俳の森-俳論風エッセイ第48週
三百三十、切れと切字
補完関係についての項で、二つの句を引き合いにして、切れは感動そのものであるというお話しをしました。
チューリップ。喜びだけを持つてゐる。 細見 綾子
チューリップ。新潟県の県花です。
前者には感動があるため、二つの句文は感動でつながることができますが、後者には感動がないため、間が持たず〈チューリップは新潟県の県花です〉と助詞を補うことで、初めて落ち着くというものでした。
ところで、俳句の推敲をしているといつの間にか作句時の感動が薄れて、ややもするとパズルのようにことばを並べ変えていたりする場合があります。特に上五を「や」できると句形として整ってくるので、何となく句が出来上がったように錯覚しがちです。
上五が季語+「や」のときは恰好がつくのですが、それ以外のときは居心地の悪さを感じることがないでしょうか。それは何故なのか、この辺りのことを、例句を用いて検討したいと思います。
まず上五が季語でない「や」切れの句を検討しましょう。
木洩れ日や森の若葉も生れ立て 金子つとむ
上五は何となくとってつけたような感じがします。もちろん実景として木洩れ日はあったのですが、問題は木洩れ日やと詠嘆するだけの根拠というか、それだけの感動が自分にあって木洩れ日やと置いたかどうかとなると、少々心もとないのです。
端的にいえば、形と意味のミスマッチです。ことばに実感が籠もらなければ、すべて見掛け倒しの句になってしまうでしょう。安易に切字を使ってはいけないという戒めがここにあるように思います。掲句は結局「や」切れを止めて次のようにしました。
深々と吸うて若葉の小径ゆく 〃
次に上五が季語のときの「や」切れの句を検討します。
梅雨晴や鯱をのせたる棟瓦 〃
梅雨晴の空へ向かう視線の流れのなかに、無理なく鯱が捉えられています。ところが、これが五月雨だったらどうでしょうか。
五月雨や鯱をのせたる棟瓦 〃
あまりピンとこないでしょう。それに、雨に鯱が泳ぎ出していくような作為も感じられてしまいます。このように感動のないままに季語が置かれると、季語が動くということになってしまいます。
結局のところ、切るに相応しい感動があるか、その季語を置くに相応しい感動があるかということが問われているのではないかと思います。
三百三十一、句文が動くということ
去来抄にある有名なエピソードです。
下京や雪つむ上のよるの雨 凡兆
掲句には、はじめ上五が無かったといわれています。そこで、芭蕉を含めていろいろと検討した結果、ついに芭蕉の肝入りで上五が決したといわれています。
このことを子規は俳諧大要のなかで取り上げ、次のように述べています。
一、趣向の上に動く動かぬと言ふことあり、即ち配合する事物の調和適応すると否とを言ふなり。(中略)芭蕉は終に「下京や」の五文字動かすべからずと言ひしとぞ。
子規が指摘しているように、動く動かないというのは、二つの事物が調和適応しているかどうかを問うているのであり、それが季語であれば季語が動くということになりましょう。これを、感動という観点から少しく検討してみたいと思います。でもその前に、芭蕉さんの推した下京について、別の句で確認しておきたいと思います。
下京やかやりにくれし藍の茎 加舎 白雄
これは、江戸中期の俳人加舎白雄の句です。『白雄の秀句』(講談社学術文庫)のなかで、矢島渚男氏が掲句を鑑賞されていますので、引用します。
(前略)貴族的な上京に対して、庶民の町であった。仮滞留の白雄たちにも隣近所の人達はなにくれとなく面倒をみてくれ、気をおかない付合いが始まったのであろう。折から蚊の季節、隣人のひとりが蚊遣にするようにと云って藍の茎を持ってきてくれた。ふつう蚊遣には松や杉の青葉をくゆらすのだが、藍の茎であるところがいかにも下京らしいと興じているのだ。下京には染物屋などもあり、(後略)
雪の上に雨が降れば、雪はだらしなく溶けていきますが、そこには庶民の暮しがあり、家々の明りがとけた雪や雨脚を仄々と照らしていることでしょう。ある種のしだらない感じと下京が照応すると芭蕉は感じ取ったのではないでしょうか。芭蕉がこれよりもっといい上五があるなら、私は俳諧を止めるとまで言い切ったその判断の基準はどこにあったのでしょうか。
わたしは、感動の有無ではないかと考えています。AとBの二つの句文があって、両者を結びつけているものは見えない作者の感動です。眼前の景でなくとも、芭蕉はどこかで似たような景を見ていたのではないでしょうか。
芭蕉が「下京や」と詠嘆するとき、文字通り作者は下京に感動しているのです。下京というもののもつ情趣に思いを寄せているといってもいいでしょう。それが、あとにつづく句文、〈雪つむ上のよるの雨〉と響きあうことで、読者もまた作者の感動のなかに知らずに取り込まれていくのではないでしょうか。
三百三十二、ときめきの旋律
優れた俳句は、読むたびに新鮮な感動をもたらしてくれます。何度も読んでいるのに、作者の感動が甦ってくるのは何故なのでしょうか。
わたしは、客観写生に徹したような句であっても、人のこころを打つのは、句に内在する作者の感動の旋律、作者のときめきがそのまま乗り移ったような旋律があるためではないかと思うのです。
例えば、次の句はいかがでしょう。
外にも出よ触るるばかりに春の月 中村 汀女
この句が読むたびに新鮮なのは、まさに作者の感動が『ときめきの旋律』として、わたしたちに響いてくるからではないでしょうか。
とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな 〃
このどこかゆったりとした旋律は、作者が和服を着ているのではないかとさえ想像させてくれます。また、
山路来て何やらゆかしすみれ草 松尾 芭蕉
には、芭蕉さんがすみれを見つけてぐっと近づいていくような動きさえ感じられるのではないでしょうか。
盆梅が満開となり酒買ひに 皆川 盤水
盤水氏のこの句にも、中七と下五の間の僅かな間合いのなかに、ぽんと膝を打って立ち上がるような、そんな動きが感じられます。わたしには、この旋律は俳句の生命力といってもいいもので、単に正確な描写をしただけでは得られないように思われるのです。
中村草田男氏は俳句入門(みすず書房)のなかで、「対象の姿とそれの伴っている感じを如実に表現するためには、よほど吟味して適当なことばを選んでこなければならない」と述べています。(太字筆者)
推敲を重ねていくうちにいつの間にか当初の〈感じ〉が薄れ、挙句の果てに原句に落ち着くなどということもままあります。原句は、原木のように、『ときめきの旋律』をとどめていることが多いように思われます。
あるとき、駅の通路で営巣中の燕が、駅ビルの壁に影を走らせる姿を目撃して、次の句を得ました。
駅ビルに影走らせて夏燕 金子つとむ
そして、推敲ののち次の句に落ち着いたのです。
駅ビルに影のさ走る夏燕 〃
ところがどうやっても、燕のあののびやかな飛翔の感じが出てこないのです。十日ほどして、「さ走る」に含まれる濁音が、音のイメージを含んでしまうのではないかと気づきました。そこで、「さ走る」は使わないことにしたのです。
駅ビルに影を走らす夏燕 〃
結局、走らすは、原句の使い方に戻りました。走らすには、無音のまま影だけが走る感じがしないでしょうか。
三百三十三、詩情の確かさ
多くの人が認める俳句の価値とは何でしょうか。優れた俳句は、何故人口に膾炙するのでしょうか。わたしが、たちどころに思い浮かべる十ないし二十の作品には、何か共通点があるのでしょうか。
わたしは、その作品にある確かな詩情が、わたしたちを引き付けて止まないのだと考えています。そして、詩情とは何かといえば、これまで生きてきたなかで、あるいはこれから生きていくうえで大切にしたいと願う、ある種の思いなのではないかと思うのです。
広辞苑で詩情を引いてみると、詩に詠まれた感情、あるいは詩的な趣きとあります。別のことばでいえば、人間として感じる、生きることへの遥かな思いといってもいいでしょう。喜怒哀楽、わたしたちは人生のどんなステージにいようとも、互いに共感し合うことができます。その共感は、容易く時代を超えることもできるのです。
一句のなかに息づいている人々の真実に触れることで、わたしたちは勇気づけられ、生きるエネルギーを貰っているのかもしれません。作者のことばが真実であればあるほど、それはわたしたちの心に直に響いてくるのではないでしょうか。作者の誠実さ、詩情の確かさにわたしたちは打たれるのではないでしょうか。
それは、着飾ったことばや饒舌なことばの対極にあるもののように思われます。長い沈黙のあとに、ようやく搾り出した雫のような一語こそそれにふさわしいように思われるのです。ことばの背後に潜むどこか切実な感じが、わたしたちを句の世界に引き込んでしまうのです。
八月や草色のもの草を跳び 菅 美緒
草色のものが草を跳ぶ、なんと大らかな詠みぶりでしょう。それが、何であるかなど、詮索する必要もないのです。むしろ、草色のものが草を跳ぶ、その不思議を作者は楽しんでいるのではないでしょうか。
ましてや、それを保護色などといってしまえば、この微妙な味わいは台無しでしょう。なぜなら、保護色というのは、知識でしかないからです。作者が注目しているのは、八月の地の底にあって、草色をして跳ぶもの、小さいけれども確かないのちの躍動なのではないでしょうか。その躍動は、ただ草色のものということによって、いっそう際立っているといえましょう。
しかし、掲句は八月を敗戦の月として読むと、跳びゆくものがまた違った映像として見えてくるかもしれません。それは、特攻機だったり、庶民の姿だったりするかもしれないのです。それもあながち深読みといい切れないのは、八月という季語のもつ、敗戦の月へと怒涛のように遡及するちからのせいかもしれないのです。
三百三十四、季語を説明しない
句会などの講評を聞いていると、季語の説明をしているといわれることがあります。わたしは自作の推敲過程をエクセルで管理していますが、七十回以上も推敲を重ねたのにどうにもならなかった句がこれまで二つほどあります。
ある時ふと、季語の説明ということに思い至りました。また、季語ではなくても、自明のことを繰り返してしまうとどこかにくどさが残ってしまうようです。二つの例句により、そのことを説明してみたいと思います。
何の木の若葉といはず生れ立て 金子つとむ
若葉の森の瑞々しさに感動して生まれた句ですが、生れ立てはその時の実感だったのです。しかし、推敲していても、どことなくいい過ぎているように感じていました。
おそらく、あまりに感動していたため、少し冷静さを失っていたのでしょう。それが何故なのかしばらくわかりませんでした。
ある時、広辞苑で若葉を引いてみると、生え出てまだ間のない葉、芽だしの葉とあり、生れ立ては若葉の説明になっていることにはたと気づきました。他の人なら容易に気づけることでも、当人が感動の最中にあったりするとなかなか気づかないものなのです。
掲句からは、生れ立てを削除し、次のようにしました。
何の木といはず若葉の小径かな 〃
さて、季語以外でもあることばが別のことばの説明になっている場合があります。次の句も長い間くどさの原因が分からなかったものです。
見晴るかす富士の孤影や寒茜 〃
牛久沼の遥か彼方、夕闇に沈む富士を詠んだものですが、孤影ということばが気に入って、長らく〈富士〉と〈孤〉の関係に気づきませんでした。富士を詠って一つということを強調すると、やはりくどくなってしまうようです。孤影が気に入っていただけにとても残念でしたが、孤影は手放すことにしました。
寒茜沼の向かうに富士の影 〃
俳句では、季語の説明をしたり、ことばの説明をしたりすると、句に広がりを欠いてしまうようです。分かっているつもりでもついついやってしまうのが俳句の難しさでしょうか。とりわけ、季語を説明しているなどと指摘されないようにするには、やはり季語の情趣をしっかりと把握することが必要だと思います。
季語の情趣とは、簡単にいえば季語の持つ情報です。季語が既に持っている情報は、全て季語に委ねるくらいの覚悟が必要なのではないでしょうか。そうすれば、季語以外のことだけをいえばいいことになり、逆に表現の自由度がぐっと広がるものと思われます。
三百三十五、描写と写生
わたしは、描写と写生は異なるものだと考えています。どんなに描写が優れていても、読者がそこに描かれた世界に行ってみたいと思わなければ、誰も一句に立ち止まりはしないでしょう。
描写と写生の一番異なる点は、臨場感ではないでしょうか。そして、臨場感のもとになっているのは、作者の感動ではないかと思うのです。
夏のバードウォッチングで、燕が川にタッチするのを何度も見たことがありますが、ものの本であれば水を飲んでいるのだと知りました。燕は足が弱いので、止まっているより、飛んでいる方が楽なのだそうです。餌を捕るのも、水を飲むのも飛びながら行います。そこで、
飛びながら川の水飲む夏燕 金子つとむ
という句をつくりました。確かに情景を想像させるのに必要なことばは入っているのですが、ずっと何かが足りないように感じていました。
そして、ある時、この句は単なる描写の句に過ぎないのだと思い至りました。臨場感がないのです。夏燕の動作を説明しているものの、夏燕がどうにも生きていないように感じるのです。わたしは、飛びながらあんな風に水を飲むそのことに、感動していたのでした。しかし、これを初めて読んだ読者に、その景は伝わるでしょうか。肝心のどうやって水を飲むのかが伝わってこないのです。
掲句のポイントは、飛びながら水を飲むことであって、沼と川とかいったことばは不要なのかもしれません。そこで、もう一度、その場面を思い起こして推敲したのが、次の句です。
すれすれに飛んで水飲む夏燕 〃
川ということばは抜けてしまいましたが、すれすれに飛ぶという措辞から、広い水面であることは想像できるでしょう。少し臨場感が出てきたように思うのですが、いかがでしょうか。
写生は普通、客観的描写だと説明されますが、俳句の写生の『生』とは『生命』、いのちそのものではないかと思うのです。例えば、燕を詠んだのなら、燕は生きて躍動していなければいけない。例えば風景を詠んだのなら、それが眼前に迫り来るような臨場感をもって詠まれなければいけないと思うのです。
その臨場感こそが、読者を立ち止まらせ、句の世界に引き入れ、共感を得させるのではないでしょうか。
しぐるゝや鹿にものいふ油つぎ 加舎 白雄
埋火やうちこぼしたる風薬 〃
春の雪しきりに降て止にけり 〃
三百三十六、感動の場面にフォーカス
前回、臨場感のある句が読者を呼び込むという話をしましたが、そのような句をつくるにはどうしたらいいのでしょうか。感動の場面にフォーカスするということをポイントに、推敲例を通して、その効用を説明したいと思います。
前回、わたしは、
【原句】飛びながら川の水飲む夏燕 金子つとむ
という句を、次のように推敲しました。
【推敲】すれすれに飛んで水飲む夏燕 〃
水を飲むという感動の場面(時点)にフォーカスして、その場面を描き出したわけです。この方法でいくつかの例句を推敲してみましょう。
【原句】美しき白茶となりて花の塵 〃
あるお寺の石段に吹き溜まる花屑が、一様に白茶(しらちゃ)色となっていましたが、その色がそれはそれで美しいと感じたのです。ですから、「美しき白茶」になったのではなく、白茶となっても美しいと詠むべきだと考えて、直してみました。
【推敲】花の塵白茶となるも美しき 〃
このほうが、感動時の体験により近いように思います。
【原句】メーデーや女の声のよく通り 〃
新宿で句会をしているときのことでした。折しもメーデー。デモ隊の列が通りを過ぎていくのが分かります。くぐもって聞き取れない声の中に、はっきりと聞こえてくる女性の声がありました。
感動の時点は、まさに女ごえが聞こえてきた時点でした。そこにフォーカスすることで、原句は次のように変わりました。
【推敲】メーデーや句座まで届く女ごゑ 〃
【原句】短夜の目覚め促す鳥の声 〃
夏場はすぐに気温が上がってきますので、朝の涼しいうちに散歩するように心がけています。自然界では人間よりも鳥の方がずっと早起きのようです。それが「目覚め促す」という措辞ですが、やや理屈っぽくなってしまいました。
理屈は感動からもっとも遠いものです。やはり、何故そう感じたのか、その感じを受け取った場面をこそ描くべきだと考えました。
【推敲】鳥声に覚めゆく村や明易し 〃
如何でしょうか。このように、感動の場面(時点)を意識することで、自分が何を言いたかったのか、はっきりと自覚することができましょう。
その上で、そこにフォーカスした表現を心がけるようにすると、臨場感のある明快な表現ができるのではないでしょうか。ぜひお試しいただければと思います。
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