俳の森-俳論風エッセイ第46週
三百十六、一五秒プラス六〇年
人間国宝の陶芸家、濱田庄司氏に、「一五秒プラス六〇年」という有名なエピソードがあります。濱田氏の得意だった技法に「流し掛け」というものがありますが、釉薬を柄杓で一気に流し掛けするものです。これによって、器に勢いのある一回限りの文様を描くのです。わたしもテレビでその様子を見たことがありますが、所要時間は、まさに一五秒程でしょう。
あるとき、その流し掛けについて、「余りにあっけないのでは?」と質問された濱田氏は、次のように答えたと言われています。
「一五秒プラス六〇年と見たらどうか」。
つまり、釉薬をかける時間は一五秒だけれども、その背後には、六〇年に及ぶ修行がある、ということなのです。
わたしは、この逸話は、俳句にも当てはまるのではないかと考えています。わたしたちの俳句も平素の俳句修行によって成り立っているのではないでしょうか。一句を成すのに俳句では一五秒もかからないのですが、その数秒とてもただの数秒ではなく、それぞれの俳句修行の時間をプラスした数秒だと思うのです。
ネットで一緒に俳句をしている仲間が、次のような句を作られたので、感想のやり取りをしました。ご参考までにご紹介しましょう。
一束の冷し素麺余しけり 十河たかし
(わたしのコメント)
一束という言い方は、ご自身で作られたか、予め一束でいいよといって、作ってもらったのではないかと思います。何れにしても、この一束は、実際に食べるまでは、たわいもなく平らげられる筈の一束だったのではないでしょうか。
それを余してしまった。恐らくご高齢で、食が進まなかったのでしょう。余しけりがよく働いています。淡々とした叙述はとても自然で、説得力があります。自然体で作句されているように見受けられます。
(作者コメント)
徳島県にオカベ半田手延麺というとても美味しい素麺があります。夏はときどき、一人前一束の冷やし素麺を作ってもらうのですが、余すことがあります。あまり苦労せずに日々の俳句は生まれますが、身辺雑事ばかりになるという状況から抜けられないのが残念です。
わたしは、この一束ということばに、重みを感じてしまうのです。これまでも作者は、幾度となくその一束を食べてきたことでしょう。その全量がこの一束にあるような気がするのです。偽りのない身辺雑事だからこそ、逆に作者の思いが強く伝わるのではないでしょうか。これまで生きてこられた歳月が生み出した一句だと思います。
三百十七、俳句が生まれるとき
ごくたまにですが、俳句がひとりでに生まれてくるような経験をすることがあります。それは、夏の明け方のことでした。午前四時過ぎに起き出して、まだ暗い窓を少し開けてみると、こんな時間だというのに、既に鳴きだしている鳥がいます。
しばらく耳を澄ましていると、次第に鳥の数が増えてきます。雲雀、雀、鵯、燕・・・。それはまるで闇の中から、鳥たちの声が生まれてくるようでした。鳥たちが眠りから覚めて、今日初めての声を発するとき、それはどんな気持ちなのでしょうか。そんなとりとめのないことを考えているとき、その句は生まれたのです。
夏の暁鳥どちの声生まれ出づ 金子つとむ
それはわたしがその自然のなかに没入してしまって、そこから自然が奏でたことばを掬い上げたという感じでした。それに、上五を夏暁やとすると、壊れてしまいそうな感じさえしたのです。こんなことを書くと、どこかの宗教家の啓示のように聞こえるかもしれませんが、確かにそれは少し不思議な体験だったのです。
そのとき不意に、俳句は、自然のこころを汲み取って詠うものではないかと思えたのです。五七五はそれをするのに、最適な大きさであると・・・。
高浜虚子をして、客観写生真骨頂漢といわしめた高野素十は、自身の作句態度を次のように述べています。それは、そのまま他者の俳句を選評する際の基準にもなっているのです。素十の研究(亀井新一著、新樹社)より引用。
素十が雑詠句評会において他の句について意見をいう場合、はっきりとした視点を持っている。「外界から纏まった景色、感じというものが出て来るのを待っている。」ことがまず第一なのである。次にそのことがその人固有のことばとして、つまり「使うだけの心の要求がある」ことばとして表現されているかということが第二である。つまり、句を作る者の態度を相手の句にも要求している。
また、評伝高野素十(村松友次著、永田書房)では、
ややもすると俳句が詩の一つである事を忘却する。実におそるべき事である。(中略)出来るにまかせてやたらに句をつくる。感激のない句を製造する。自分の句に対して持たねばならぬ責任を軽んずるのである。自分で現に経験してる事が何でも句になり相な気がする。季題に追ひまわされてるのだ。(中略)
とも述べています。自然が語り掛ける幸福な瞬間は、日ごろの写生の果てに訪れるのではないでしょうか。
塵とりに凌霄の花と塵すこし 高野 素十
菊の香や灯もるる観世音 〃
水すまし流るる黄楊の花を追ふ 〃
三百十八、客観写生
もともと客観的態度である写生ということばに、敢えて客観を加え客観写生とした高浜虚子の真意は何なのか、今回はそのことを少し考えてみたいと思います。
客観写生について虚子は、俳句修行をおよそ三段階に分け次のように論じています。(俳句への道、岩波文庫)
客観写生という事を志して俳句を作って行くという事は、俳句修行の第一歩として是非とも履まねばならぬ順序である。客観写生という事は花なり鳥なりを向うに置いてそれを写し取ることである。自分の心とはあまり関係がないのであって、その花の咲いている時のもようとか形とか色とか、そういうものから来るところのものを捉えてそれを詠うことである。(中略)
そういう事を繰り返しやっておるうちに、その花や鳥と自分の心とが親しくなってきて、(中略)心の感ずるままにその花や鳥も感ずるというようになる。(中略)そうなって来るとその色や形を写すのではあるけれども、同時に作者の心持を写すことになる。
それが更に一歩進めばまた客観描写に戻る。花や鳥を描くのだけれども、それは花や鳥を描くのではなくて作者自身を描くのである。俳句は客観写生に始まり、中頃は主観との交錯が色々あって、それからまた客観描写に戻るという順序を履むのである。(太字筆者)
つまり、客観写生の最終形では、表面的には対象を描きながら、作者の心を描くというのである。それは作者の側からいうと、作者の姿が一句のなかに見えてしまう感じなのか、一句のなかに混然一体となって溶け込んでいるかの違いのように思われます。
朝な夕な駅の子燕見てしまふ 金子つとむ
朝な夕な駅の子燕見て通る 〃
前者が未だ主観的な交錯を表に止めているのに対し、後者の句からは、よりはっきりと景が立ち上がってくるように思われます。虚子はまた、作句について次のように述べています。その眼、「俳人につき」(青木亮人著、邑書林)からの孫引きになりますが、
例えば桜の花を見る場合には、その花に非常に同情を持つ。あたかも自分が桜の花になったごとき心持で作る。すなわち大自然と自分と一様になった時に写生句ができるのです。
虚子は、大いなる感動の内にあって、その表現手段としての客観描写を奨めているのです。修行中期のような主観に彩られた表現を極力さけよといっているのです。
主観は大前提としてもちろんあるのです。あえて客観を冠したのは、どうしたって飛び出してくる主観を封じるための要石のようなものだったのではないでしょうか。
三百十九、何をよむか、どう詠むかー手紙風ー
Oさん、早速ご依頼の添削の件ですが、あなたの原句は次のようなものでした。
蟇宇宙の使者の威厳あり
この句は、二句一章、補完関係の句です。句意は、蟇には、宇宙の使者の威厳があるということです。しかし、意味が分かっても、何故そう思われるのか、ちっともよく分かりません。それは謎を解く手がかりがないからです。けれど、この句にはとても興味があります。あなたが何故、蟇を宇宙の使者と思ったのか、それを知りたいと思いました。それが、あなたの伝えたいことなのですから。
掲句の構造は、
蟇(眼前の景物)宇宙の使者の威厳あり(作者の思い)
ということになります。似たような構造の句に
夏草や(眼前の景物)兵どもが夢の跡(作者の思い)
ご存知、芭蕉さんの句です。芭蕉さんの句を辿っていくと、兵どもの夢とは覇権争いであり、具体的には戦そのものでありましょう。かつて戦のあった場所に、今は夏草が生い茂っている。しかし、その夏草とてもやがて、枯れ果てていく、その無常の思いが作者を捉えているのではないかと想像できるのです。
それでは、何故〈蟇宇宙の使者の威厳あり〉では分かりにくいと言われてしまうのでしょうか。芭蕉さんの句では、兵どもが夢の跡は、跡ということばが戦場跡であることを示唆し、そこが今は夏草に覆われていると読者が読み解けるようになっています。つまり、跡ということばが謎をとく鍵となっているのです。
ところが、〈宇宙の使者の威厳あり〉は、徹頭徹尾作者の思いであるため、それを読み解く鍵が読者に与えられていないのです。だから、面白いなと思っても、そこから先へ進めないのです。つまり、厳しい言い方をすれば、〈宇宙の使者の威厳あり〉は、独りよがりの主観表現ということになります。
ここから抜け出す方法は、今一度、自分が何故蟇を宇宙の使者と思ったのか、何故威厳を感じたのか、その理由を振り返ってみることです。蟇の何をみて、どんな動作を見て、何を聞いてそう思ったのか、それを思い出してみるのです。そして、何を言いに来た使者なのかと・・・。
そして、自分にそう思わせた具体的な事物を、謎を解く鍵として一句のなかに提示するのです。
例えば次のように、あなたが一番感じ入った蟇の貌やまぶたを閉じる仕草を一句のなかで明示するのです。
蟇宇宙の使者の貌ならん
まぶた閉ぢ宇宙の使者か蟇
このように、具体的なものが提示されることで、読者はそれを想像し、共感の手がかりを得ることができるのです。
三百二十、俳句の風姿
空といえばそこに本物の空がある。鳥といえば、そこに鳥が飛んでいる。作者が感動を受け取った景をそのまま読者の眼前に現出させることができたなら、どんなに素晴らしいことでしょう。
その景が、初めからそこに在ったかのような自然な姿で現れてくるなら、読者はすっとその世界に入ることができます。そんな作品が俳句の理想なのかもしれません。
わたしたちが、作品によって感動を受けとるには、その作品ができるだけ純粋な詩空間であることが求められるのではないでしょうか。一句の視点は作者のものですが、その視点がわたしたちの過去の経験と近似であるとき、わたしたちは容易にその視点へ移ることができます。
つまり、一句に共感するということは、作者の視点が何の違和感もなく読者の視点になりかわることなのではないかと思うのです。そうすることで、わたしたちは、まさに作者の感動を追体験できるのです。
次の句で、このことを考えてみましょう。
青天や白き五弁の梨の花 原 石鼎
一読しただけでは、梨の花の観察記録のようです。唯一作者の感動が見えるのは、切字〈や〉の詠嘆くらいでしょう。しかしそれとても、いい天気だなあという位のもので、何ら特殊なものではありません。
しかし何度も読んでいくと、この視点が不動のものであり、梨の花にピタリと焦点が定まっていることが分かります。一旦この視点を獲得してしまうと、読者はこの視点から作品世界を覗くことになります。そこに違和感が生じないのは、梨の花を見るときに誰でも持ちうる視点だからです。微動もしないその視点から、青天のなかに、真っ白な五弁の花が浮き上がり、輝きだしてくるのです。
作者は、この情景さえ伝えられれば、それでよかったのではないでしょうか。それは、作者がその情景に、十分に感動していたからです。
この句は、冒頭で述べた俳句の理想を具現化しているように思われます。わたしたちの眼前には、作者が意図した通りの梨の花が、生き生きと立ち現れてくるからです。
スナップショットのように描き出された梨の花。作者の視点は、梨の花そのものと向き合ったまま、凍りついています。それほどに深く、作者は感動しているのです。ここでは、青天も白も五弁ということばも、それが生まれたときの生々しさに立ち返っているように思われます。
この句の響きは、作者の肉声というより、ことばそのもののもつ響きなのではないでしょうか。作者は、梨の花との出会いを、凍りついた感動の視点からの映像として、再構築してみせたのです。
三百二十一、季語感
俳句では季語の持つ情趣によって、作者の真意をつかむことができます。幾様にもとれる句の真意を定めているのは、全て季語の働きといえましょう。
初心者や俳句の門外漢の方が、その良さが分からないと言われるのは、この季語に対する理解不足が原因ではないかと思われます。例えば、次の二つの句は、季語以外は同じ句文ですが、意味が正反対といってもいいほどに異なっています。
少年の長き潜水夏始まる 比較用例句
少年の長き潜水夏終る 川瀬さとゑ
わたしたちは、季語が醸し出す雰囲気、その情趣のなかで作品を理解しようとつとめます。読者が季語に対して抱く一連の感覚あるいは知識の総体を仮に季語感と呼ぶならば、読者が確かな季語感を持っていればいるほど、作品は厳密に吟味されることになるでしょう。
逆に読者の季語感が乏しければ、先にあげた例句の良否の判定さえも覚束なくなるのではないでしょうか。
それでは、この季語感とはどのようにしたら養うことができるのでしょうか。
見知らぬ季語に出会うたびは、わたしたちは歳時記をひもときます。そこには、解説に加えていくつもの例句が掲載されています。古い季語では、江戸時代からの例句を見ることができます。さながら季語の歴史絵巻といった感じです。わたしたちは、この解説や例句にあたることで、季語のもつ本意・本情といわれるものをつかむことができるでしょう。
しかし、頭で理解しただけでは、作品を作る際にもあやふやな季語のイメージで作ることになるでしょう。季語の多くは、わたしたちが見聞きできるものですので、何度も見聞きし、感じることで、季語は作者のものになっていくのではないかと思われます。
わたしは、俳句は、季語の発見プロセスを詠むものだと考えていますが、一つ一つの季語に対して、様々な体験を繰り返し、それを実際に作句してみることで、作者の季語感は深まっていくのではないでしょうか。
つまり、俳句を作ることそれ自体が作者の季語感を養っているといえるのです。わたしたちの季語感は固定的ではありません。俳句を作るたびに、また優れた俳句に出会うたびに変化していきます。類句類想でない優れた俳句は、つねに季語感の更新をわたしたちに迫るものだからです。
このように、季語感という観点から俳句を捉えてみると、わたしたちは、常に季語というものに向って、永遠の旅をしているともいえるのではないでしょうか。
三百二十二、主観と独りよがり
俳句が自分詩であり自分史である以上、〈わたしの感動したこと〉という意味においては、作品は全て作者の主観ということができましょう。全ての芸術表現は、結果的に自分を表現するわけですから、主観を表現しない芸術などはありえないわけです。
俳句が面白いのは、銘々がそれぞれの主観を表現するからです。ですから、作家の数だけ俳句があるということになりましょう。ところが、主観はよくないとか、主観が出過ぎているなどといわれると、主観はいけないと思いこんで、当たり障りのないことを詠むようになってしまいます。わたしは、ここに、主観に纏わる大きな誤解が潜んでいるように思えてならないのです。
俳句を突き詰めていくと、何を詠むか、どう詠むかという問題に行き当たります。〈何を〉は作者が詠みたいもの、〈どう〉は相手にも分かるように詠むということです。そして、指導者が教えられるのは、この〈どう〉の部分、つまり表現技術だけなのです。
ですから、指導者が主観というときには、全て表現技術を問題にしているのです。独りよがりで相手に伝わらない表現のことを主観と呼んでいるに過ぎないのです。
別のことばでいえば、読者に理解のためのヒントを一切与えない表現ともいえましょう。例えば、美しい花を見て、「まあ、きれい」というだけで、その場に居合わせない読者に、作者の感動をそのまま伝えられるものでしょうか。相手に伝わるかどうかをよく吟味することが、独りよがりの表現を回避する手立てといえましょう。
さて、作者独自の主観を、他人にもよく分かるように表現している作家に、細見綾子氏がいます。代表句をいくつか挙げてみましょう。
くれなゐの色を見てゐる寒さかな 細見 綾子
そら豆はまことに青き味したり 〃
み仏に美しきかな冬の塵 〃
チユーリツプ喜びだけを持つてゐる 〃
山茶花は咲く花よりも散つてゐる 〃
一見すると無造作に作者の感慨を述べているようですが、言われてみると成程と納得できる作品ばかりです。綾子氏の俳句には、写生に裏付けられた独自の表現が光っています。喜びだけをもつチューリップも、咲くよりも散っているという山茶花も、一面の真理を含んでいます。それだけに、多くの人が諾うことができるのでしょう。
綾子氏の句では、季語そのものが理解のためのヒントを与えているといえないでしょうか。うすうす気づいていたのに、だれも表現し得なかったことを、ズバリと表現されているのです。
鶏頭を三尺離れもの思ふ 〃
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