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俳の森-俳論風エッセイ第9週

五十七、表現の不足を補う


大須賀乙字が指摘するように、自分の句がすぐれて見えるのは、その句の情景に対して作者は全てを知っているからといえるでしょう。作者がしてしまう最大の過ちは、その句の詩情が純粋に句そのものからくるものなのか、一句に自分だけが知っている情報を加えた結果としてくるものかを混同してしまうことにあります。

特に俳句が、情景を読者に提示することによって成り立つものだとすれば、読者が情景を描くための情報が十分に提供できないと、詩情そのものが伝わらないことになります。俳句にとって情報の不足は深刻な問題なのです。

そこで作者の心構えとしては、自作には何らかの情報不足があるはずだという風に考えておくのがいいように思われます。特に作者の感動が大きいほど、直接的な感動表現が一句のなかに居座ります。例えば、

吾が肩に暫く止まる蜻蛉かな       金子つとむ
作者の感動が大きければ大きいほど、主観の出過ぎたひとりよがりの句になりがちです。しかし、感動の大きい句は原石のようなもので、力の在る句になる可能性を秘めています。原句から分かるのは、作者の肩に蜻蛉が止まったということだけです。
冷静になって考えてみると必要なことばは、「肩に」と「蜻蛉」だけではないでしょうか。つまり、掲句は「肩に蜻蛉」といっているにすぎないのです。

とんぼうを肩に谷地田の空仰ぐ       推敲例
そこで、不要になったことばの文字数分を、場所の提示や情景描写に置き換えたのが推敲例です。堀口大学は「わが詩法」のなかで、「言葉は浅く、意(こころ)は深く」と述べているそうです。ほんとうに感動していることはさりげなく言う、それが相手に伝えるこつのようです。
情景が見えるように描くことは、その場を立体的に空間として再現することにつながります。それは、そのまま、読者も俳句のもつ詩的空間に入ることを意味します。そして、直に共感を得ることができるのです。

自分は、いわば神の視点で作句している。だから、一句には表現上の不足があるはずだと思って眺めてみると、案外気付かなかった欠点が見えてくるかも知れません。特に場所や時間に関する情報はある程度季語が代弁してくれますが、先にあげた例句のように、場所を描かないと句意が伝わりにくくなる場合もあるでしょう。また、慣用句や不要なことばが多用されると、たるみのある句として、句としての力強さ、美しさを欠く結果となります。
特に自信作ほど、注意が必要といえそうです。


五十八、叙述と提示


これまでにも何度か散文と俳句の違いを、叙述と提示ということばで述べてきましたが、より具体的に見ていきたいと思います。まずは、散文の例です。

谷地田の畦を歩いているときのことであった。とんぼのむれが、ちらちらと秋の光を受けて輝いている。すると、どうしたものか、そのなかの一つがわたしの右肩に止った。わたしは、まるで子どものように誇らしい気がした。そして、とんぼを止らせて歩くのも悪くないと思ったのである。その時、ふいにもう何十年も忘れていた記憶が甦ってきた。こどものころ、よく蜻蛉を止らせて歩いたっけ・・・。
わたしは、変わらぬとんぼの時間と、年老いてしまった自分の時間を思った。そして、とんぼを肩にしたまま、いつまでも谷地田の空を見上げていた。

提示ということをぶっきらぼうに言えば、経緯を飛び越えて、結論だけをいうことだと言ってもいいでしょう。この散文を句にしたものが、前項でも取り上げた次の句です。
とんぼうを肩に谷地田の空仰ぐ      金子つとむ
肩にとんぼを止らせたまま、作者はどんな気持ちで谷地田の空を見上げたのか。作者のこころのうちが、一句のなかで直接明かされることはありません。それは、いわば謎のようなものとして、読者に手渡されます。

しかし、読者は、この景から作者の心情を推し量ることができます。読者もまた、とんぼに対して似たような季語体験をもっているからです。
この謎を詩情あるいは余情とよんでもいいでしょう。そうです、提示とは、全てを語ることではなく、結論のみを提示することで、結果的に謎を残すことなのです。俳句という限られた文字数のなかで全てを語ることなど到底できない相談です。ですから、俳句は説明を放棄することで、逆説的に直観してもらう方法を採っているのです。

もし太字部の作者の気持ちを敢て句にすると、
誇らしく蜻蛉を肩に谷地田ゆく      作句例
などとなります。このように作者の心情が明かされてしまうと、読者はその景に参加しにくくなるのではないでしょうか。詩情を一語で表すことはできません。それを敢て、「誇らしく」の一語に代表させてしまえば、共感の門を狭めてしまいます。つまり、「誇らしく」はそれに賛同できる読者とそうでない読者を選別してしまうのです。
これは、句から詩情が締め出された状態といってもいいでしょう。客観写生句では、心情を明かさないことで、一句に詩情という謎を残します。そして、その謎を解く鍵を、予め句のなかに用意しておくのです。詩情は読者の数だけあるのですから・・・。


五十九、擬音語・擬態語の成功例


わざわざ表記のタイトルとしたのには訳があります。それは、擬音語・擬態語の成功例は、極めて少ないからです。その理由は、擬音語・擬態語もまた作者の主観表現だからだと思われます。
例えば、「雨がざあざあ降る」や「雨がしとしと降る」の「ざあざあ」や「しとしと」は擬音語ですが、いくつもの言い方があるなかで、ざあざあもしくはしとしと感じたのは作者の主観ということになります。つれない言い方をすれば、雨はただ降っているだけなのです。いいえ、俳句表現では、降るさえ省略して、雨というだけでいいのです。

特に「と」をつけると五音になる擬音語・擬態語は使い勝手がいいため安易に使いがちですが、それが読者に伝わるためには、その擬音語・擬態語でなくてはならないだけの必然性が求められるように思われます。擬音語・擬態語がいけないわけではありませんが、このような主観表現に五文字もとられることは、一句の情景描写に不足をきたすことになりかねません。

以下の推敲例では、擬音語・擬態語を他のことばに置き換えることで、情景描写の不足を補っています。
もそもそと天道虫の速さかな       金子つとむ
腕を這ふ天道虫の速さかな        推敲例
くろぐろと相馬郡の春田かな       金子つとむ
梳かれたる黒土光る春田かな       推敲例

「もそもそと」の代わりに情景描写を追加し、「くろぐろと」の代わりに、春田打のあとの黒土に焦点をあてて描写しました。「くろぐろと」は、黒土の黒で表現しています。

以下に、擬音語・擬態語の成功例をご紹介します。
雉子の眸のかうかうとして売られけり   加藤 楸邨
松茸の椀のつつつと動きけり       鈴木 鷹夫
ひらひらと月光降りぬ貝割菜       川端 茅舎
鳥わたるこきこきこきと罐切れば     秋元不死男

一句目は、撃たれて食用に供される雉の眸でしょうか。死んでなお、その眸は「かうかう」と輝いているというのです。作者はそこに、雉子の気高さのようなものを見ていたのかも知れません。
二句目、椀の底が濡れていて、滑るように少し動いたのでしょう。「つつつ」が言い得て妙です。
三句目、月光を「ひらひら」と表現しました。これは、作者の独自の視点といってもいいものです。まるで貝割菜に月光が降り積もっていくような幻想的な光景です。
四句目、缶切で缶詰を開けて、これから質素な食事を摂るのでしょうか。「こきこきこきと」に、蹲って缶をあける作者の後ろ姿が彷彿としてきます。「鳥わたる」が、作者の孤影をひきたたせています。


六十、俳句は誰のものか


この問いかけはナンセンスでしょうか。俳句は作者が作っているのだから、作者のものに決まっているじゃないか・・・と。実はわたしも長い間、俳句は自分のものであると思ってきました。ところがつい最近になって、かすかな疑念が生まれました。俳句はほんとうに作者のものなのか。ひょっとしたら読者のものではないのか。

極端な例を示しましょう。まず、俳句は自分のものだと仮定してみます。俳句は自分だけがわかればいいと。すると、俳句は自分だけがわかるこころのメモのようなものになります。それを見せられても、読者にはちんぷんかんぷんです。いや、その前に、他人に見せようなどと作者は思わないでしょう。
見霽かす刈田の果てに、とびっきり美しい入り日をみたなら、わたしなら、「刈田の果ての入り日、おりしも雲の切れ間から雫のように落ちてくる。玉のような完璧な美しさ。」などと手放しの措辞を並べるかも知れません。メモならいっこうに差し支えないわけです。
そして、作句例としては、次のような句でもいいわけです。
とびきりの刈田の果ての入り日かな    金子つとむ
一方、こんどは逆に俳句は他人のものだと仮定してみます。とびっきり美しい入り日をそのまま表現しても、誰もわかってくれないのではないか。当然そんな疑念が浮かんできます。そこで、わたしたちは、どうしたらわかってもらえるか、智慧を絞るのです。そして俳句では、自分が感動した場面だけを構成して表現するのです。そこには、どんなことばが必要でしょうか。
相手に分かってもらうには、5W1Hのうち、WHY(何故)以外は、何らかのかたちで提供する必要があります。WHY(何故)はいわば作者のこころのうちで、詩情と密接に結びついており、余韻、余情のためには明かさないものだからです。そう考えると、
いつ→夕(入り日)/どこで→刈田道/だれが→わたし(省略)/なにを→入り日をずっとみていた/なぜ→意識的に省略(とびっきり美しかったので)/どのように→珠のようだと思って
などとなります。そしてこれを句にすると、
入り日いま玉の如しや刈田道       金子つとむ

ここで、改めて最初の問いに戻ってみましょう。自分のものだと思えば、自分の知っている情報は割愛され、自分の心情が表にでてきがちです。読者のものだと思えば、読者の理解がとどくように場面を設定することを心がけるようになります。作句の姿勢としては、読者のものと考えておくほうが、より多くの支持を得られるように思うのですが、いかがでしょうか。


六十一、理屈を回避する


俳句に因果関係を示すことばが入ってしまうと、途端に理屈っぽくなり、散文的になります。拙作から、原句と推敲句をご紹介します。傍線が理屈の箇所です。作句時にはなかなか気づかないので注意が必要です。
【原 句】よく晴れてけふの雲雀の高さかな
【推敲句】晴天のけふの雲雀の高さかな
【原 句】夕焼けて影の長さを子と競ふ
【推敲句】子と競ふ影の長さや大夕焼
【原 句】高きほど大きく開く花火かな
【推敲句】大輪の高きに開く花火かな
【原 句】丈のびて水面隠るる青田かな
【推敲句】いつのまに水面隠るる青田かな
【原 句】止まれば葉擦れ清けき青田かな
【推敲句】夕づきて葉擦れ清けき青田かな
【原 句】風の野に屈めば温し犬ふぐり
【推敲句】風の野に屈みて愛づる犬ふぐり

このように、「~て」、「~ほど」、「~ば」などは、理屈を構成しやすいことばのように思います。逆にこれらのことばを使っても成功する例はあるのでしょうか。
人入つて門のこりたる暮春かな      芝 不器男
滝の上に水現われて落ちにけり      後藤 夜半
雉子の眸のかうかうとして売られけり   加藤 楸邨
夢の世に葱を作りて寂しさよ       永田 耕衣

ここで使われている「て」は、因果関係というより、作者の発見に彩られています。大きく立ち現れた暮春の門、現れては落ちる滝の水、死して尚、眸をこうこうとして売られていく雉子のあわれ、葱をつくりてにつながる寂しさのなかには、けだるさ、やるせなさ、哀しさなどが入り混じっているように思われます。これらの「て」に続くことばは、理屈によって導かれたわけではないのです。

佐渡ケ島ほどに布団を離しけり      櫂 未知子
佐渡ケ島ほどに布団を離すのは、夫婦喧嘩のあとでしょうか。ユーモアに溢れています。
とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな    中村 汀女
愁ひつつ岡にのぼれば花いばら      与謝 蕪村
鳥わたるこきこきこきと罐切れば     秋元不死男
ちるさくら海あをければ海へちる     高屋 窓秋

これらの句にも、理屈ではない何ものかが表現されています。とどまれば蜻蛉がふえ、岡にのぼれば花いばらがあり、罐をきれば鳥がわたり、さくらは海があおければ海へちるのです。これらは、理屈ではなく作者の心情が捕まえた詩情といってもいいでしょう。

このように、「~て」、「~ほど」、「~ば」が理屈を超えて使われるとき、句は成功するように思われます。


六十二、客観的アプローチと主観的アプローチ


いわくいいがたい詩情を感じたとき、それを表現する方法として二つの方法があるように思います。一つ目は、詩情を感じた情景を句のなかで再現することで、読者に共感してもらう方法です。例えば、
人入つて門のこりたる暮春かな      芝 不器男
掲句では残された門をクローズアップすることで、暮春の情を表現しているといえるでしょう。この門が大きな山門のように思えるのはわたしだけでしょうか。「門のこる」に作者のゆるぎない把握があるように思われます。しかし、表現のトーンとしはあくまで静かで、暮春の情に寄り添っているように思われます。

二つ目は、作者が感じたことを直裁に表現するやりかたです。
冬の水一枝の影も欺かず         中村草田男
この句の「欺かず」は、実景のなかから作者が掴み取ってきたことばです。枯木の影を余さず映す冬の水に、作者は自分の影をも投影していたのではないでしょうか。「欺かず」は冬の水を擬人化した表現で、作者のこころのうちを色濃く反映しているように思われます。読者によっては、「欺かず」という強い言い方に抵抗を感ずる場合もあるかもしれません。

さて、前者を客観的アプローチとすれば、後者は主観的アプローチといえるでしょう。この二つの方法に優劣をつけることはできません。むしろ、作者が感じたものを的確に表現するために、いずれかの方法が採用されているに過ぎないのです。「門のこる」も、「欺かず」もともに作者のゆるぎない認識からでたことばなのです。

このようなことばを、わたしは感動の核心を荷うことばという意味で共振語と呼んでいるわけです。ですから、すべての推敲は共振語を発見するためにあるのだと考えています。
ととまればあたりにふゆる蜻蛉かな    中村 汀女
をりとりてはらりとおもきすすきかな   飯田 蛇笏

掲句の「ふゆる」も、「はらりとおもき」も、情景をぴたりと言い当て、景をすっきりと想起させることばだといえましょう。それは、何かを説明するのではなく、いいたいことの核心を鷲づかみにしたようなことばです。
散文では、核心に向かって外側からことばを繰り出していくのに対し、俳句では、核心の内側から最適なことばを掴みとってくるのです。

これらのことばによって、作者は単刀直入に伝えたいことを伝えられるのです。いい俳句とは、すっとわかる、ぐっとくる俳句だといえるのではないでしょうか。


六十三、感情と表現の統一


宇野千代さんの金言集ともいうべき「幸福の法則 一日一言」(海竜社)を読んでいて、次のようなことばに出会いました。
言葉は言葉を引き出す。前の言葉があとの言葉も引き出す。その自分の言葉でもっと興奮したり、腹を立てたり、もっと深く傷ついたりする。言葉が先に立って感情を支配する。(太字筆者)

最後のことばを読んだとき、ふと俳句でも同じようなことがいえるのでないかと思ったのです。「言葉が先に立って感情を支配する。」、もとより宇野さんのことばは、諍いの場面でのことですが、五七五の発話の時点でも、ことばと感情は相互に依存しあうのではないかと考えたのです。

つまり、ある感動を表現するのに、それに相応しいことばや配列があるように、あることばの配列が感動を呼び覚ますのではないか。俳句を推敲している最中に、意味はほぼ変わらないことをいっているのに、まだ何かしっくりこないということがあります。このしっくりの意味は、そのときの感情をのせるのに、まだ表現に違和感があるということではないでしょうか。
以前に芭蕉の「舌頭に千転せよ」ということばを取り上げましたが、あれはことばと感情の融合を図るための手立てだったのではないでしょうか。

「俳句はだれのものか」の項で紹介した次の句は、実は決定稿までに十五回の推敲をしています。言うべき内容、使うべきことばはほぼ決まっていても、そこには無数の表現がありうるからです。そのいくつかをご紹介します。

沈むまで入り日を拝す刈田道       金子つとむ
歩を止めて珠の入り日を刈田道      〃
入り日いま玉の如しや刈田道       〃

最後の句を決定稿としたのは、それが、刈田道をきて入り日に立ち止まった瞬間を言いとめたように思えたからです。それまでは、単に情景をなぞるだけだったのが、最後の句で、そのときの感情とことばが一致したように思えたのです。その最大の理由は、「入り日いま」という上五を得たことにあります。「入り日いま」に、感動の瞬間が凝縮されたように思えたのです。

もちろんこれは、作者の内的な話であって他者の評価とは一切関係ないことです。しかし、一句のちからということを考えたとき、感情と表現が統一されてこそ、はじめて共感を得られるものだと思うのです。そのための手掛かりは、句のしっくり感なのではないでしょうか。


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