俳の森-俳論風エッセイ第42週
二百八十八、補完の三パターン
朝妻主宰(雲の峰)によれば、補完関係型の俳句には、三つのパターンがあるようです。例句をそれぞれ検討することで、補完関係型の俳句がどのような意図で作られるのかを見ていきたいと思います。
補完関係型の俳句では、一つの句文に表現上の不足があって、完結できていません。これを補うのがもう一つの句文ということになります。つまり何が不足しているかによって、三つのパターンが考えられるでしょう。
【主語を補完する場合】
寂しさにまた銅鑼打つや鹿火屋守 原 石鼎
神田川祭の中を流れけり 久保田万太郎
冬の水一枝の影も欺かず 中村草田男
限りなく降る雪何をもたらすや 西東 三鬼
【題目を補完する場合】
花園のごときそよぎや石ぼたん 片山由美子
【目的語を補完する場合】
箱を出る貌わすれめや雛二対 与謝 蕪村
各々の場合について、より詳しく見ていきましょう。主語を補完する場合は、不足のある句文の動詞の主体が明示されていません。ですから、
誰が打つのか→鹿火屋守が/何が流れるのか→神田川が/何が欺かないのか→冬の水が/何が何をもたらすのか→降る雪が
という関係になりましょう。これは、普通の会話でも、例えば待っている人がやっと現れたとき、「○○さん、やっと来たよ」などというのと同じではないかと思います。
作者は、述部に当たる部分を強調したかったのではないでしょうか。つまり、作者の最も伝えたいことは、この述部にあるということです。
次に、題目を補完する場合を見てみましょう。主語を補完する場合と異なるのは、動詞がないことです。そこで、掲句の句意は助詞『は』を補って、
石ぼたん(は)花園のごときそよぎ(だなあ)
となります。この石ぼたんとは、イソギンチャクのことです。作者は、イソギンチャクの動作を述べているのではなく、イソギンチャクの群れている様子を描写しているといえましょう。この場合も、『花園のごときそよぎや』が、作者がもっとも言いたかったことになりましょう。
最後に、目的語を補完する場合を見てみましょう。この句は、雛を取り出す時のときめきの句と言われていますが、そのときめきが先に立っているため、雛二対が後に置かれてしまったようです。『や』は反語で、忘れただろうか、いや忘れちゃいやしないのだなあとなります。
何を忘れやしないのか→雛二対を(その貌を)
二百八十九、思いと事実
わたしたちが俳句を作るのは、俳句を通して訴えたい何か、読者と共有したい何かがあるからでしょう。それは、わたしたちが感動と呼ぶものであったり、わたしたちの意志(思い)であったりします。しかし、それらは皆、目には見えないものです。
わたしたちは、感動を表現するための客観写生という方法を既に身に着けています。感動を惹起させた情景だけを描くことで、読者をその場面に居合わせる方法です。目に見える事実や行動を示すことで、目に見えないものを想起させる方法ともいえましょう。
一方、俳句表現には主観表現という方法もあります。作者の思いを直接打ち出すことで、読者の共感を得ようとするものです。読者の側に共感のベースが醸成されている場合には、うまくいくことが多いように思われます。
それでは、まず客観写生(客観表現)から見てみましょう。雲の峰諸作家の作品を取り上げます。
葛晒す桶に宇陀野の雲動く 渡辺 政子
海の日の与謝にはためく大漁旗 中川 晴美
笹鳴きや渾身で練る墨の玉 吉村 征子
これらの句では、作者は感動を受け取った場面を丁寧に描くことに徹しているように思われます。自分が感動を受け止めた場面に読者を引き入れ、自分と同じような感動を覚えてもらおうとしているように見受けられるのです。
そして、それを達成するために最大の働きをしているのが、季語ではないかと思います。作者の思いは全て季語の情趣に代弁させているといっても過言ではないでしょう。それゆえ、ことさら思いを述べ立てる必要がないともいえるのではないでしょうか。
次に、主観表現の例を見てみましょう。
夏草や兵どもが夢の跡 松尾 芭蕉
目に見える夏草に対し、〈兵どもが夢の跡〉は、作者の感慨といえましょう。芭蕉さんが表現しようとしたのは、あるいは無常観といったものかもしれません。
〈兵どもが夢の跡〉といった個人の感慨が支持されるのは、それが普遍性を獲得しているからだと思われます。このように、共感の母体が既にある場合、主観表現であっても広く支持されるのではないかと思われます。
わたしたちに馴染みの深い一茶の晩年の作品群も、その共感の母体をもっています。
やれ打つな蠅が手をすり足をする 小林 一茶
是がまあ終の栖か雪五尺 〃
一茶の口吻そのままのようでもありますが、背景には、庶民感覚というべきものが厳然と横たわっており、それが共感の母体となっていると思われます。
二百九十、いい句ということ
以前に俳句は、作者にとっての季語体験を詠むものだと述べました。もしそうだするなら、一句のなかの季語は、作者によって体験され発見された季語ということになります。私見ですが、わたしは、いい句というのは『季語のもつ情趣のなかに、読者が引き込まれていくような句』だと考えています。この体験が読者に、季語が動かないという確信を抱かせるのではないかと思うのです。
さて、わたしは、フェースブックでも俳句を楽しんでいますが、初心者から寄せられた添削希望の句のなかに次の句がありました。一句のなかにどんな季語を置くべきなのかということについて触れたコメントをご紹介したいと思います。(以下、フェースブックより再掲)
ファミレスは卒業式の親子連れ アキヒロ(添削希望)
掲句は、五七五の俳句の形になっていますし、季語は卒業式で、句として整っていると思います。意味は、ファミレスは卒業式(帰り)の親子連れでいっぱいだ。(賑わっている)ということかと思います。
このままでもいいのですが、この句の問題点は、やはり季語の卒業式ではないかと思います。掲句を拝見して気づいたのですが、この句は果たして卒業式のことを詠んでいるのかという疑問です。
この句を読んだ後に、読者は卒業式というものに思いを馳せるでしょうか。むしろ卒業式後の安堵感、あるいは卒業そのものを思うのではないでしょうか。
掲句から、卒業生の晴れやかな笑顔、親たちの祝福の姿が見えてきます。ファミレスでお祝いをしているのでしょう。ファミリーは家族ですから、その意味ではファミレスは、わたしたちの等身大の喜怒哀楽を表現するのに、とても相応しい場所のように思います。
ところで、季語の卒業には、副季語として卒業生(卒業子)、卒業式、卒業証書などがあります。そこで、添削ですが、原句を活かすなら、
卒業式帰りの親子ファミレスに(添削①)
卒業そのもの、あるいは、卒業子に焦点を当てると、
ファミレスに卒業祝ふ親子連れ(添削②)
ファミレスに声の大きな卒業子(添削③)
などとなりましょう。ご参考になれば幸いです。
このように、句を読んだ読者が、自分の体験に合わせて、知らずに季語の情趣に入り込んでしまうような句がいい句ではないかと思うのです。添削②は、子どもの卒業を祝う家族の情愛がテーマといえましょう。添削③は、文字通り卒業した子の、晴れ晴れとした心の内に焦点を当ててみました。
二百九十一、ことばにするということ
養老孟司さんのベストセラー「バカの壁」(新潮新書)にこんな一節があります。
一般に、情報は日々変化しつづけ、それを受け止める人間の方は変化しない、と思われがちです。情報は日替わりだが、自分は変わらない。自分にはいつも「個性」がある、という考え方です。しかし、これもまた、実はあべこべなのです。
すこし考えてみればわかりますが、私たちは日々変化しています。ヘラクレイトスは「万物は流転する」といいました。人間は寝ている間も含めて成長なり老化なりをしているのですから、変化しつづけています。(中略)
では逆に流転しないものは何か。実はそれが「情報」なのです。ヘラクレイトスはとっくに亡くなっていますが、彼の遺した言葉「万物は流転する」はギリシャ語で一言一句変わらぬまま、現代にまで残っている。
初めてこの文に接したとき、なかなか腑に落ちないままかなりの時間が経ってしまいました。ところが、芭蕉さんの作品を読んでいる時、成程と納得したのでした。わたしが、芭蕉さんの作品が読めるのは、芭蕉さんの遺した情報、つまり作品があるからだと・・・。
人は死んで名を残すということばがありますが、まさに歴史上の人物名は不変の情報といえましょう。こんなことを、あえて言い出したのは何故かというと、わたしたちは、無意識のうちに、ことばが残ることを願って、俳句を作っているのではないかとふと考えたからです。
現役時代のように予定で動いていると、今はいつもそのための準備時間ということになり、百%今に集中することができません。それが、定年後は予定がすっかりなくなったために、意識がいつも今ここに集中できるようになりました。すると、ヘラクレイトスのいう、万物は流転するという意味がよく分かるようになったのです。
以前わたしは、感動瞬時定着装置という詩のなかで、
季節のみなもとは/地球のスピード/地球は/秒速460mで自転し/秒速30kmで/公転する
と記しました。
流転する万物のひとときのきらめきを、やはり流転するわたしたちが捉えてことばとして刻印したもの、それが俳句なのではないでしょうか。そこには、いつも、無意識のうちに不変なものを求めるこころが働いているのではないかと思われます。
わたしたちが、いい句だなあと思うのは、流転する万物のきらめきに出会ったからではないでしょうか。
耕運機より黒土の迸る 三代川次郎
遥かより人に文字ある吉書かな 金子つとむ
二百九十二、感動の撞木で季語の鐘を撞く
わたしは以前、いい句というのは『季語のもつ情趣のなかに、読者が引き込まれていくような句のこと』だと述べました。これを比喩的に言うと、いい句というのは、感動という撞木で季語という鐘を撞くようなものだともいえましょう。
うまく撞くことができれは、鐘の音もその余韻も長く読者のもとにとどまることでありましょう。それでは、季語という鐘をつく撞木とは、どんなものなのでしょうか。それは、ことばによって的確に表現された、作者の感動そのものではないかと思われます。
それは、季語に出会った、あるいは季語を発見した作者の喜びです。それが、適切なことばを獲得することによって、撞木となりそれを動かす力ともなるのです。
これまでも何度も取り上げた名句と呼ばれる句には、この撞木に相当することばが埋め込まれています。かつてわたしが、共振語(季語と共振することば)と呼んだものがそれにあたります。
具体例をあげてみましょう。(下線部が共振語)
赤とんぼ鞍はずされし馬憩ふ 皆川 盤水
葛晒す桶に宇陀野の雲動く 渡辺 政子
生垣に乾く子の靴小鳥来る 高野 清風
理科室に滾るフラスコ春隣 酒井多加子
笹鳴や渾身に練る墨の玉 吉村 征子
海の日の与謝にはためく大漁旗 中川 晴美
赤とんぼと馬憩ふ、葛晒と雲動く、小鳥来ると子の靴、春隣とフラスコ、笹鳴と墨の玉、海の日と大漁旗は、それぞれ鐘と撞木の関係にあるのではないでしょうか。
作者は撞木に相当する情景から季語を強く意識した、作者にとっての季語を体感したのだといえましょう。その刻印として、これらのことばが、一句のなかに定着されたのではないでしょうか。
まるで、いつでも同じ音色を奏でる鐘のように、名句は、いつ読んでもわたしたちに感動を呼び起こしてくれます。それは、共振語という撞木が、読むたびに季語という鐘を打ち鳴らすからだといえるのではないでしょうか。
芋の露連山影を正しうす 飯田 蛇笏
冬の水一枝の影も欺かず 中村草田男
滝の上に水現れて落ちにけり 後藤 夜半
翅わつててんたう虫の飛びいづる 高野 素十
鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡 子規
鴨の嘴よりたらたらと春の泥 高浜 虚子
七夕や髪ぬれしまま人に逢ふ 橋本多佳子
摩天楼より新緑がパセリほど 鷹羽 狩行
二百九十三、書いてある以上のこと
統計をとったわけではありませんが、句会での選句を見ていると、誰も採っていないのに自分だけが特選にするということが、度々あります。俳句の情報量は季語の情報量に依存するものだというのが筆者の私見ですが、更にいえば、その情報量は誰のものかといえば、読者のものということになりましょう。読者の季語に対する知見の総量が、選句の鍵を握るといってもいいのではないでしょうか。
このように、選句には一句に表現されたことばに纏わる読者の知見、体験、実感の一切が関わってきます。読者の感性の全てが、一句を読み解くのだといえるでしょう。
あえて言えば、俳句というのは、作者によってスイッチを押されて展開する、読者の側の季語にまつわる感慨(あるいは物語)といった趣があるのではないでしょうか。俳句が面白いのは、書いてある以上のことを読者が勝手に読み解いてしまうからではないかと思われます。
勿論、そう読まれることを想定して作者は詠んでいるわけですが、どんな風に詠まれるのか、作者はある程度の予測はできても、全てを予測することはできません。つまり、俳句であれ、詩であれ、小説であれ、それが読まれるときは、全て読者本位なのです。『俳句は他選』というのもそういう状況を指しているものと思われます。
誰しも体験することですが、一句に強く惹かれる背景には、あることばに対する読者の思い入れや、読者のなかに作者と類似の体験があることなどがあげられるでしょう。これを少し普遍化すると、俳句は、日本という国に生まれて経験する季節体験を母体にしているのだといえるのではないでしょうか。この共通体験の象徴として、季語があるのではないかと思われます。
特選句を選ぶというのは、結果的に読者が作者に対してシンパシーを抱くことのように思われます。つまり、読者は作者のなかに自分自身を読み取っているのではないでしょうか。いつか筆者が、選句を『感性の握手』と称したのは、そのような意味からでした。
俳句に絶対的な評価尺度はあるのでしょうか。そのようなものは、初めからなかったのではないでしょうか。そのため、わたしたちは、信頼できる先生の選を参考にし、自らの選句眼を養っているのではないかと思われます。
選者によって選が異なるのも、句会などで互選形式をとるのも、俳句に絶対的な評価尺度が存在しないことの証左ではないかと思われます。
しかし、時間が経っても埋もれることのなかった、すばらしい作品は存在します。それを決めているのは、厳密にいえば、長い歳月だけなのかもしれません。
二百九十四、俳句と予定調和
このようなタイトルにしたのは、主宰の直接指導の句会で、わたしが特選に選んだ次の句を主宰が予定調和的と評されたからでした。
永き日や定時退社で映画見に 三澤 福泉
予定調和というのは聴きなれないことばですが、その意味は、当然そうなるとか、予めそうなると予想されるものがそうなったということで、簡単にいえば、新鮮味に欠けるというようなことかと思います。掲句は、わたし以外は誰も取らなかったので、多くの人にとっては、当たり前のことのように感じられたのだろうと思います。
普段に定時退社して映画を見に行くということをされている方であれば、これを殊更新鮮には感じないだろうと思います。しかし、わたしは違ったのです。わたしは、定時退社をして映画を見にいった経験がないのです。ですから、掲句をとても新鮮に受け止めたのでした。多くの人が受け止めた句意は、おそらく以下のようなものであったと思われます。
① 日が永くなったので、定時退社して映画にでもいくか。
それに反して、わたしは、次のように読んだのでした。
② 日が永くなったなあ。仕事も一段落したから、今日は思い切って定時退社して、映画にでもいくか。
わたしにとって映画を見に行くということは、永き日が誘発した思いもよらない出来事に思えたのでした。
ところで、俳句が季語発見のプロセスを描写するものだとすれば、季語発見は、作者にとっての感動体験そのものといえましょう。感動とは、本来予測できないものですから、それを描く俳句とは、予測可能なことがらとは無縁のはずです。
理屈の勝った句が疎まれるのも、同じ理由によるものと思われます。予定調和というのもいわば理屈に近いもので、誰でもそうするということであれば、嫌われるのも致し方ないことでしょう。
もし、掲句が次のような句であったら、わたしも取らなかったでしょう。
永き日に定時退社で映画見に
何故なら、永き日にというのは理屈であって、作者の季語体験の感動を認めることができないからです。しかし、掲句は〈永き日や〉だったのです。普段は定時退社などめったにしない人が感じた〈永き日や〉なのです。
俳句を読むということは、十七音を契機として、読者のなかにその世界を再構築することだと思います。そこでは、作者の体験ではなく、読者の体験が優先されます。〈定時退社で映画見に〉というフレーズの鮮度を決めているのは、個々の読者の体験ということになるのです。
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