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俳の森-俳論風エッセイ第38週

二百六十、伝えたいこと・伝わること

思いがたくさんあって、あれもいいたい、これもいいたい人にとっては、俳句は限りない制約と映るかもしれません。何しろ、何かをいおうとすると、それ以上いってはいけないと直に断られてしまうのですから・・・。
散文のように字数を気にせずに思いのたけを述べられたらと思うこともあるでしょう。表現は本来自由であるべきで、そう思って俳句から離れていく人もいるでしょう。
何れにせよ、わたしたちが表現するのは、伝えたいことがあるからです。そして、それが百パーセント伝わって欲しいと誰しも願っているのではないでしょうか。しかし、俳句で伝えたいことと伝わることとの間には、少なからずギャップがあります。それどころか、全く伝わらないといった事態も起こりうるのです。

このギャップを埋めるのが、俳句の表現技術です。短い俳句で正しく伝えるためには、次のことが必要です。
・ 伝えたいことを一つに絞ること
・ 季語を最大限活用すること
俳句の句形で○句一章というのは、伝えたいことを一つに絞った結果に他なりません。句形に則り、文法に則ることは、すべて正確に伝えるためなのです。
また、季語は作者と読者と仲立ちするいわば共通語だといえましょう。俳句の良し悪しは、ひとえに季語が働いているかどうかにかかっています。季語がよく働くとき、季語の情趣が、豊かな味わいを提供してくれるのです。このように、俳句のルールの多くは、正しく伝わるようにするためのものだといえるのではないでしょうか。

さて、表現技術を磨くには、表現したものがどのように伝わるのか確認する必要があります。その最良の方法は、句会に参加することです。句会は、自分の表現が伝わるかどうかを実際に試す場なのですから・・・
俳句で伝える価値があるものは、感動と認識ではないかとわたしは考えています。感動の場面を誰かと分かち合いたいと思い、自分が発見した独自の認識を人に伝えたいと思うのは人情だからです。感動も認識も不可分のものですが、便宜的に分けると以下のようになりましょう。
【感動の勝った句】
外にも出よ触るるばかりに春の月     中村 汀女
ねむりても旅の花火の胸にひらく     大野 林火
揚雲雀空のまん中ここよここよ      正木ゆう子
雪とけて村一ぱいの子どもかな      小林 一茶

【認識の勝った句】
芋の露連山影を正しうす         飯田 蛇笏
冬の水一枝の影も欺かず         中村草田男
滝の上に水現れて落ちにけり       後藤 夜半
山茶花は咲く花よりも散つてゐる     細見 綾子

二百六十一、一夜賢者の偈

最近振り出しに戻った感じで、写生について考えています。写生とは自然の姿をありのままに写すことといわれていますが、そのことにいったいどんな意味があるのでしょうか。小学校の教科書にも載っている子規の句に、
赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり       正岡 子規
があります。近景の赤蜻蛉と遠景の筑波とが壮大な空間を作り出しています。掲句には特に難しいことばもなく、どちらかといえば誰でも見たことのあるようなありふれた光景です。

しかし掲句を読むと、わたしは、どこか有難いような気持ちになってくるのです。それは子規がたまたま見かけた景色でしょうが、穏やかな秋の夕べの理想のように思えてしまうのです。
子規もまた、自然の美しさに打たれ満ち足りていたのではないでしょうか。掲句には子規の主観らしきものは一切見当たりません。敢えていえば、雲もの「も」位でしょうか。
この景色に出会った充足感が、作者の主観の表出を不要にしてしまったともいえましょう。作者自身が、この句に付け足すことは何もないと確信しているのです。
実際に子規が見ていたのは、それほど長い時間ではないでしょう。夕景は刻々と移りかわってしまうからです。しかし、その歓びは子規のなかに、しっかりと刻印されたのではないでしょうか。
俳句は、いまここにある歓びを、自然を通して詠う文芸といってもいいでしょう。子規は運良くこの光景に出会いました。しかし、いつも忙しい現代人は車で通り過ぎてしまうかもしれません。
わたしたちが見慣れたと思って、注意して見ることを止めてしまった景色も、実際には刻々と変化しています。俳句は、そのことに気づかせてくれます。写生とは、先入感を拝して+ありのままに見ることなのではないでしょうか。

ところで、ひろさちや氏の「道元を読む」(佼成出版社)のなかに、お釈迦様の「一夜賢者の偈」と呼ばれている教えが紹介されています。
過去を思うな。
未来を願うな。
過去はすでに捨てられた。
そして、未来はまだやって来ない。
だから現在のことがらを、
それがあるところにおいて観察し、
揺らぐことなく動ずることなく、
よく見きわめて実践せよ。 
 (『中部経典』一三一経)
俳句もまた、この偈にあるような実践であり、それは生きることそのものであると思うのです。

二百六十二、写生の契機

高野素十研究(倉田紘文著、永田書房)なかで、倉田氏が、昭和四十二年『芹』七月号から高野素十の文章を紹介しています。少し長くなりますが、引用します。(太字筆者)
筆に紅つけて雛の口を描く        十字
筆に墨つけて雛の目を描く        同

「雛作りそのままの所作であり、そのままの所作をそのままに写生した句である。筆に紅をつけて雛の口を描く、筆に墨をつけて雛の目を描く。之は雛作りの誰でもがすることであり、誰でもが見るところであり、これをそのまま、何の附加するところなく句にしたまでのことである。而もこの様にこの一句ずつを二つ並べて見ると如何にも美しい。雛の口も、雛の目も、生き生きとみずみずしいのに驚くのである。
どうしてこの様なそのままが十七字となってこのように美しくなるものか私には判らない。ただ美しいと感ずるだけなのである。ここらあたりに写生俳句の契機があるかもしれないのである。作者は富山の一隅にあってただ黙々と写生俳句を作っている。人を驚かそうとか、名前を上げようとか云う考えは毛頭なく、ただ教えられるままに俳句を作っているのである。その当り前の人が当り前の句を作ってこのように美しいということ、その美しさの因って来たるところのものは、俳句以前のものの由来かもしれぬのである。」
また、同書のなかで、倉田氏は、俳句について次のように力説されています。
自然の真の姿だけでいい。その自然の姿が心にひびいたものそれが詩になり、又俳句になると思うのである。

掲句を読者が美しいと感ずるのは、作者自身がこの雛の美しさに心底感動しているからではないでしょうか。作者の十字氏がいいたかったことは、まさに「雛」の一語にほかなりません。
それ以上のことをいえば、すべて蛇足となると知りつつも、そこに、邪魔にならないように、残る十四音をおいたのではないでしょうか。口を描くのも、目を描くのもまさに、それによって、雛にいのちの宿る瞬間といってもいいでしょう。その雛のなんという美しさ!

ここでは、ありふれたことばが、雛と一緒に躍動し、輝いているように思われます。掲句には、雛が生まれる瞬間の作者の感動が満ちています。その感動を雛という一語に託し、作者は淡々と美の生まれる瞬間を描き切ったのだといえましょう。
作者はその感動が伝われば、それだけでよかったのではないでしょうか。いまここにある美の前では、自分の小主観などどうでもよかったのです。そのような心境から生まれるものが写生句ではないかと思うのです。

二百六十三、対機説法

結論からいえば、俳句のルールとして喧伝されていることの多くは、対機説法の類ではないかと思われます。曰く、俳句の季語は一つでなければならない。/俳句は五七五でなければならない。/俳句には切れがなくてはならない。/主観表現をしてはならない。/擬人化表現を極力さける。等々。
これらが、初心者向けのいわば対機説法的なルールと思われる理由は、以下の通りです。
① 初心者はどれが季語か見分けがつかないため、安易に季重なりをし勝ちです。そこで、季語に注意を向けてもらうため、季語一つと教える。
② 俳句には字余りも字足らずもあるが、その味わいを知るには、五七五の音数律を体で覚えることが必須。そこで、五七五と教える。
③ 俳句は一句で独立した表現をめざす。言い切る訓練は、句意を完結させることにつながる。
④ 安易な主観表現は、共感の妨げになり易い。主観を排除することで、写生に導く。
⑤ 感動・感激していると、擬人化表現になり易い。主観表現同様、安易な擬人化は独りよがりとなり、共感を得にくいため、擬人化を避けるよう教える。
しかし、これらのルールを守っていない名句も数多く存在することもまた事実です。このことは、表現というものが本来どうあるべきかということを考えてみれば、自ずから明らかなのではないでしょうか。

仮に作者が、俳句表現として、有季定型を選択しているのであれば、「俳句は、五七五の音数律を生かし、季語を働かせて作る、一個の独立した詩である。」ということに尽きるのではないでしょうか。
一句一句が、独立した作品ならば、一人の作者が、文語表現、口語表現を試みることも可能でしょう。本来表現とは、何ら拘束されるべきものではないからです。一句のなかに文語・口語が混在するのでなければ、違和感はないのではないでしょうか。

夏井いつき氏は、絶滅危急季語辞典(ちくま文庫)のあとがきで、次のように自説を開陳されています。
私自身の句にも歴史的仮名遣いもあれば現代的仮名遣いもある。何故なら、一句の表記・文体・韻律等は、一句の内容(=心)によって決定されるべきだと考えるからだ。
口語で書きたい句もあれば、文語がしっくりはまる句もある。現代仮名遣いに軽やかに表現したい心もあれば、歴史的仮名遣いで趣深く伝えたい心もある。
俳句が一句独立の文学である以上、それらの表記・文体・韻律は一句ごとに意図的に選び採られてしかるべきだという考えからの試みでもある。

二百六十四、季語の発見状況を詠む

わたしたちが俳句を作るのは、季語を発見したからではないでしょうか。季語の意味が分かることと、自分なりに季語の実感をもつことでは、大きな違いがあります。わたしはこれまで感動ということを繰り返し述べてきましたが、この感動とは詰まるところ季語を発見した感動ではないかと思うのです。
十五夜のことです。月を見ようとしてベランダに出てみると、鈴虫が鳴いていました。暫く聴いていると、ふと月鈴子ということばが浮かびました。
今聴いている虫の声と、月鈴子ということばがしっくりと出合ったのです。それから部屋に戻り、明りを消してしばらく一人で虫聴きをしていました。その時の句です。
やはらかき光の小窓月鈴子        金子つとむ

一口に季語を発見するといっても、幾つかのパターンがあるように思います。掲句の場合は、月鈴子という季語の情趣を自分なりに発見し、追認した場合といえましょう。他には季語の情趣にそれまでにはない新たな情趣を付加する場合もあるでしょう。さらには、季語そのものを新たに発見する場合です。これらを纏めると、
① 情趣の追認(既存の季語)
② 新情趣の付加(既存の季語)
③ 新季語の発見
ということになりましょう。しかし、実際の作句割合は、①→②→③の順に小さくなり、③は余程でない限り、無いといってもいいでしょう。新季語の発見時は、厳密にいえばその句は無季俳句です。しかし、そこには、作者によって発見された情趣をもつことばが見つかるはずです。
次に、①と②を句形に当てはめてみると、
① 一句一章、二句一章(補完関係、情景提示)
② 二句一章(二物衝撃)
ということになるのではないでしょうか。

作句の拠り所となる感動が、季語の発見にあるのなら、全ての俳句は、季語の発見状況を語っているともいえましょう。その語り方は、次のようになります。
ア、どんな場所でそれを発見したか。
イ、それは、どんな状態だったか。
ウ、それを発見した自分はどんなふうに感じたか。
エ、それを知覚した瞬間、何が閃いたか。
それぞれ芭蕉の句で検証してみましょう。
荒海や佐渡に横たふ天の川        (アとイ)
生きながら一つに氷る海鼠かな      (イ)
山路来て何やらゆかしすみれ草      (アとウ)
夏草や兵どもが夢の跡          (エ)

季語の発見のない句は、感動のない句ということになり、ただの報告句ということになりましょう。

二百六十五、主観表現と客観表現

うららかな秋の日に、洗濯物が静かに揺れている様を見ていて、こんな句ができました。
干し物のゆれて静かや秋日和       金子つとむ
しかし、しばらくすると、やはり「静かや」はありふれていて物足りない感じがしたので、推敲することにしたのでした。

ところで、自分の感動を表現する方法は、二通りあると考えられます。一つは、自身の感動をそのまま直裁に表現する方法(主観表現)、もう一つは自分を感動させた原因を表現する方法(客観表現)です。
「静かだ」という感想は、作者自身のものですから、掲句は主観表現です。主観表現は、物事を契機として作者自身に起こった変化を表現する方法で、いわば結果の表現といえましょう。ですから、掲句は、
干し物がゆれて静かだとわたしが感じた秋日和
ということになりましょう。作者の感じたことですから、普段の会話に近く、表現としては馴染みやすく、たやすいのではないかと思われます。
しかし、それは作者の個人的な感慨であるため、共感が得られるかどうかは、やや心もとない気がします。
それに対し、もう一つの客観表現は、客観写生ともいわれているものです。自分を感動させた事実だけを相手に伝えて、相手にも同じ感動を惹起させようするもので、いわば原因の表現といえましょう。
客観写生は見たままを写せばいいのだから簡単だと思うかもしれませんが、とんでもない誤解です。作者はまず、自分を感動させたものが何であるかを、突き止めなければならないからです。
その正体を十七音の中心に据えることができなければ、相手に感動を届けることはできないでしょう。この作業は、その場面を客観的に見つめ直すことにつながり、漫然と見ていたのでは、決してできない作業なのです。

そこで、わたしは、その場面を思い起こしてみることにしました。やわらかな日差しが、干したばかりの洗濯物に降り注いでいました。少し風があるのでしょう、部屋のなかから見ていると、洗濯物がすこし横に傾いで、またゆっくりと戻ります。そんな様子が、「静かでまさに秋日和にぴったりだ」という感想を抱かせたのでした。そこには、一仕事を終えた寛ぎもあったでしょう。
「わたしを感動させたものは、何だったのか。」という問いに対しては、自分で答えを探すしかありません。そして、ようやく気づいたのです。あの時、わたしは、紛れもなく風を見ていたのだと・・・。
干し物のゆれて戻るや秋日和       金子つとむ
掲句はわたしの自分詩であり、自分史でもあります。

二百六十六、感想・判断・事実

前回の主観表現と客観表現の項で、自作の推敲課程をご紹介しましたが、実はその間にもう一句ありました。順番に示すと次のようになります。
①干し物のゆれて静かや秋日和      金子つとむ
②干し物のゆれて風過ぐ秋日和      〃
③干し物のゆれて戻るや秋日和      〃

それぞれの表現の異なる箇所に着眼して、それがどういう表現かを再度確認してみたいと思います。

まず、①の「静かや」ですが、その場にいた作者の感想のようなもので、主観の表出ということができましょう。
②の「風過ぐ」には、干し物が揺れたのを見たときの作者の判断が働いています。いま、風が過ぎたと作者は判断したわけです。
③は、厳密な意味での客観写生といえるのではないでしょうか。作者の感想も、判断もここでは述べられていません。作者は単にその事実だけを述べているのです。

ところで、もう百年も昔のことですが、水原秋桜子氏は、「自然の真」と「文芸上の真」という論文のなかで、次のように述べています。(日本の名随筆 俳句、金子兜太編、作品社所収)
自然の真というものは、厳格に言えば科学に属することである。しかも文芸の題材となるべき自然の真を追求するには決して天才を俟たない。必要とするところは少量の根気のみである。それゆえに、天才なき人でも、一木一草をありのままに述べることは、さして困難ではないのである。(中略)(太字筆者)

しかし、はたして本当にそうなのでしょうか。散文の描写という意味でなら、秋桜子氏の指摘はその通りかもしれません。しかし、こと俳句となると事情は異なります。
俳句では、表現に対しもっと自覚的にならざるを得ないからです。たとえ対象が一木一草であれ、作者がそれを句に止めようとしたのは、何か心打たれるものがあったからでしょう。その感動を読者にも分かってもらうには、自分が何に感動していたのか、その正体を探ることがどうしても必要になるのです。
その上で、その正体を中心に据えた表現を模索することになるのです。一木一草をただ詳細に描いたからといって、そこから感動が立ち上がるわけではないと思うのです。
一木一草ではありませんが、掲句のように単純なわたしの句でも、決定稿に至るまで二十六回の推敲を要しました。その道程はそのまま、感動の正体を探る道程なのです。真は真で一つ、「自然の」とか「文芸上の」とかいう、いわば括弧つきの真があるわけではないと思うのですが、いかがでしょうか。



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