここで、虚子があげた句を抽出してみましょう。
筑波山縁起
わだなかや鵜の鳥群るる島二つ 水原秋桜子
天霧らひ男峰は立てり望の夜を 〃
泉湧く女峰の萱の小春かな 〃
国原や野火の走り火よもすがら 〃
蚕(こ)の宮居瑞山霞に立てり見ゆ 〃
蟻地獄松風を聞くばかりなり 高野 素十
水すまし流るる黄楊の花を追ふ 〃
塵とりに凌霄の花と塵すこし 〃
草の戸を立ちいづるより道教へ 〃
門前の萩刈る媼も佛さび 〃
花冷の闇にあらはれ篝守 〃
道ばたに早蕨売るや御室道 〃
傘さして花の御室の軒やどり 〃
菊の香や灯もるる観世音 〃
くらがりに供養の菊を売りにけり 〃
秋桜子は人間中心であり、素十は自然中心のように思われます。そこには、自然に対する怖れの有無が関わっているようです。虚子は最終的に素十俳句に写生の本道をみるようになります。それは、修行しだいでは誰にでも可能な方法であり、場合によっては、思わぬ僥倖にめぐり合う可能性もあるからです。
秋桜子の筑波山縁起は、筑波山の男峰と女峰とが太古海中に屹立した二つの島であったという伝説から想を得て作られたといわれています。
秋桜子の作句方法は、一部の天才にして初めて可能なのではないでしょうか。しかし、逆に秋桜子の俳句は人間秋桜子を超えることはできないのではないかと思われます。
それに引き換え、素十の俳句は、時に一人の人間を超える力を秘めているように思うのです。虚子はそこに、写生の可能性を見たのではないでしょうか。
百九十九、つかずはなれず
以前にどんな季語とも相性がよい句文として、「根岸の里の侘び住ひ」というのをとりあげたことがあります。先頃、朝妻主宰より新たに「初めてのキスゆるしさう」という句文のあることを知りました。作家の胡桃沢耕史氏の作品ということです。
そこで、今回、自分でも似たような句文を作ってみることにしました。そのような句文をつくることで、二句一章の二句の関係についてのヒントが得られるのではないかと考えたのです。
前回の考察のなかで、「根岸の里の侘び住ひ」には、淡い詩情があるというのが結論でした。それがあるために、独立した句文である季語と結合することが可能なのですが、逆にある特定の季語でなければならないという必然性に欠けるというものでした。
胡桃沢氏の「初めてのキス許しさう」はどうでしょうか。この句文は、「根岸の里の侘び住ひ」よりも、やや強い詩情を湛えているように思われますが、内容的に時間や場所の依存性はなく、やはり、どんな季語でもついてしまうような気がします。試みに、いくつかの季語と組み合わせてみましょう。
春の雪初めてのキスゆるしさう
踊の夜初めてのキスゆるしさう
秋風や初めてのキスゆるしさう
さて、いざ自分でもこのような句文を作ろうと思うとなかなか難しいものです。ポイントは二つ。
①、淡い詩情があること
②、時間や場所に依存しないこと
そのためには、「初めてのキスゆるしさう」のように自分の思いを語るのが、いちばんいいと考えました。そこで作ったのが、「ふるさとをふと思い出す」です。試みに、先ほどの季語と組み合わせてみましょう。
春の雪ふるさとをふと思い出す
踊の夜ふるさとをふと思い出す
秋風やふるさとをふと思い出す
いかがでしょうか。
ところで、俳句では季語との関係をつかずはなれずということばで表現します。わたしは、「つかず」は句文の独立を、「離れず」は、両者の響き合い(関係性)を意味すると解釈しています。先ほどの二つのポイントを裏返すと、
①、確乎とした詩情があること
②、季語と響きあうこと
となりましょう。歳時記の例句を二つの句文の関係から見ていくと、その独立性と関係性の見事な調和を見ることができるのではないでしょうか。
二百、季語の独立性
以前に季語は情趣を持ったことばで、一句のなかで主役となりうることばだという話をしました。そこから、季重りの問題を整理してみたわけです。
今回は、句形から見た季語の重要な働きについて考えてみましょう。二句一章の例句をもとに、二つの句文の関係を探っていきたいと思います。また、どんなことばが、一語で句文となりえるのかを考えることで、二句一章が成り立つ条件を探ってみたいと思うのです。
まず、二句一章の例句から二物衝撃と情景提示の句をそれぞれ五句ずつあげてみましょう。
【二物衝撃】
降る雪や明治は遠くなりにけり 中村草田男
霜柱俳句は切字響きけり 石田 波郷
貧乏に匂ひありけり立葵 小澤 実
蟾蜍長子家去る由もなし 中村草田男
夏草や兵どもが夢の跡 松尾 芭蕉
【情景提示】
元日は大吹雪とや潔し 高野 素十
月天心貧しき町を通りけり 与謝 蕪村
更衣駅白波となりにけり 綾部 仁喜
美しき緑走れり夏料理 星野 立子
荒海や佐渡に横たふ天の川 松尾 芭蕉
こうしてみると、二句一章を構成する句文A、句文Bのうち、一語で句文を構成しているのは、殆どが季語だということが分かります。季語以外で単独で句文となっているのは、「潔し」と「荒海や」だけですが、切字の助けを借りていないのは、わずかに、「潔し」だけです。
わたしの作句経験からいっても、「潔し」のようなことばは、むしろ珍しいような気がします。
二句一章の句文には、文字通り独立性が求められます。独立性とは、その句文だけで何ごとかをいうということです。さらにいえば、俳句は詩ですから、その句文が詩情を湛えているということが重要なのです。
詩情を湛えている句文どうしが併置され、響き合うことで詩の世界が一気にひろがる、それが二句一章のちからではないでしょうか。
ところで、季語や「潔し」が、単独で句文となれる理由は何なのでしょうか。それは、作者の感動をそこに乗せたことばだからではないかと思われます。
「潔し」には、素十の全体重が乗っているように思われます。また、先人たちが練り上げた季語には、詩語としての重さがあるのだといえましょう。一つで句文となれるほど、季語は独立性の高いことばといえましょう。
二百一、俳句で表現したいこと
俳の森はやはり底知れぬ森で、またこんなタイトルを付けてしまいました。原点に還るような話ですが、わたしたちは、俳句で何を表現したいのでしょうか。それを表現するのに、俳句でなければならない理由があるのでしょうか。
詩、小説、絵画、音楽、表現にはさまざまなジャンルがあります。そのなかから俳句を選び、またそれを手放すことなく選び続けている理由は何なのでしょうか。
別の問いかけをするなら、わざわざ十七音の制約を課してまで、わたしたちは何を掴み、何を表現しようとしているかということです。
季節に出合った喜び、生きている感動、どれも正しいように思えるのですが、そうはっきりといってしまうと、どれも違っているようにも思えてしまうのです。
どうもそれは、感動などという大それたものではないのかもしれません。生きている喜びといっても、もっと些細で単純なものかもしれません。それは、例えば、
ちょっと嬉しい感じ
ことばにならないけれど、確かに今あったといえるもの
ちょっと垣間見た、不思議な感じ
纏まらないけれど、何か大事そうなこと
今言い止めなければ泡のように消えてしまうもの
一瞬のこころのときめき
そう、そうそれは、ときめきに一番近いのかもしれません。生きている感じを味わう瞬間といってもいいでしょう。それを俳句ということばにするのは、そのときめきを残したいという気持ちと、他人と分かち合いたいという気持ちがあるからではないでしょうか。
感動などという大げさなものでなくても、作者のときめきの伝わってくる句に、わたしたちは共感を覚えるのではないでしょうか。
それは、そこに生身の人間の鼓動を感じるからではないでしょうか。共感とは、同じ人間としての鼓動をそこに聞きとめることではないかと思うのです。それを、コミュニケーションということもできるでしょう。
さて、次のような句にわたしたちは、何故共感するのでしょうか。このような景は誰でも目撃しているかもしれませんが、それを言い止めた人はあまりいないでしょう。
それをあえて表現した作者のときめきが、わたしたちにも伝染するのではないでしょうか。作者の目を通して、そのように提示されてみると、それは、たしかにどこか不思議で、深遠なことのように思えてしまうのです。
霜掃きし箒しばらくして倒る 能村登四郎
苗代に落ち一塊の畦の土 高野 素十
二百二、〈ときめき〉と調子
これまでにも何回かいい句とは何かについて、考えてきました。その結論は、以下のようなものでした。
・ 正直な表現で作者自身を体現しているような、独自性のある句がいい句なのではないか。
・ 一人善がりでなく、作者の感動の見える句がいい句なのではないか。
そして、前回は、わたしたちは感動というより、もっと些細な〈ときめき〉を句にしているのではないかというのが結論でした。実は、この〈ときめき〉ということばを手にしたとき、俳句が韻文であるということに、はたと思い至ったのです。
水原秋桜子は、俳句のつくり方(実業之日本社)のなかで、こんなことを述べています。
旅衣ぬいで加はる門涼み 富安 風生
(略)この句を二、三度くり返して音誦して御覧なさい。いかにも調子が軽くなだらかで、心をしずかに撫でてくれるような感じがしますが、それは作者がこのような喜びを持ちつつ詠んだためであります。
また、別の箇所では、
出来上がった句を音誦してみて、気持ちがよかったならばそれでよし、もし気持ちがよくなかったならば、どこかに調子の欠点があって、そこで句と作者の心との流通が妨げられている――――ということなのであります。
(太字筆者)
秋桜子は、作者のこころの状態をそのまま調子に反映させた句がいい句だと述べています。わたしたちは、この調子にのせて、〈ときめき〉を伝えているのではないでしょうか。わたしは、作句経験上、その場面を詠んだ発話のなかに、この〈ときめき〉の調子が最もよく表れるのではないかと考えています。
そこで、原句の表現を推敲するにしても、原句のもつ調子はできるだけ残したいと考えているのです。実際、さんざん遂行した挙句、結局は原句が一番よかったという経験が幾度もあります。
さて、作者の〈ときめき〉が、その句の調子にぴったりと合っているということは、佳句の一つの条件といえそうです。呼びかけや、リフレインには、作者の昂揚が如実に現れているといえるのではないでしょうか。
外にも出よ触るるばかりに春の月 中村 汀女
楸韆は漕ぐべし愛は奪ふべし 三橋 鷹女
貝の名に鳥やさくらや光悦忌 上田五千石
筑波嶺の大谷小谷初霞 皆川 盤水
揚雲雀空のまん中ここよここよ 正木ゆう子
二百三、野に咲く花のように
以前に放浪の天才画家といわれた山下清画伯を描いた、「裸の大将放浪記」というテレビドラマがありました。ランニングシャツに半ズボン姿の芦屋雁之助の名演技を覚えている方も多いでしょう。その主題歌をふと思い出したのですが、後半がわからずネットで調べてみました。
歌手:ダ・カーポ、作詞:杉山政美、作曲:小林亜星のこの曲の歌詞には、次のようなフレーズがあります。
野に咲く花のように 風に吹かれて
野に咲く花のように 人を爽やかにして
・・・・・
野に咲く花のように 雨にうたれて
野に咲く花のように 人を和やかにして
こんなことを書き出したのは、わたしたちの俳句もこの野に咲く花のようでありたいと願うからです。
ところで、高浜虚子のもとで、写生を学んだ高野素十は、こんなことばを残しています。昭和二十四年十月号のホトトギス誌上で、斎藤庫太郎氏が回想されています。
素十さん(承前) 斎藤庫太郎
(略)素十さんは、「表現は只一つにして一つに限る。」といはれておりますが、真の絶対の表現といふことにならふかと思ひます。ものの真を的確に表現する為め、取捨選択によって不純物を捨ててゆく夫が省略でありまして、虚子先生は心の燃焼作用といはれましたが、素十さんも之に就て、「俳句の技巧と見方」といふ公演で(昭和三年五月)、「俳句を観察する場合、外面的に観察すれば技巧といふことになり、内面的に観察すれば作者の心といふことになる。技巧即ち心であって、技巧を養ふといふことは、結局心を養ふことになる。」といはれてをります。(太字筆者)
「表現は只一つにして一つに限る。」、なんという気迫に満ちたことばでしょう。「俳句の道はただこれ写生。これただ写生」といった素十の真面目をみるようです。
もちろん、これは誰もが実践できるようなことではないでしょう。しかし、心構えとしては、こうでありたいと思うのです。
野の花はみなそれぞれに、完成された姿をしています。俳句に喩えるなら、素十のいう〈只一つにして一つに限る〉表現といってもいいでしょう。
しかし、そんな美しい野の花であっても、誰も立ち止まらないこともあるのです。〈野に咲く花のような俳句〉、それが俳句の理想の姿なのではないでしょうか。
ばらばらに飛んで向うへ初鴉 高野 素十
あをあをと春七草の売れのこり 〃
楸韆や灯台守の垣のうち 〃
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