俳の森-俳論風エッセイ第12週
七十八、自分史
実際に俳句をつくる場合、季語はどのように扱われるのでしょうか。嘱目吟と題詠の比較を通して考えてみたいと思います。ここでは一句一章はひとまず置いて、二句一章の取り合わせの句について考えてみたいと思います。
寒鴉雲を見てゐてゐずなりぬ 皆川 盤水
ここでAを季語、Bをそれ以外の句文としますと、嘱目吟は当季の季語を契機として、作者の感動によって生まれるものと考えられます。掲句では、A(寒鴉)に対する発見や感動がB(雲を見てゐてゐずなりぬ)を生んでいるのです。あるいは、逆にBによってAが発見されるといった場面もあるでしょう。
何れにせよ、作者にとって、AとBの繋がりは必然であり、作句動機となった現場が存在することになります。
一方、題詠には現場がありませんので、経験上から同様の現場を探しだすか、想像上の現場を設定することになるでしょう。特に、想像上の場合は、AとBは恣意的にならざるを得ないと思われます。
さらに、夏井いつき氏の主催する句会ライブでは、Bが楽しい内容なら楽しげな季語を、悲しい内容なら悲しげな季語を取り合わせることで、瞬時に一句が生まれる面白さを体感させているようです。意識的にことば遊びの要素を取り入れることで、ハードルを下げているものと思われます。
さて、わたしたちの誰もが経験しているように、俳句は現場でも机上でも作ることができます。季語はいわば共振装置。AとBを取り合わせたとき共振が起これば、俳句としては成立するからです。それは一見すると、ジグソーパズルのようでもあります。
しかし、俳句がわたしたちの表現行為であることを考えると、本来的には、共振するAとBを探すのではなく、AとBが生まれ、必然的に繋がる現場こそが必要なのではないでしょうか。
俳句が当季雑詠にこだわり続けているのは、現場を大事にしているからと思われます。机上の作句でも自分詩は作れますが、自分史にはならないのではないでしょうか。
俳句は季節に対するわたしたちの感受が生み出す詩だといえます。一句一句には、作者しか知らない現場があります。句を読み返す度にその現場が現れ、感動を新たにすることができます。この現場の存在こそが、わたしたちの自分史を形作っていくものといえるでしょう。
各人が各人の自分史を積み上げていくことで、わたしたちは、先人たちの培ってきた美の体系に連なることができるのではないでしょうか。
七十九、五感に訴える
一句に共感を覚えるとき、わたしたちの内部で何が起っているのでしょうか。わたしたちは、一句のことばから触発された場面を、わたしたちの記憶から呼び出しているのではないでしょうか。
例えば一句のなかに佐渡という地名が入っていた場合、殆どの人にとって、その場面やそれに付随する細部までも想像することが可能でしょう。人々にとって馴染みの深い土地を読み込むことで、大きな映像喚起力を見方につけることができるのです。
荒海や佐渡に横たふ天の川 松尾 芭蕉
このように、一句が読者の五感に働きかけ、それを刺激し、一句の場面をまざまざと想像させることができたとき、大きな共感を得ることができるのではないでしょうか。誌上句会の高得点句から、五感に対する働きかけを見てみましょう。
和服には和服の歩幅菊日和 住登 美鶴
よく和服を着る人なら、和服の歩幅には触感を感じるのではないでしょうか。また、菊日和という季語は嗅覚・触覚・視覚に通じているように思われます。かすかに草履の音も聞こえてくるようです。掲句は、触覚、視覚、嗅覚、聴覚に働きかける句ということができるでしょう。とりわけ触覚を呼び覚ましたことで、高得点に繋がったのではないでしょうか。
八朔や宮に四股ふむ豆力士 高野 清風
四股をふむ土俵の感覚、その音。ここにも触覚、視覚、聴覚が働いています。なかでも、触覚は、豆力士の裸ともあいまって、多くの人の触覚を呼び覚ましたのではないでしょうか。
傘寿にも青雲の空草矢打つ 若山 実
草矢を放つ先には、青雲の空がひろがっています。視覚的な広がりが気持ちのいい句です。草矢をうつ触覚もまた独特なものです。視覚と、触覚、わけても視覚のすばらしさに惹かれる句といえるでしょう。
春疾風竹百幹の響き合ふ 平岩 千恵
この句では視覚と聴覚と触覚が渾然一体となっています。荒れ狂うように動く竹とそこから湧き上がってくる音。音がなかなか鳴り止まないのです。やはり、聴覚の句といっていいのではないでしょうか。
このように一句が五感に強く働きかけるとき、わたしたちの記憶が呼び覚まされるようです。俳句は「物に語らせよ」といいます。物はわたしたちの五感が働いて感じることのできるものであり、五感に訴えるには、物を働かすに如くは無いということなのではないでしょうか。
蕗の薹食べる空気を汚さずに 細見 綾子
八十、「冴ゆる夜の」考
けやき句会で高得点をとられた次の句について考えてみたいと思います。
冴ゆる夜の反故の捩れの戻る音 伊藤たいら
この句をめぐって、原句通り「冴ゆる夜の」がいいのか、「冴ゆる夜や」がいいのかという議論になりました。論点は、「の」使い方の正誤及び、句形の選択ということになろうかと思います。
先ずはじめに、格助詞「の」の使い方について考えてみましょう。「の」の使い方の代表例として、佐佐木信綱の短歌があります。俳句では、風生の句があります。
ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲
佐佐木信綱
みちのくの伊達の郡の春田かな 富安 風生
これらの歌や句では、「の」は順繰りに次のことばへ繋がり、大景から最終的に焦点となることばに収斂していきます。一ひらの雲と、春田がそれです。
これに対し、「冴ゆる夜の」の「の」は、意味としては「音」に掛かるように思われます。作者が言いたいのは、「冴ゆる夜の反故」ではなく、「冴ゆる夜の・・・音」ではないでしょうか。もしそうなら、この「の」使い方にやや無理があるといえるかもしれません。確かに、いっぽうには、この「の」を軽い切れとする考え方もあります。
次に、句形について考えてみましょう。この句のすばらしさは、「反故の捩れの戻る音」という作者ならではの独自の把握にあります。この句文を、独立性があると捉えるか、「冴ゆ」に依存すると捉えるかで、句形がきまります。前者なら、二句一章、後者なら一句一章です。しかし、その判断は非常に難しい。
この戻る音はおそらく幽かなもので、多くの人は、「冴ゆる夜」だからこそ聞こえた音、つまり「冴ゆ」に依存すると考えるのではないでしょうか。しかし、わたしは、この句文自体に詩情があり、反故にした当事者の熱情のようなものすら感じてしまうのです。
もし、この句文に詩情があるなら、二句一章として季語のもつ詩情と充分に響きあうだけのちからをもっていることになります。二句一章の添削例をあげてみましょう。
冴ゆる夜や反故の捩れの戻る音 添削例①
冴ゆる夜反故の捩れの戻る音 添削例②
①の「さゆるよ」に対し、②は、傍題通り「さゆるよる」と読みます。冴ゆる夜のあの凝縮していく感じを表現するには、個人的には、②のほうがよいと思います。
②では、期せずして、「r」の音を通底音として響かせています。一瞬音が聞こえて、また夜の静寂に戻っていくように感じられるのです。
八十一、寅さんのだんご
青葉集の鑑賞で、次の選評を書きました。今回は、この句をもとに選句ということを少し考えてみたいと思います。
寅さんのだんご頬張る秋日和 大橋 克巳
葛飾柴又の参道でしょうか。寅さんと団子は付き過ぎかも知れませんが、頬張るということばに惹かれました。頬張るということばには、一瞬にして映像を喚起させるちからがあるように思います。ふりそそぐ秋日のなかで、だんごを頬張る作者が微笑ましいと思います。(雲の峰誌、二〇一五年二月号より転載)
わたしは勝手に葛飾柴又の帝釈天の参道を思い浮かべましたが、帝釈天に行かれたことのない方も多数いらっしゃるのではないでしょうか。そうすると、代わりにいつか見た映画の場面を思い浮かべるかも知れません。
寅さんのだんごは、わたしたちの経験や知識、記憶に応じたイメージを呼び起こすものといっていいでしょう。
本当のことをいえば、掲句の作句現場は参道ではないかもしれません。買ってきた草だんごを江戸川の土手で頬張っているのかもしれません。あるいはまた、だんごは誰かの手土産で、自宅の縁側で頬張っているのかもしれません。
作者の事情とは裏腹に、読者は勝手に句の場面を再現していきます。句を読むことは創作といわれる所以がここにあります。
寅さんは有名人ですから、イメージ喚起力に優れたことばということができるでしょう。しかしなんといっても、俳句のなかで最大のイメージ喚起力をもつことばは、季語なのではないでしょうか。
秋日和は、うらうらとした陽気に誘われて作者が帝釈天にきたのではないかと想像させます。そのとき、映画の寅さんと作者が二重写しに見えてくるかもしれません。
選評にも書きましたが、もう一つは「頬張る」という語の働きです。「頬張る」にはイメージ喚起力があり、さらにだんごの触覚や味覚をも感じさせてくれます。
このように五感に強く訴えることばがあると、句の世界にすっと引き入れられてしまいます。わたしたちの生の実感は五感によって支えられていますので、五感を刺激されると、景がぐっと身近に感じられるのです。
俳句というのは、読者の五感に訴えるものだという言い方もできるのではないかと思います。
鱧ちりをつつき論陣には入らず 朝妻 力
葉桜やどこかに錻力叩く音 〃
鈴虫や手熨斗で畳むややの物 〃
八十二、分かる句・分からない句
わたしの作る句の季語をA、それ以外の句文をBとすると、句形如何にかかわらず、一句は全てA+Bという形になります。季語は自分では作れませんので、作者の表現領域は、季語Aの選択と、Bの創作ということになります。それ以外に、作者の独自性を表現しえるものはないのです。
ここで、A+Bのなかのプラス記号の意味について考えてみましょう。このプラス記号は、いわば作者の感性そのものといえるものです。作者が他でもない季語Aを選び、他でもない句文Bを創作し、両者を繋ぎあわせたからです。
このプラス記号は、二句一章の句形では切れとなって現れますが、当然その記号の意味が説明されることはありません。
読者はAとBから、そのプラスの意味を、その作者にとっての必然性を探るしかないのです。プラスが作者の感性なら、その意味を探り当てるのは、読者の感性ということになりましょう。
ところで経験的にいえることですが、二十人程度の句会なら、最高得点句の得点率は三〇~五〇%といったところに落ち着くようです。
わたしの句を支持する人もいれば、そうでない人もいます。わたしの句をよく選んでくれる人もいれば、全く選んでくれない人もいます。
作者の感性が、読者の感性によって試される以上、俳句に限らず他の文芸でも似たりよったりなのではないでしょうか。
作者が自身の感性をかけてA+Bと作句したとき、それを読者もやはり自身の感性をかけて読み解くわけです。作者の感性と読者の感性は、端から異なるわけですから、その得点率を作者の側でコントロールすることはできません。俳句が他選といわれるのはこの謂いでしょう。
自身の感性に忠実になればなるほど、他者にとっては分かり憎い句が生まれてしまう可能性は大いにあります。また、逆に他者に分かりやすいということに照準を合わせてしまうと、自分の表現行為が疎かになりかねません。
以前わたしの作った句に次の句がありますが、きっと分かり難いだろうと思います。
とんぼうのじっと時間の外にゐる 金子つとむ
次に、わたしもよく分からない草田男の句をいくつかあげてみましょう。でも、分かる人もいるのです。
ほととぎす敵は必ず斬るべきもの 中村草田男
世界病むを語りつつ林檎裸となる 〃
木葉髪文芸永く欺きぬ 〃
真直ぐ往けと白痴が指しぬ秋の道 〃
八十三、居合わせた喜び
奇麗なものを見たり、感動的なシーンにであったりすると、わたしたちは写真にとったり、俳句を作ったりします。
客観写生の句は、スナップショットに似ているかもしれません。しかし、単なる記録ならそれでいいのですが、俳句となるともっと自分の感動を表現したいと思うのではないでしょうか。
ところが、客観写生句では、季語Aとそれ以外の句文Bの取り合わせにも、句文Bの表現自体にも、作者の主観が色濃く表現されることはありません。まるで、見たまま、あるがままにそれらは表現されています。それだけで、ほんとうに作者の表現意欲は満足しているのでしょうか。
厳密にいうとスナップショットは、すべて唯一のものです。何故なら、同じ時刻、同じ場所(視点)で複数の人が写真を撮ることは不可能だからです。ましてや俳句ともなれば、万物のなかから拾い出してくることばの組み合わせは、ひとによって千差万別です。それは、吟行すると良く分かります。同じ場所を歩いて、同じものを見てきたはずなのに、俳句はみな異なるからです。ことばの選択・組み合せのなかにすでに作者はいるといってもいいでしょう。
厳密には確かにそうですが、それだけでは似たような句が沢山できてしまいます。そこには、何かもっと作者独自のものが必要なのではないでしょうか。
しかし、純粋な客観写生句になればなるほど、ことばの選択・組み合せ以外の要素は見当たりません。そこで、どうしてそれだけで、作者は満足できるのかを考えてみる必要がありそうです。
わたしたちは、ほんとうに感動した場面に出会うと、ことばを失うものです。感動が大きければ大きいほど、その場に居合わせた喜びが大きくなるからです。
その場の喜びの大きさに比べれば自己の感慨の表出など取るに足らないものだと作者が納得したとき、表現は自ずから変わってきます。作者はその場の再現だけに専念するようになるのです。
感動は表現された場面が全て担ってくれると、作者は充分に承知しています。ですから、A+Bの表現に委ねきって泰然としていられるのです。それは、ある種の潔さ、爽やかさを読者に与えます。客観俳句とは、主観表現は不要と作者が得心した時に生まれる、究極の表現手法といえるのではないでしょうか。
春耕や御陵の空に鳶の声 廣瀬キミヨ
しぐるるや越の国より刃物売 根尾 延子
春愁や鼻の削げたる兵馬傭 荒木 有隣
補虫網朝のあいさつして通る 矢野 あや
八十四、客観写生の利点
今回は、客観写生の利点について考えてみたいと思います。でもその前に主観表現が陥りやすい陥穽について考えてみましょう。それに陥らずに済むのが、客観写生だからです。わたし自身もそうなのですが、感激しやすいタイプの人は、表現が主観的になりがちです。
主観的表現の特徴は、大きく誇張と饒舌ということがいえるのではないでしょうか。
拙句の具体例を上げてみます。
【原 句】満開と呼びたきほどの照紅葉 金子つとむ
【原 句】百人の声に浮きたる神輿かな 〃
【原 句】ちりちりと物乾く音石蕗の花 〃
冷静になって考えてみると、紅葉に対する措辞として満開はいかにも誇張ですし、浮く神輿やちりちりも、誇張や饒舌という感じがします。しかし、気分が昂揚して作句していると、なかなか気付かないものなのです。
最も致命的なのは、わずか十七音のなかでこれらの主観的な表現に音数を割いてしまうと、場の情景を描出することが難しくなるということです。
主観表現をしたくなるほど、作者はその場に感動しているわけですから、逆にいえば、場の再現に専念するだけで、場そのものもつ感動が伝わってくるはずなのです。
【推敲句】日に透くる苑の紅葉を満面に 金子つとむ
【推敲句】一噸の神輿を上ぐる声揃ふ 〃
【推敲句】石蕗咲くや日向に物の乾く音 〃
因みに、原句と推敲句の情報を比較してみますと、以下のようになります。(傍線は新情報)
満開・呼ぶ・照黄葉 → 日に透く・苑・紅葉・満面
百人・声・浮く・神輿 →一噸・神輿・上ぐ・声・揃ふ
ちりちり・物乾く音・石蕗→石蕗・日向・物乾く音
よく初心者に対して客観写生を薦めるのは、ものをよく見て主観的表現を避けることで、場の再現に必要な情報をたくさん盛り込むことができるからといえましょう。
わたしは、客観写生を学ぶことは、絵画でいえばデッサンを学ぶことだと考えています。絵画とおなじように、客観写生は、俳句の基礎といえるのではないでしょうか。
ピカソは、初め父親のルイスから絵の手ほどきを受けていましたが、息子の進歩の速さに驚いた父親は、ピカソが十三歳の時に自ら描くことを諦めたといわれています。
ピカソはそのときすでに写実画をマスターしていたのです。ピカソのその後の展開は、写実の基礎の上に成り立っているのではないでしょうか。
客観写生をマスターすることで、わたしたちもさまざまな表現にチャレンジできることと思います。
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