俳の森-俳論風エッセイ第10週
六十四、共感するということ
俳句が分かるということには二段階あって、一つ目は句意が分かるということ、二つ目は詩情を受け止めるということだと思います。俳句が表現された作者の感動、つまり詩情を伝えるものだとすれば、句意が分かるだけでは不十分でしょう。
荒海や佐渡に横たふ天の川 松尾 芭蕉
この句の意味を理解しその景を想像できるだけでは、第一段階をクリアしたに過ぎません。第二段階の詩情を受け止め、作者に共感することができなければ、この句を知らぬも同然でしょう。この句に共感し芭蕉の心境に思いをいたすとき、わたしたちは時空を超えることができるのです。
以前、わたしは、「松尾芭蕉この一句」(平凡社、柳川彰治編)に、掲句について次の文章を寄せました。
天と地と人の壮大な句である。天は天の河、地は荒海、人は佐渡である。荒海が隔てる佐渡とは、遠流の島としての佐渡であり、日本の歴史、人の営みを濃密に背負っている。佐渡が人である所以である。
芭蕉が日本海を望む地で口をついで「荒海や」と詠嘆したとき、彼の胸中には佐渡に流された貴人・囚人たちへの思いが去来していたであろう。天の河が切なくも美しいのは、そのような人たちの頭上にもあった筈の天の河だからである。
また、次の白魚の句にも鑑賞文を寄せました。
曙や白魚白きこと一寸 松尾 芭蕉
上五は、闇から光へ、つまり死から生への転換を暗示して絶妙である。薄明の中に提示された一寸ほどの白魚。「しろきこと」と強調しているのは、白魚の命の充実を捉えているのである。何度も口誦すれば、「しろきこと」と「一寸」の僅かの間、「一寸」の促音と撥音の組み合わせが、白魚がぴくりと跳ねる様子を彷彿とさせる。舌頭に千転せよといったのは芭蕉である。白魚の命の躍動を捉えて、リズミカルに仕立てた一句である。
これらの句は、映像的で、かつ詩情に溢れています。
吟行句が分かり易いのは、吟行というホットな共通体験があるからでしょう。しかし、通常読者は不特定多数ですので、だれでも知っている土地(地名)は僅かしかないことになります。そこで共通体験として浮かび上がってくるのは、季語体験ということになるのではないでしょうか。四季折々の季節体験、季語体験が共感の母胎となって、一句の世界を感受できるのです。
だれもが感じていて、だれも句にできなかったものを句にすることができれば、多くの共感を得られるのではないでしょうか。
六十五、和暦のこと
俳句を作るということと身の回りや自然をよく見るということは不可分につながっています。よく見るということが発見をうながし、いい句ができるとますますよく見るようになります。この体験を通して得られる感受性はすばらしい財産のようにわたしには思われます。
レイチェル・カーソンは、「センス・オブ・ワンダー」(佑学社)のなかで、次のように述べています。
子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直観力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。(中略)
この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、解毒剤になるのです。
俳句を作り続けるということは、「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性」を持ち続けることに他なりません。だからこそ、わたしたちは、「大人になるとやってくる倦怠と幻滅」から無縁でいられるのです。
最近読んだ「和暦で暮らそう」(著・柳生博と和暦倶楽部、小学館)という本のなかに、次のような記述がありました。ここでいう和暦とは元号制のことではなく、中国から伝来した旧暦よりさらに古い固有の農事暦のことです。
和暦の中に流れている時は、基本的に自然によって奏でられます。自然現象に人間の感性が気づく形で体感するしかありません。ですから、大自然の生命体を流れるナチュラルな時間は、季節に応じて変幻やむことがありません。
春日遅々の日永、夏隣の遅日・永陽。仲夏の短夜。晩秋の夜長。厳冬の短日・暮早し。・・・そんな日照や気温の微細な変化に不思議なセンサーを働かせて、冬眠する蛙や熊、数千キロも旅する渡り鳥、花を咲かせたり葉を色づかせたりする草木。人間の暮らしも、それと何も変わらなかったのです。
自然風土への研ぎ澄まされた感性や知恵の集積は、まさに生き死に関わる生存条件そのものだったのです。二千以上の風の名前と、それに勝る雨の名前を持つ民族が他にあるでしょうか。
やがて和暦は、形をかえて俳句歳時記へとつながっていきます。自然に対する感受性の所産である俳句は、大いなる文化遺産といえるものでしょう。先人たちが育んできた美しい自然。それを守ることも、わたしたち俳人のつとめなのではないでしょうか。
六十六、場所の情報について
作者が表現する価値があると思う内容を、できるだけ相手に伝わるように表現するには、具体的にどうすればいいのでしょうか。実は、以前「俳句」(角川書店、二〇一四、六月号)の特集記事の中から、「や、かな、けり、その他」の名句百句の5W1Hを分析したことがあります。その結果は、出現数は以下のようになりました。
WHEN(いつ)→一〇〇
WHERE(どこで)→二五(句意からの場所想定を含む)
WHO(だれが)→一〇〇(省略された私を含む)
WHAT(何をした)→一〇〇(動詞の省略含む)
WHY(なぜ)→一
HOW(どのように)→九九
この結果から、注目すべき点は以下のようになります。
① WHENは季語が受け持っていること
② WHEREの出現数が少ないこと
③ WHOは作者自身で、実際は殆ど省略されていること
④ WHATに当る、~を見る、~を聞くなどの動作が省
略される場合が多いこと
⑤ 一例を除き、WHYが欠落していること
⑥ HOWに作者独自の視点が示されていること
WHYは句の余韻・余情に関係することですので、明かす必要はないと思いますが、気になるのはWHEREの出現数の少なさです。
WHERE(どこ)も景を想像するには必要だと思われますが、なぜ名句のなかで、それは出現したり、しなかったりするのでしょうか。場所情報のある句とない句で、比較してみました。
山国の蝶を荒しと思はずや 高浜 虚子
町空のつばくらめのみ新しや 中村草田男
葛城の山懐に寝釈迦かな 阿波野青畝
これらの句では、蝶は山国の蝶でなければならないし、つばめも見慣れた町空にやってきた燕でなくてはならないでしょう。それでは、以下の句はどうでしょうか。
まさをなる空よりしだれざくらかな 富安 風生
冬蜂の死にどころなく歩きけり 村上 鬼城
滝の上に水現われて落ちにけり 後藤 夜半
しだれざくらが何処のものかを知る必要がないように、滝がどこの滝かも、冬蜂がどこを歩いていたかも問題ではないのです。それは、しだれざくらというもの、滝というもの、冬蜂というものの本質に切り込んでいるため、場所の情報はむしろ邪魔だからです。
次の句は、初冬の土浦城跡で詠んだものですが、果して城を表す濠のようなことばは、必要でしょうか。
向き向きに鯉静かなり冬の水 金子つとむ
内濠の鯉静かなり冬の水 〃
六十七、高得点句-すっとわかる・ぐっとくる
先にわたしは、読者が俳句を理解するプロセスを、すっとわかる・ぐっとくると表現しました。すっとわかるとは文字通り、句の意味が読んだ瞬間に分かるということです。そして、ぐっとくるとは、句の背後に隠された作者のいわんとすることに共感し、その余韻に浸ることです。
「すっとわかる」を、映像喚起力、「ぐっとくる」を余韻・余情ということもできます。映像喚起力を構成するのは、ことばそのものがもつイメージ喚起力やその配合といえましょう。余韻・余情を構成するのは、「WHY(なぜ)」を言わない俳句的表現と切字のちから、そして、その前提として作者の感動の深さもあるでしょう。
ここで、雲の峰誌の誌上句会高得点句を例に、さらにこのこと考えてみたいと思います。
和服には和服の歩幅菊日和 住登 美鶴(32点)
「和服には和服の歩幅」というのは、もとより理屈ではありません。和服を着たときのすこし窮屈な、すっと背筋が伸びるような感覚を言い当てているのだと思います。
この表現が優れているのは、作者の内面と外面(和装した作者の姿)を同時に彷彿とさせるからです。菊日和が、作者の姿を鮮やかに、艶やかに見せています。
八朔や宮に四股ふむ豆力士 高野 清風(24点)
奉納相撲でしょうか。作者は目の前にあるものをそのまま淡々と詠いあげています。それは、作者がこの景に全幅の信頼をおいていることの証ではないかと思います。作者が信頼して描出した景に、読者も共感しているのです。豆力士ということばが、この句の起爆剤になっています。
傘寿にも青雲の空草矢打つ 若山 実(20点)
青雲の空というのは、普通なら若者に対して使うことばでしょう。草矢うつも夏の季語です。しかし、作者は傘寿。その意外性が、多くの人の共感と喝采を拍したのでしょう。注意すべきは、傘寿にも「も」の働きです。
傘寿の作者は、青春のままの若々しい心で、青空のもとに立っているのです。青雲の空という表現が浮つかないのは、この心が一句を貫いているからといえましょう。
春疾風竹百幹の響き合ふ 平岩 千恵(20点)
響き合う百幹の竹を肯うことができるのは、まさに春疾風だからでしょう。この句にも、作者の感慨といったものは語られていません。何故なら、作者はこの景に心底感動しているからです。ここに付け加えるべき私情など一切ないと作者は思っているのです。そのことが、この景をいっそう力強いものにしています。
作者の感動と表現が、ゆるぎなく一句に結実したとき、多くの共感を得ることができるのではないでしょうか。
六十八、心をはらす
「白鳥・宣長・言葉」(小林秀雄著、文芸春秋社)の「物のあはれ」の説についてという項のなかに、次のような記述があります。
歌は、人が人と心を分って生きて行かねばならぬ深い理由から発してゐるので、この源流を見定めたら、歌の伝統の一貫した流れが感受出来るわけである。だが、これを感受するには、各人が、めいめいが、感ずるとはいかなる事かを内観する他はない。変る人情が、変らぬ「あはれを知る心」に浸ってゐることを感受しなければならぬ。これが、宣長の「此道ばかりは身一つにある事なり」の真意である。・・・詠歌の目的は、「心をはらす」にある。「歌の本分」に達するにある。或る時代の歌の意をむかへる事にはない。而もはらすのは、君自身の「今の心」ではないか。
これは和歌についての文章ですが、雲の峰が「自分詩、自分史」を標榜しているように、あらゆる表現の究極の目的は、自分を表現すること、つまり自身の「今の心」をはらすことにあるのではないでしょうか。絵画しかり、音楽しかり。俳句とて、その例外ではないでしょう。
優れた芸術作品は、わたしたちに、個人の偉大さとともに、ひとりひとりがかけがえのない存在であることを想起させてくれます。共感とは、ともに生きてあることを認め合い、喜びあうことなのではないでしょうか。
一見すると、俳句のさまざまな制約は「心をはらす」ことを阻害しているように思われるかもしれませんが、それこそが俳句の表現手法なのです。その表現手法を最大限活用し、自分の今の心をはらすために、わたしたちは俳句を選択したのだといえましょう。
自分の句でも他人の句でも、ほんとうに心をゆさぶる俳句に出会えたとき、これに勝る喜びはないでしょう。しかし、そのような句にはなかなか出会えないのも事実です。
しかし、わたしたちは、芭蕉や蕪村はいうに及ばす、過去から現在に至るさまざまの例句の世界にあそび、現在と過去を行き来することができます。
先頃、最も印象に残ったのは次の句です。
奥木曽の水元気なり夏来る 大沢 敦子
西東三鬼に、「おそるべき君等の乳房夏来る」があって驚かされた覚えがありますが、「水元気なり」にも驚いてしまいました。山の水が健やかなのは勿論ですが、それ以上に、「水元気なり」と言い切った作者の心意気を感じます。
まさに、作者の生命力が生み出したことばではないでしょうか。清冽な水をいただき、逞しく生きる作者の姿が彷彿としてきます。(雲の峰誌二〇一四年九月号より転載)
飲料水を買うことが定着した昨今、元気な水に作者の祈りさえ感じてしまうのは、わたしだけでしょうか。
六十九、直接的表現と間接的表現
あるとき、冬夕焼に浮ぶ富士のシルエットに感動して、一句にしようとしました。しかし、相手が相手だけに、悪戦苦闘しました。そのとき、作った句は以下のようなものです。
冬夕焼富士一つ見て足る如し 金子つとむ
冬夕焼遠富士の影まぎれなし 〃
真中に富士を据えたる冬夕焼 〃
これらの句は、富士山を対象として捉え、直接的に表現しようとしたものです。しかし、どんなにことばを並べても、富士の存在感には敵わないように思われました。結局のところ、富士、冬夕焼以外のことばはいらないと思えてしまうのです。
二十句も作ったあとでしょうか。にっちもさっちもいかず、別の表現を試みることにしました。それは、富士の姿を直接描こうとするのではなく、富士を見たときの自分の行動をそのまま描こうと思ったのです。そうしてできたのが次の句です。
富士の影追うて走らす冬夕焼 〃
車を走らせながら、車窓に見え隠れする富士を追いかけている情景です。直接的に富士がどうだとは言っていませんが、富士を追うという行為が、間接的に富士の美しさを引き出してくれたのではないかと思われます。
このように、感動が大きい時ほど、知らず知らずに主観の濃い表現をしがちです。直接的表現に行き詰ったら、間接的表現に切り替えてみると、案外道が開けるかも知れません。雲の峰誌をみても、直接的表現が大半で間接的表現はとても少ないのですが、主宰の作品からいくつか拾うことができました。
拳玉も終大師の袖土産 朝妻 力
緑蔭に入りて大吉読み返す 〃
一句目の終大師の露店では、拳玉に限らずお面や独楽などいろいろと商っていたものと思われます。しかし、そんな賑わいには一切ふれず、土産の拳玉だけを描出することで、間接的にその賑わいを表現しているといえましょう。
二句目は、緑蔭に御籤ですから、大きな神社の境内でしょう。よほど嬉しかったのでしょうか、大吉の御籤を読み返しているのです。どこまでも優しい緑蔭が広がります。
ところで、自己のありようを死の間際まで凝視した点で、子規の辞世句を忘れることはできません。子規庵の庭の句碑を思いだします。
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな 正岡 子規
痰一斗糸瓜の水も間に合わず 〃
おとゝいのへちまの水も取らざりき 〃
七十、自然美と人間美
すっとわかる・ぐっとくるのがよい俳句だとすれば、ぐっとくるのはどんな場合でしょうか。高得点句があるということは、そこに何らかの共通点があるのではないかと思われます。ぐっとくるのは、わたしたちが無意識に理想としている心の琴線に触れるからではないでしょうか。
俳句をえらぶのは、多くの場合俳人ですから、わたしたちの理想とはすなわち俳人の理想ということになります。わたしたち俳人は、いうまでもなく、俳句の世界を由としています。俳句の世界をつきつめていえば、そこには、自然美、人間美(生活の美)そして、その融合された美(融合美)があるように思われます。
わたしたちは、自然と人間が美しく溶け合って暮らすことを願っているのではないでしょうか。もし、そうだとするなら、そのような理想の美の発現された句こそが、ぐっとくる作品ということになるのではないでしょうか。
以前にとりあげた誌上句会の高得点句から、それらの作品が具体的にどのような美を発現しているのかを考えてみたいと思います。
和服には和服の歩幅菊日和 住登 美鶴(32点)
和服と菊日和、ここにあるのは、間違いなく融合美といえるのではないでしょうか。さらに想像を働かすと、和服の絵柄には華やかな自然の文様があしらわれているのかもしれません。それにしても、菊日和という語感のなんと穏やかで、晴れがましいことでしょう。
八朔や宮に四股ふむ豆力士 高野 清風(24点)
八朔と相撲。ここにも融合美が捉えられています。豆力士ということばに、作者の願いが込められているようです。
傘寿にも青雲の空草矢打つ 若山 実(20点)
どちらかといえば、人間美が優位の作品です。傘寿になっても若々しい心を持ち続けることのできるすばらしさ。人間讃歌といってもいいのではないでしょうか。
春疾風竹百幹の響き合ふ 平岩 千恵(20点)
これは、自然美を詠った句でしょう。「響き合ふ」に、作者が美を感じていることがありありと伺えます。しばし、竹の奏でる音に聞き入って見ましょう。太鼓の音などは、案外こういった音から発想されたものかもしれません。
さて、得点数でみるかぎり、自然と人間の融合美を詠んだものが、多くの支持を得ているようです。断定的なことはいえませんが、少なくとも雲の峰では、融合美を由とする傾向があるのかもしれません。
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