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俳の森-俳論風エッセイ第3週

十五、鳥の句あれこれ

私事になりますが、わたしは現在、茨城県取手市に住んでいます。八年程前に初めてこの地を訪れ、半ば衝動的に家を購入したのがきっかけです。昔は南相馬郡藤代町といいましたが、平成の大合併で取手市となりました。
藤代駅に初めて降り立ったのは、八月の暑い日でしたが、新興住宅地を囲むように緑の田圃が広がっており、いっぺんで気に入ってしまいました。
人には自分の肌に合う土地というものがあるのかも知れません。そして不思議なことに、この地に住むことになった理由の一つに、藤代という地名に惹かれたということがあります。Fu-ji-shi-roという音の響きがとても気にいっています。

俳句のことでいうと、以前、松戸市に住んでいたときは、毎月十五句揃えるのがやっとでした。仕事が忙しかったせいもありますが、何度かパスした覚えがあります。
ところが、こちらに来て二時間も散歩すると、十句くらいはたちどころに出来てしまうのです。それだけ自然が濃いところなのです。朝日も夕日もしっかりと見届けることができます。冬には少し首を回すだけで、筑波山と富士山をほぼ同時に見渡すことができます。
さて、題は鳥の句あれこれということでした。わたしの散歩は鳥見が主体ですので、出来るのはほとんど鳥の句ばかりです。藤代は雲雀の多いところで、おまけにわたしは雲雀が大好きなのです。

喩ふれば此処は雲雀野三丁目       金子つとむ
もともと雲雀の住み処だったところを、人間が住宅地に変えてしまったというべきでしょうか。
二時間ほど散歩がてらに鳥見をすると、決まってうれしい出会いがあるものです。それは、珍しい鳥に出会うとか、不思議な鳥の行動を目撃するとか様々ですが、わたしはそれを散歩の恵みと呼んで、ひとり悦に入っています。

鳥の句に限らず、個人的な趣味の世界の句は、なかなか共感を得にくいものです。俳句には鳥の季語もたくさんありますが、実際に知っている人は少なく、鳥といえば鴉と雀という人が大半です。
日本では六百種類もの鳥が見られるそうです。昔から花鳥風月というではありませんか。鳥の世界を知ることもわたしたちの俳句の世界をきっと広げてくれると思うのですが、いかがでしょうか。
散歩でひろった鳥の句から。
親雀穂綿で頬をふくらます        金子つとむ
郭公の声を百まで数へけり        〃
舳先よりひらく投網や冬雲雀       〃
冬の鵙啼いて夕日に塗れけり       〃


十六、主観的表現と客観的表現 その一

例をあげて、表現の違いを考えてみたいと思います。
南禅寺苔の紅葉は掃かでおく       平野八重子
とても美しいところを句にされていて、わたしも好きな句です。この句の主観的表現は、「掃かでおく」でしょう。「掃かでおく」にはまた、すこし理屈も見え隠れしています。
掲句のように動作の主体が人である場合、読者の関心はその行為主体の方に行き勝ちです。ましてや、「掃かでおく」という否定形の場合、読者は何故だろうと、知らず知らずのうちに関心を行為者へ向けていきます。
作者は明らかにそのことを考慮にいれて作句しています。「掃かずにおくほど美しい」と、作者はその美しさを仄めかしています。

作者にお許しいただいて、この句を少し客観的表現にしてみましょう。「掃かでおく」には作者の思いがいっぱい詰まっています。
そこで読者によっては、「掃かでおく」に気をとられて、肝心の紅葉の美しさを見落としてしまうやも知れません。「掃かでおく」を少し弱めにすると、やや客観的表現に近づけることができます。
掃かでおく苔の紅葉や南禅寺       作句例
この例では、「掃かでおく」を上五にすることで、「苔の紅葉」に焦点を絞っています。「掃かでおく」は、動作には違いないのですが、作句例では「苔の紅葉」を形容する位置に後退しています。
さらに、切字の「や」をおくことで、読者は、苔の紅葉にピタリと照準を合わせ、そのひとつひとつを思い浮かべる時間を手に入れるのです。切字の「や」は、作者の「ああもいいたい、こうもいいたい」という感動を集約したかのように、そこに収まっています。

俳句は自分の感動を他者へ伝えるものですが、感動自体は、作者の主観そのものです。表現方法として、主観的表現と客観的表現があるのだと思います。勿論どちらか一方が優れていると一概に言えるものではありません。作者としては、そのときの自分の感動により近い表現を選べばいいのではないでしょうか。
句に注意深く耳を傾けたとき、作者の肉声が響いてくるようであれば主観的、そうでなければ、客観的表現です。客観的表現には作者がいないのではありません。ただ、控えめに肉声を響かせないようにしているだけなのです。
次の二つの句に、耳を傾けてみましょう。
古利根や鴨の鳴夜の酒の味
なの花のとつぱづれ也ふじの山

いかがでしょうか。実は、ふたつとも一茶の句です。それぞれに味わいのある句ではないでしょうか。


十七、主観的表現と客観的表現その二

主観的表現からは作者の肉声が響いてきますが、客観的表現では、作者は句のなかに溶け込んでいます。これは、表現の違いによって、読者に伝わるものが違うということを意味します。それでは、さらに詳しくみてみましょう。

まず、主観的表現の代表選手として、小林一茶(一七六三~一八二八年)を取り上げます。一茶の句なら、たちどころに五つや六つ出てくるのではないでしょうか。まさに、国民的俳人のひとりです。
雀の子そこのけそこのけ御馬が通る    小林 一茶
やれ打な蠅が手をすり足をする      〃
雪とけて村一ぱいの子ども哉       〃
痩蛙まけるな一茶是に有         〃
うつくしやせうじの穴の天川       〃
これらの句は、みな一茶調とでもいうべきトーンに彩られています。作者の肉声が特に響いていると思われる箇所を太字にしてみました。
わたしたちが一茶の句に惹かれるのは、一茶の肉声に共感できるからではないでしょうか。別の言い方をすれば、一茶の句が好きな人は、一茶が好きなのです。俳句のうえでの一茶は、弱いものの味方であり、庶民感覚の持ち主であり、障子の穴から天の川をのぞくような暮らしをしています。

一方、客観的表現はどうでしょうか。芭蕉を尊敬していた一茶には、次のような句もあります。
炉のはたやよべの笑ひがいとまごい    小林 一茶
日の暮の背中淋しき紅葉哉        〃
木がらしや地びたに暮るる辻諷ひ     〃
松陰にをどらぬ人の白さ哉        〃
山やくや眉にはらはら夜の雨       〃

客観的表現では、読者のほうから句の世界に入り、詩句と出会い、自己の記憶や思いと重ね合わせることで、共感を覚えることができます。
一句目は、馬橋(松戸市)在住の先輩俳人、大川立砂への追悼句です。たまたま臨終に立ち会ったときのものですが、昨夜の笑いが最期であったと、人の世の無常を詠っています。
二句目の「日の暮の背中」や三句目の「地びたに暮るる辻諷ひ」は、生きていくことの辛さ、哀しさを普遍的に捉えているといっていいでしょう。
四句目の「をどらぬ人の白さ」からは、やや病的な印象を受けますが、楽の音に誘われてでてきたといった風情が感じられます。
五句目の「眉にはらはら」には、臨場感があり、山焼きの炎の色が郷愁を誘います。
如月が眉のあたりに来る如し       細見 綾子


十八、季語数のことなど

以前、「季語について」の項で、季語は表現技術として句の真意を伝えるはたらきをしていると述べました。また、「一大アートプロジェクト」の項では、季語は古びていかない不思議なことばであるという指摘をしました。また、「雑の句について」では、季語と同じような働きをすることばが、外にもあるというお話をしました。
わたしは今では、季語は機能的には共感の母胎であり、本質的には日本人が培ってきた美意識の表徴ではないかと考えています。先人たちは自らの感性で取捨選択し、美しいと認めたものだけを後世に伝えてきたのではないでしょうか。

正岡子規は、雑の句について、次のように述べています。(「俳諧大要」岩波文庫)
雑の句は四季の連想なきを以て、その意味浅薄にして吟誦に堪へざる者多し。ただ、勇壮高大なる者に至りては必ずしも四季の変化を持たず。故に間々この種の雑の句を見る。古来作る所の雑の句極めて少きが中に、過半は富士を詠じたるものなり。しかして、その吟誦すべき者、また富士の句なり。
子規は、季語を機能面から捉えて、四季の連想のない雑の句には、秀句が少ないと述べています。しかし、一概に雑の句を否定しているわけではありません。
そして、雑の句の代表として富士山の句をあげていますが、もし季語に変わりうるものがあるとすれば、富士山のような周知の地名、記憶に残る天変地異や事件、芸術や文化に貢献した有名人などになるのではないでしょうか。
地名はともかく、天変地異や事件は日付があるため、すでに季語としてその多くが取り込まれています。また、文化功労者の忌日が季語になっているのは、季節が特定できるからでしょう。

「季の問題」(宇田久著、三省堂書店)によれば、一六四一年(寛永十八年)刊行の俳諧初学抄の季題数は五九九語、一八五一年(嘉永四年)刊行の俳諧歳時記栞草の季題数は三四二四語です。現在、二〇〇六年発行の角川大歳時記の採録数は実に約一九〇〇〇語です。
季語は日本の歴史を取り込みながら、膨らんでいます。俳人・歌人や文化功労者の忌日を季語としているのは、彼らが文化芸術の世界に、新たな価値や美を追加してくれたことへの感謝の気持ちからではないでしょうか。
逆にいうと、人々の思いがたくさんの俳句作品を生むことで、季語は定着してきたのでしょう。最近では東日本大震災がありました。俳句作品は、そうした民族の歴史を記憶にとどめ、後世に伝える役割の一旦を担っているともいえるのです。
初燕震災の地に声こぼす         金子つとむ


十九、ことばの重さ

 季語は不思議なことばです。哲学者の池田晶子さんは、「魂とは何か」(トランスビュー刊)のなかで、季節と人生の関わりを次のように考察しています。
人が、季節と人生とを、別々には感じ難いのはなぜなのか。感傷が、季節のふとした感受によって鋭く喚び覚まされるのは、そこに、変わらないのに変わってしまったもの、繰り返すのに取り戻せないもの、忘れていたのにずっとそこに在ったもの、が鮮やかに現れているのに気づくためなのだろう。
風の変わった或る朝の窓だとか、信号待ちの路面に反射する光の具合だとかで、「いま確実にその季節を感受した」、その一瞬は、私が過ごした数十回の季節を、ひとつ残らず垂直に射抜く速さで私を襲う。それは、ほとんど痛いようだ。
記憶の不意打ちを受けて、私は身動きもできず、あられもなく想い呆ける。季節は記憶の鎖を放つ。

ここでは、季節に対する感受が、記憶を呼覚まし一瞬のうちに人生を俯瞰させる様子が語られています。
季節は人のいのちが限りあるものでしかないことを思い出させます。その狂おしいほどの愛しさが、ある刹那、季節とともにあった数十回分の生の記憶を一気に解き放つのではないかと思われます。

季語は不思議なことばです。永遠に咲くと思われていた花が、いつしか、あと何回かと数えられる射程に入ってきます。
この花火をあと何回見られるのだろう。そして、自分の人生を彩るように美しい季節がともにあったことに気づくのです。
季語に込められた人々の思いを推し量るとき、一つの俳句がその人の人生に匹敵するほどの重さをもつこともあるでしょう。一つの助言が人生の道標となることがあるように、一つの俳句が、誰かのこころに一生宿ることもあるのです。

 亡くなられた久保一岩さんの句にこんな句がありました。
春近し花の色して人の骨         久保 一岩
余程親しい人だったのでしょう。生前は、一岩さんにとってまさに花のような人だったのかもしれません。亡くなられても、その方の骨は花の色をしていたと・・・。
人の骨とあえて突き放したような言い方をされていますが「花の色して」は、一岩さんの絶唱といってもいいのではないでしょうか。酸素ボンベを引きながら、最後まで句会に出席されていたことを思い出します。
家の祖は三河侍鬼打木          〃
木枯や指の包帯口で結ふ         〃


二十、初心者のための作句講座 その一

以前に俳句の骨法とは、自分を感動させたものを探りあて、それをそのまま読者の眼前に提示することだと述べました。それを、具体的にどう実現すればいいのでしょうか。
今回は特に初心者の方のための作句講座です。たまたま、古本屋で手に入れた俳句作法講座(改造社、昭和一〇年発行)というのを読んでいましたら、俳句の作り方について、松瀬青々が面白いことを述べていましたので、ご紹介します。

青々さんには、
日盛りに蝶のふれ合ふ音すなり      松瀬 青々
という有名な句がありますので、ご存知の方も多いでしょう。青々さんは、俳句は、以下の三つの要素からなりたっているといわれています。少し翻訳すると、
① 何を見つけたのか(季語)
② どこでみつけたのか(場所又は対象)
③ 何に感動したのか(感動)
ということになります。
先だってわたしは、ローカル線の無人駅に咲く一株の額紫陽花に目を止めました。駅名を探してみると入地驛とありました。駅が旧字のままだったのです。そこで、
あぢさゐや駅が旧字の無人駅       金子つとむ
と詠みました。まさに、あぢさゐ(季語)が、旧字のまま(感動)時が止ったかのような無人駅(場所)にあると詠んだのです。
また、夕立のあとのどこか郷愁を誘うような光景を目の当たりにして、次のように詠みました。
抜路地に残る余光や夕立あと       〃
抜路地とは、通りぬけできる路地のことですが、夕立(季語)のあと、抜路地(場所)に残る余光に感動して、そのまま詠んでみました。その光の帯は、遥か西の空の彼方まで繋がっているように見えました。

写生をすることは、眼前の景の中から、季語や、場所を選びだしてくることなのです。後は、自分が何に感動したかを見極めて描出すればいいだけです。
このような作り方をすることで、空想や理屈から離れ、実感に裏づけられた句をつくることができるようになるのです。
句の型については、朝妻主宰(雲の峰)の懇切丁寧な説明がありますので、そちらを熟読されることをお勧めします。二句一章の句は、次の何れかの句型に集約されます。
① 情景提示型
② 補完関係型
④ 二物衝撃型
何れにしても、季語、場所、感動の三つのポイントを抑えるだけで、鬼に金棒です。ぜひ、試してみてください。


二十一、初心者のための作句講座 その二

前回は、季語、場所、感動の三つのポイントを抑えた二句一章の作り方でしたが、今回は、二句一章のおさらいと一句一章の作り方についてです。

あぢさゐや駅が旧字の無人駅       金子つとむ
抜路地に残る余光や夕立あと       〃

掲句の「あぢさゐ」や「夕立」はいってみれば、感動の引き金であり、感動のポイントは、むしろ、「無人駅」や「余光」ということになります。
つまり、感動の中心は季語そのものではないということです。このようなケースでは、二句一章になることが多いようです。他の例も見てみましょう。
初霜やむらさきがちの佐久の鯉      皆川 盤水
楷若葉子らの素読の声揃ふ        朝妻  力

これらの句では、「むらさきがち」や「声揃ふ」に感動の中心があることが分かります。初霜との取り合せが、「むささきがち」ということをいっそう引き立てています。言外には、寒くなって美味であるということも含まれているようです。
また、楷の木は、孔子に縁のある木で、楷書の語源ともなっており、若葉が子どもたちの声と響きあっています。
それでは、一句一章の場合は、季語の位置づけはどうなるのでしょうか。伊吹嶺の中から、一句一章の句を拾ってみます。太字は季語。
色鳥の入りこぼれつぐ一樹かな      朝妻  力
当り日の荷を仕舞ひゐる酢茎売      〃
地境に残せる桑の芽吹きけり       〃
緑なす松をそびらに翁舞ふ        〃
芝能の火勢に幣の揺れやまず       〃
美しく売れ残りたる種袋         〃
これらの句では、作者の感動の中心は、季語そのものにあるといっていいでしょう。
季語が主役ということは、季語が叙述の部分を引き寄せ、全体として一句一章を構成しやすくしているのだと考えられます。
作句の現場では、自分が季語そのものの動きや、状態に感動しているのであれば、一句一章仕立てにするのが、もっとも自然な形といえるのではないでしょうか。

一夜さに裸木となるいてふかな      吉田 紀子
掲句では、作者の思いは一晩で裸木となってしまった銀杏の木そのものにあります。ですから、いってみれば、裸木が主役。一夜さにという言い方には、それまで毎日のように見続けていた木がという含みがあります。それほど、なじみのある木だったのでしょう。
このように、季語が感動の主役かどうかを見極めることで、適切な句形を選択できるのではないでしょうか。

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