俳の森-俳論風エッセイ第14週
九十二、俳句は他選
俳句は詩であり、作者の見つけた詩情はとても感覚的なものですから、読者がそれを読み解き、最終的に共感できるか否かは、読者の感性に委ねられているといっていいでしょう。簡単にいってしまえば、ピンとくるか、こないかということです。
八木重吉に次のような詩があります。
『素朴な琴』
このあかるさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋のうつくしさに耐えかねて
琴はしずかに鳴り出すだろう
ここで、秋のあかるさを作者の感性とすれば、しずかに鳴り出す素朴な琴は、読者の感性ということになるでしょう。俳句を享受する構造とは、まさにこのような感性コミュニケーションとでも呼べるようなものなのではないでしょうか。
そこで、わたしが危惧するのは、作者が独自の感覚世界を表現しようとすればするほど、共鳴者は減少してしまうのではないかということです。読者にとって全く未経験の場面が提示されたとき、果たして共感することができるのでしょうか。
鳥好きのわたしが、自分が感動した場面を詠んでしまうと、どうしてもマニアックになり、読者にとって未経験の場面になってしまいがちです。しかしだからといって読者に迎合したのでは、自己の表現にはなりません。
そこで、どこかで、俳句は他選なのだとひらき直ることになります。この開き直りは、入選の一喜一憂からわたしたちを解放します。
自分が感動の全過程を知っているという意味で全能者である以上、自分の句を他者の眼でみることは不可能です。
ましてや、他者の感性を自分のものとすることなどできるわけがないのです。そうすると、作者はどこまでも自分の表現に突き進むしかないということになります。
自分でも判断が可能なのは、自分の過去の作品と現在の作品の比較だけです。自分の句が他者からどう思われるかなど、始から分かりようがないのです。
だからこそ、自分の句を分かってくれる感性に出会うと、わたしたちは喜びます。わたしたちの感性が大喜びしているのです。それはまるで、探し求めていた恋人に出会えたかのように・・・。
綿虫が着信音とすれちがふ 佳子
九十三、大きな謎
俳句が作者の自己表現だとするなら、作者が自分自身を表現すればするほど、読者にとっては大きな謎となって現れるのではないでしょうか。
俳句の楽しさは、作者がしかけた謎を解く楽しさといってもいいでしょう。何故なら、俳句では、作者が詩情を感じた場面が散発的に提示されるだけで、その間を埋めるのは読者自身だからです。
例えば、次のような二物衝撃の句は、句文どうしの取り合わせに大いなる謎を秘めているといっていいでしょう。
冬ざれや道に電柱抜きし穴 桑島 啓司
冬ざれと電柱を抜いた穴は、何故一句をなしているのでしょうか。それを繋いだのは、作者の感性です。何故だかよくわからないという思いが、読者をこの句に立ち止まらせます。そうして、冬ざれの道に電柱の抜かれた穴をありありと想像してみるのです。
電柱を抜いた穴は、直径三十センチ、深さは三メートルほどでしょうか。何故埋め戻されずにあるのでしょうか。古くなって、新しい電柱に取り替える合間に見たのでしょうか。冬ざれの野を通ってやってくる電気。それを支えている電柱。あるはずのものがないその穴は、何かの欠落を意味しているのでしょうか。
しかし、別の見方をすれば、そこには、瑞々しい土の色が覗いているかもしれません。冬ざれの表面とは裏腹に、温もりのある大地の内部が、垣間見えていたともいえます。
ここでは電柱の穴は、冬ざれという風景に新たな視点を注入する契機のようなものだともいえるでしょう。これらの詩情は、もちろん一言で言い表すことはできないでしょう。ただ、電柱の穴から溢れ出た一切が、詩情ということになるのではないでしょうか。
この句の解釈に正解というものはありません。作者が提示したものを、読者は感じるだけでいいのではないかと思います。一句を読むことで、このような感慨にふけったということ、それこそが一句の力といえましょう。
作者がかけた謎を読者が読み解く。その証が、選句ということになります。選句されて作者が嬉しいように、選句できて読者も嬉しいのです。選句とは、感性によるコミュニケーションが成立した瞬間なのですから・・・。
俳句を読み解くには、ことばの意味を知っているだけでは不十分で、ことばのニュアンスを知り、「てにをは」の違いが及ぼす影響についても熟知していなければなりません。つまり、日本語のプロフェッショナルになるということです。もう一つ謎多き句を。
鰯雲人に告ぐべきことならず 加藤 楸邨
九十四、映像詩
俳句は映像詩ということがストンと腑に落ちると、描きたい場面が読者にとってイメージし易いかを考えて作句できるようになります。俳句の目的が詩情を相手につたえることだとするならば、そのためには、作者が感動した場面をそのまま相手に手渡すしかないからです。
しかし、そのとき、作者の感動はどこにあるのでしょうか。作句動機となった作者の感動すなわち詩情は、その場面である誌的空間のなかに充満しているといえましょう。優れた作家は、
・この場面は、自分がいいたいことの全てだろうか。
・この描写で、読者に場面がつたわるだろうか。
ということを、常に自分自身に問いかけているのではないでしょうか。
映像詩に徹していくと、場面の再現に必要なことばは何か、不要なことばは何かということが当然問われることになります。Aということばを追加したいなら、Bということばを削るしかありません。このような作句プロセスは、ほんとうに言いたいことの核心へと作者を誘い、結果としてことばどうしの関係を緊密にさせていくことでしょう。
わたしたちは、まず季語に内在することばを取り除くことができます。そうすることで、逆に季語が働きだします。
また、ことばの持つ意味を正確に理解し、正しく使うことで、意味の重複を避けることもできます。一つ一つのことばが他と重複することなく使用されるとき、そのことばは十全に働いているといえるでしょう。
その際、主観的なことばは、場面の構築には無関係のため、不採用になるでしょう。その分、情景描写により多くのことばを割くことができます。
しかし、そのように、場面の描写を試みたところで、たった十七音で充分な成果を得ることは難しいでしょう。そこで、最後に残るのは、読者に対する信頼とことばに対する信頼ということになります。
わたしたちの五感は、普遍性をもっています。「頬張る」といえば、多くの読者は同じような感覚をもつことができます。作者としてできるぎりぎりのところまで表現を工夫した上で、あとは、この読者のもつ感性と、ことばの伝達力に一切を委ねることになるのです。
俳句は、ことばの映像喚起力によって、詩情を伝達する映像詩なのだといえましょう。どこまで描けば、思い通り伝わるのか、その勘所を知ることはとても難しいことです。
句会には、選句という読者のフィードバックがあります。思いの他得点できなかった句の情景描写を確認することで、少しずつ会得していくしかないもののようです。
九十五、外的アプローチと内的アプローチ
感動の現場を詩的空間として再現する方法として、二つの方法が考えられます。一つは外的アプローチ、いまひとつは内的アプローチです。
外的アプローチとは、文字通りその場面を、外側からの視点で切り取る方法です。写生句はこの方法によるといっていいでしょう。外的アプローチには、特別なことばは必要ありません。
むしろ、読者にとってわかりやすい、受け入れ可能な表現を目指します。ここでは、極端な主観の表出は避けなければいけません。なぜなら、読者にとって、作者のあからさまな主観の表出ほど受け入れ難いものはないからです。
千体の仏に灯り地蔵盆 瀧本 和子
指されゐて見えぬ高さを鷹渡る 淺川 正
蝋梅や堆肥蹴散らす放ち鶏 三澤 福泉
夏めくやはち切れさうな妊婦服 井村 啓子
さみだれや鋤簾引きゐる舟の影 木村てる代
しやぼん玉雷門をくぐりけり 山田 弘子
敬老の席より埋まる運動会 中野 智子
初秋や和紙で束ねる巫女の髪 酒井多加子
これらの句では、読者は作者が提示した景のなかに静かに入っていき、作者と同じ時間を共有するような趣があります。作者とともに、その景を眼前にするのです。以心伝心、両者は詩情を共有しているといえましょう。
もう一つの内的アプローチは、描きたいことの本質を鷲づかみにしたようなことばによって、一句を統べる方法です。外的アプローチに比べ、ややストレートで荒々しい方法ともいえましょう。しかし、作者の表現欲を満たし、読者を虜にする方法です。
花束のやうに白菜抱え来る 上市 良子
翡翠の一閃水をみだしたる 三代川次郎
空蝉やあの世へ鳴らす鐘の音 宮永 順子
鳥帰る空の一角伸びてゆく 山田 弘子
月ヶ瀬の風の硬さや梅見酒 高野 清風
はてしなき空を味方に稲雀 高野美佐子
そのうちに何かにはなる毛糸編む 岡田万壽美
柔らかき津軽なまりや鳳仙花 久田 青籐
これらの句を受け入れた瞬間に、読者は作者の主観を肯うことになります。作者の的確な監察力、そのゆるぎない認識力に共感せざるを得ないからです。
作者が、作句現場から詩情を受けとった場合は前者に、その場で新たな認識を得た場合は、後者の方法に拠るものと思われます。どちらのアプローチを選択するにせよ、詩情の表現手段ということでは変わりはないのです。
九十六、作者のテンション、読者のテンション
作者は作句現場について全てを知っているということに加えて、作句時の作者は、精神的な昂揚状態にあるといえます。このハイテンションが、自分の句をこの上もなくすばらしいと錯覚させてしまうのです。
こんな風に述べると身も蓋もないように思われるかもしれませんが、このロジックに気づくと、自分の句を客観的に見つめる余裕がでてきます。作句時のハイテンションは、恋する気分とよく似ています。あばたも笑窪で、欠点すらよく見えてしまうのです。
それに対して、読者はいつも冷静な第三者、つまりローテンションの状態にあるといえるでしょう。ひとつの句が読者を共感させるということは、この状態をして、ハイテンションもしくは少なくともミドルテンションあたりまで昂揚させることを意味しています。それも、ことばのちからだけで・・・。
比喩的にいえば、ことばの海のなかから一句に振り向かせ、その世界に没入させ、精神的な昂揚までもっていく、それが句のもつ力といえるでしょう。
ことばの海に漂う十七音の一塊が、他とは違うと思わせなければ何ごとも始まりません。
五七五であること、切れていること、ことばどうしが緊密に関係しあって美しいこと、「おやこれはちょっと違うぞ」と思わせることが必要なのです。
五七五であるというただそれだけで、読者は俳句として読み解いてくれます。そこでは、普段聞き流していたことばに、読者の方から立ち止まってくれるのです。
そして、読みすすめていくうちに、湧き上がってくる詩情が、読者をハイテンションへと導いていくのです。すっとわかる・ぐっとくるというのは、そういうことなのです。
自分の好きな句を思い浮かべてみると、これまで述べてきたことに合点がいくのではないでしょうか。
時間をおいて自分の句を見直したとき、さほどの句でもないなと感じてしまうのは、テンションが通常に戻っているからだといえましょう。
このように、たった十七音が読者にもたらすものは、作者と同じハイテンションといえましょう。それが共感ということの中身です。たった、十七音のことばに、それだけのちからがあるのです。まさに、「たかが俳句、されど俳句」なのではないでしょうか。
芋の露連山影を正しうす 飯田 蛇笏
九十七、漢字とひらがな
漢字は象形文字ですので、映像喚起力に優れているといえます。それに対し、ひらがなは表音文字ですから、文字自体には映像喚起力はありませんが、一句全体を眺めたとき、漢字とひらがなのバランスから、窮屈な感じをやわらげる働きがあるように思われます。
さて、俳句は映像詩ということでいえば、漢字の映像喚起力を利用しない手はありませんが、俳句のなかには、ひらがなのみで表記されたものもあります。
これらの句の表現意図を探ることで、ひらがなと漢字の使い分けについて考えてみたいと思います。
ひらがな表記で思い出すのは、飯田蛇笏の句です。
をりとりてはらりとおもきすすきかな 飯田 蛇笏
試みに、漢字表記にしたものと比較してみると、
① 折り取りてはらりと重き芒かな
② をりとりてはらりとおもきすすきかな
①では折る、取る、重き、芒などの漢字が視覚的に意味を固定化し、句意をいちはやく特定するように働いています。
それに引き換え、②では視覚からくる印象は薄れて、読者は一字一字を追っていくうちに、後から意味が立ち上がってくるような印象を受けるのではないでしょうか。
作者の狙いは、まさに意味の特定を遅らすことにあったのではないでしょうか。掲句は、作者が体験した通り、時系列になっています。
そうすることで、読者は、作者と同じようにこの句を追体験できるのです。そして、読者もまた「はらりおもき」をその手に実感するのです。このことばは、それが意図せぬ出来事であったことを如実に伝えています。
一方、漢字ばかりの句もあります。
山又山山桜又山桜 阿波野青畝
山桜の山を含めると、山が四文字、又が二文字、桜が二文字の計八文字で構成されています。ひらがながないため、これらの山は視覚的にたたなずく山々を想起させます。そこに数の上でも僅か二文字の桜が点景のように散りばめられています。
景のなかから他の一切を排除することで、山桜がみごとに浮びあがってくる仕掛けです。掲句には、文字で書かれた絵画のような趣さえ感じることができるでしょう。象形文字としての漢字の力を存分に引き出した作品といえるのではないでしょうか。
俳句はまず視覚から入ってきます。これらの句はそのことを熟知したうえで、作られているといっていいでしょう。映像詩としての俳句には、映像喚起力に富む漢字の力を活用するという選択と、ひらがなによって、映像化をあえて遅らすという選択の二つがあるのです。
九十八、子規の疑問―筆まかせ抄より
子規は、筆まかせ抄(岩波文庫)の古池の吟のなかで、芭蕉と心敬僧都の句を比較して、次のように述べています。
古池や蛙飛びこむ水の音 松尾 芭蕉
散る花の音聞く程の深山かな 心 敬
同じ意味なれどもどちらが、優れりや劣れりや知らず、さりながら心敬の句には、「程の」という字ありて芭蕉には此の如き字なし、これあるいは芭蕉の方まさりたる処ならんか、しかし趣向は心敬のもなかなか凡ならず。決して芭蕉のに劣るべくも思われず、いで生意気にも理論的に改め見んと色々に工夫したる末・・・(中略)
こうして、子規は添削を繰り返し、
散る花の音を聞きたる深山かな
としてみますが、芭蕉の句には聞くという文字のないことに気づき、さらに芭蕉に倣って、
奥山やはらはらと散る花の音
と添削しています。しかし、これも気に食わなかったようで、さらに次のように述べています。
「奥山やはらはらと散る花の音」として見たれども、どうも古池ほどの風致なし、さりながら、どこが悪いという理屈も見出だし得ず、謹んで大方の教えを俟つ。
* [上欄自注]散ル花ニハ音ナク蛙ニハ音アリ、是レ両句ノ差違アル処ナリ 即チ古池ノ句ノ方自然ナリ
さて、子規の疑念について、わたしなりに考えてみたこところを述べてみたいと思います。
まず掲句を比較すると、芭蕉の方に分があるものと思われます。その理由は、子規も指摘しているように「程の」という措辞です。「程の」は作者の理屈に聞こえてしまうからです。そこで「程の」を取り除いてみると、こんどは「聞く」ということばが気になってきます。
終に子規は、句形を二句一章にして、「花の音」としたわけですが、ここでさすがの子規も行き詰ってしまいました。「花の音」は、やはり不自然だからです。
これを打開するには、どうしたらいいのでしょうか。私案では、疑問形にすることで断定をのがれてみました。
奥山にはらはらと花散る音か
疑問形にすることで、音はそのままにその不自然さを和らげることができるのではないでしょうか。ことばとして、花散る音は残りますので、読者は疑問形ながらも、かすかにその音に耳を澄ますのです。拙句にも悩んだ挙句に、疑問形にした句があります。
初蝶の天の道より零れしか 金子つとむ
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?