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覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(8)

著者 二宮俊博


附㈡ 先人追慕の詩―藤原惺窩・中江藤樹・宇野明霞

 東陽は京に遊学して間もない頃に、嵯峨の二尊院にある伊藤仁斎・東涯父子の墓を展じ、「古学・紹述両先生の墓を拝す」と題する五言古詩(『詩鈔』巻一)を詠じている。そのことは「安永・天明の京都」で述べたところであるが、ほかにも在京時代に藤原惺窩・中江藤樹・宇野明霞の墓や祠堂を訪ねた作があるので、それを見ておきたい。

 藤原惺窩(永禄4年[1561]~元和5年[1619])

 名は粛、字は敏光。惺窩はその号。参議冷泉為純の三男で、播磨三木郡細川荘の生まれ。七、八歳のころ仏門に入り、龍野景雲寺、のちに京都相国寺に学ぶ。のちに禅学から宋儒性理の学に転じ、還俗して儒学を門人に教授。慶長10年、京都市原に隠棲した。
 在京中の作に、六律「惺窩先生の墓に謁してつつしんで鄙感をしるす」(『詩鈔』巻三)がある。東陽は惺窩が儒学復興の基を築いたばかりでなく、その餘沢が現在にまで及んでいるとして敬意を表したのである。

  戰國詩書教廢、當時困學何勝  戦国詩書教へ廃れ、当時困学何ぞ
                 へん
  斯文舉世將喪、吾道憑君復興  斯文 世を挙げてまさほろびんとする
                 も、吾が道 君にりて復興す
  神君殊崇徳業、師儒各達才能  神君ことに徳業を崇び、師儒各おの才
                 能を達す
  後生長被遺澤、欽向墓門數登  後生長く遺沢を被る、つつしんで墓門に
                 向って数登す
◯困学 苦労して学ぶ。◯斯文 この文化・学問の意で、儒学のこと。『論語』子罕篇に「天のまさの文を喪ぼさんとするや、後死の者、斯の文に与ることを得ざるなり」と。◯吾道 孔子の教え。『論語』里仁篇に「吾が道は一以て之を貫く」と。◯神君 徳川家康のこと。◯師儒 師表となる儒者。後掲の自注参照。◯遺沢 死後のこされた恩恵。◯墓門 墓道の門。西晋・潘岳「寡婦の賦」(『文選』巻十六)に「墓門は肅肅として、修壟は峨峨たり」と。◯数登 繰り返し拝礼する。〈数〉は、しばしば。〈登〉は、参拝。

 詩末の自注に「六句は羅山・活所・昌三の諸公の墓、相国寺中の林光院の後園に在るを謂ふ」と。林羅山(名は信勝。法号道春。天正11年[1583]~明暦3年[1657])・那波活所(字は道円。文禄4年[1595]~慶安元年[1648])・松永尺五(名は昌三。文禄元年[1592]~明暦3年[1657])は惺窩の門に学んだ。堀杏庵(名は正意。天正13年[1585]~寛永19年[1642])と合わせて四天王の称がある。東陽がいう彼ら高弟の墓は、いわゆる衣冠墓であろう。現在、林光院の惺窩墓には見当たらぬようである。ちなみに、活所五世の孫にあたる那波魯堂の『学問源流』(寛政11年[1799]刊)の記事に、明和6年(1769)の惺窩百五十年忌の前日、惺窩七代の孫にあたる冷泉家当主に招かれ祭事に与り、翌日の早朝、墓を展じたことをいい「葬地ヲ見ルニ、誌碑ヲ用ヒズ。唯方四五尺許ニ垣ヲ結ビ真中ニ樹ヲ植タルガ、高ク生栄へ其本ハ合抱ニ及ベリ」と述べている。
 なお、巌垣龍渓には「惺窩翁の旧居」と題する五絶(『抱関集』二篇)があり、『皇都名勝詩集』巻下にはこれを「惺窩藤先生の墓」として収めているので、ついでに挙げておく。

  不爲天子臣、諸侯安得友  天子の臣と為らざるに、諸侯いづくんぞ友と
               することを得ん
  考槃踪跡幽、清風滿林阜  考槃 踪跡幽に、清風 林阜に満つ
◯考槃 隠宅を構えること。『詩経』衛風「考槃」に「たのしみして澗に在り、碩人これ寛」とあり、朱憙の集伝に「考は、成なり。槃は、盤桓の意。言ふこころは其の隠処の室を成すなり」と。『書言故事』巻三、隠逸類にも、この語を挙げる。◯踪跡 足跡。◯林阜 山林。隠棲の地をいう。『晋書』阮修伝に「兄弟同志と、常に林阜の間に自得す」と。

 ちなみに、東陽の『夜航詩話』巻五には、
惺窩先生、大徳寺に遊ぶ詩に「喝雷棒雨西東に響く、知る是れ高僧の此の中に住するを。野性由来の事無し、痩藤月を挑て秋風に倚る」と。語意倶にたくみなり。合作と称するに足る。諸家の選本、此れを収めざるは何ぞや。蓋し皆集本を見ざればなり。余が家蔵する所の本、正保天子御製の序有り。れ布衣の遺稿、御序を賜ふを得、先生の徳の至り、古今一人のみ。烏丸公光広称して華袞の栄と為すと云ふ。今本載する無し。何の謂なるを知らず、まことに惜しむ可きなり。

という記事がある。さらに、この条に続けて江村北海の『日本詩史』(明和8年[1771]刊)や先に挙げた那波魯堂の『学問源流』に惺窩に妻子なく酒肉を食しなかったとする誤りを正した箇所があり、その中で惺窩を「斯文中興の豪傑」と評する。この話柄は、『薈瓚録』巻下にも見える。ちなみに、原念斎(安永3年[1774]~文政3年[1820])の文化14年(1817)刊『先哲叢談』巻一、藤原惺窩の第七条にも同様の指摘があるが、東陽がその記事によってこれを記したわけではなさそうである。また『薈瓚録』には「惺窩集二板アリ、一ハ羅山ノ編集ニテ菅得菴ノ続編ヲ合セテ八巻アリ。一ハ冷泉公ノ編集ニテ水戸義公校訂シタマフ。和文ヲ併セテ十八巻アリ。巻首ニ後光明帝ノ御序アリ、其子為景採編輯之ト書カセタマヘリ」云々とある。

※藤原惺窩については、太田兵三郎ら編『藤原惺窩』(国民精神文化研究所、昭和16年。後に思文閣より昭和53年に復刊)の解題および太田青丘(兵三郎)『藤原惺窩』(人物叢書新装版、吉川弘文館、昭和60年)、猪口篤志・俣野太郎『藤原惺窩 松永尺五』(叢書・日本の思想①、明徳出版社、昭和57年)参照。また惺窩の墓については、大島晃「先学の風景―人と墓 藤原惺窩」(「漢文学解釈与研究」⑴、平成10年)がある。

 中江藤樹(慶長13年[1608]~慶安元年[1648])

 名は原、字は惟命。通称は与右衛門。藤樹はその号。近江高島郡小川村の人。農家に生まれ、元和2年(1616)米子藩士の祖父吉長の養子となり、同三年藩主の転封により伊予大洲に移った。寛永11年(1634)脱藩して郷里にもどり、母に孝養を尽くしながら学問に専念した。
 『詩鈔』巻一に四言古詩「藤樹先生の教授室に題す」があり、題下に「堂上に木主を奉祀し、里人これを祭ることいますが如くす」と注する。〈木主〉は、位牌。〈祭るに在すが如し〉は、『論語』八佾篇に見える表現。

  維江夫子、嘉遁之郷  れ江夫子、嘉遁の郷
  夙欽風聲、來窺門墻  つとに風声をつつしみ、来たりて門墻を窺ふ
  吾道深造、煥乎文章  吾が道深造し、煥乎たる文章
  時人稱聖、孝義最彰  時人 聖と称し、孝義 最もあきらかなり
  爰以奉神、拜瞻拈香  ここに以て神を奉じ、拝瞻して香を拈す
  古藤無恙、媲美召棠  古藤つつが無く、美を召棠に
  里民恭敬、風俗餘光  里民恭敬し、風俗餘光あり
  祇囘仰止、秋山夕陽  めぐりて仰止す、秋山の夕陽
◯夫子 先生の意。◯嘉遁 義を全うし志を守るために世をのがれること。『易経』遯卦の象伝に「嘉遯す、貞吉とは、以て志を正しうするなり」と。〈遁〉は遯と同じ。◯欽 したう。欽慕。◯風声 教化。『書経』畢命に「善を彰かにし悪をみ、之が風声を樹つ」と。◯吾道 孔子の教え。『論語』里仁篇に「吾が道は一以て之を貫く」と。◯深造 『孟子』離婁下に「君子深く之にいたるに道を以てするは、其の之を自得せんことを欲すればなり」と。◯媲美 〈媲〉は、比と同じ。◯召棠 周の召公せきがそのもとに舎した甘棠を、その徳を慕った人々が伐るなかれと歌った故事(『詩経』召南「甘棠」)。◯餘光 美徳の影響。◯仰止 仰ぎ慕う。止は語助。『詩経』小雅「車舝」に「高山仰止、景行行止」(高山は仰ぎ、景行は行く)と。

七絶「藤樹先生の祠堂に謁す」(『詩鈔』巻七)には、

  高躅百年遺徳香  高躅百年 遺徳香し
  古藤樹下肅祠堂  古藤樹下 祠堂粛たり
  山村不着江夫子  山村 江夫子を着せずんば
  天下何縁識此郷  天下何にってか此の郷を識らん
◯高躅 気高い品行。『晋書』隠逸伝賛に「確乎たる群士、超然として俗を絶ち、粋を巖阿に養ひ、声を林曲に銷す。貪を激して競を止め、永く高躅を垂る」と。

「藤樹先生がいらっしゃらなかったなら、この山村は世の中に知られなかっただろう」と詠じている。
 なお、伊藤東涯に享保6年(1721)に藤樹書院を訪ねた七絶「辛丑の秋、江州に遊び南市村の安原氏宅に宿す。遂に小川村に到りて藤樹書院を尋ぬ」詩(『紹述先生文集』巻二十九)がある。

  江村書院聞名久  江村の書院 名を聞くこと久し
  五十年前訓義方  五十年前 義方ををし
  今日始來絃誦地  今日始めて来たる絃誦の地
  古藤影抱舊茅堂  古藤 影は抱く旧茅堂
◯義方 守るべき正しい教え。『左氏伝』隠公3年に、春秋晋・せきさくの言として「臣聞く子を愛すれば義方を以てし、邪に納れず」と。◯絃誦 礼楽による教化。『礼記』文王世子に「春は誦し夏は弦す」と。

東涯の作は、原念斎の『先哲叢談』にも挙げる。戦前に刊行された『藤樹先生全集』(岩波書店、昭和15年)第五冊(巻四十八)には後人による藤樹景慕の詩文が集められているが、東涯や東陽の作は未収録。さらに奥田三角にも五律「藤樹書院を尋ぬ」詩(『三角集』巻一)があって、これは『全集』に収録されており、享保13年(1728)の作。

  漫遊來此地、百歳欽高風  漫遊して此の地に来たり、百歳高風をつつ
               しむ
  床上青氈古、梁間絳帳空  床上 青氈り、梁間 絳帳空し
  河汾誰續響、新建獨推隆  河汾誰か響をがん、新建ひとり隆を推す
  収拾秦灰冷、六經道不窮  秦灰の冷を収拾して、六経 道窮まらず
◯高風 気高い風姿。西晋・夏侯湛「東方朔画賛」(『文選』巻四十七)に「先生の県邑をて、先生の高風を想ふ」と。◯青氈 青いもうせん。◯絳帳 紅いとばり。『書言故事』巻三、師儒類に「絳帳」の条があり、「前漢の馬融、諸生に教授す。常に千数有り。高堂に坐して、絳沙帳を施し、前に生徒に授け、後に女楽を列す」と。◯河汾 隋・王通をいう。王通は文中子と号し、黄河・汾河の間で教授した(『新唐書』隠逸・王績伝)。明・高啓の五律「恭孝先生を追輓す二首」其一に「閩洛遺風在り、河汾旧業伝ふ」と。◯続響 後を継ぐ。◯新建云々 『全集』では〈日月德比隆〉に作る。◯収拾 『全集』は〈沙汰〉に作る。◯秦灰 秦の始皇帝によって焼かれた書籍の灰燼。元・郝経の七律「秋興五首」其二に「六経旧に依って天地に垂れ、千載秦灰 劫空に散ず」と。ここは我が戦国乱世の文化の破壊をいう。◯六経 前掲、「和して久保希卿に答ふ二首」其一の語釈参照。

 ちなみに、藤樹のことは、伴蒿蹊の寛政2年(1790)刊の『近世畸人伝』巻一に見えるほか、橘南谿も藤樹書院を訪ねており(『東遊記』巻四に「藤樹先生」の条がある)、寛政7年刊の『藤樹先生遺稿』に跋を記している。

※中江藤樹については、本文に挙げた全集以外に、日本思想大系『中江藤樹』(岩波書店、昭和49年)参照。

 宇野明霞(元禄11年[1698]~延享2年[1745])

 名は鼎、字は士新。明霞はその号。その先は近江野洲の人。僧大潮元皓に徂徠学を学んだ。片山北海(名は猷。享保8年[1723]~寛政2年[1790])や釈大典(名は顕常、字は梅荘。享保4年[1719]~享和元年[1801])はその門人。
 大典の名で知られる『詩語解』(宝暦13年[1763])や『唐詩集註』(安永3年[1774]刊)などの著述は、明霞が手がけた仕事をもとにこれを増補してなされたものである。その大典には五律「宇士新先生を哭す」詩(宝暦11年[1761]刊『昨非集』巻上)や七絶「士新先生を懐ふ四首」(『昨非集』巻下)があるが、展墓の作としては、五古の「宇先生の墓に詣づ」詩(安永4年[1775]刊『小雲棲稿』巻一)がある。

  伊人不復作、四尺傍迦維  の人ふたたびはおこらず、四尺ゆゐに傍す
  身後誰能淑、世間竟見遺  身後誰か能くよしとせん、世間つひに遺れらる
  猶懐丹旐路、空撫碧苔碑  ほ懐ふたんてうの路、空しく撫す碧苔の碑
  寂寞文章事、千秋君自知  寂寞たり文章の事、千秋君自知す
◯伊人 この表現、古くは『詩経』秦風「蒹葭」に「いはゆる伊の人、水の一方に在り」と。◯四尺 墓をいう。中唐・白居易の七律「崔二十四常侍を哭す」詩(『白氏文集』巻六十五)に「馬鬣新たに封ぜらる四尺の墳」と。◯迦維 もとは、シッタ太子の生誕地、カビラのこと。六朝梁・王巾「頭陁寺の碑文」(『文選』巻五十九)に「ここを以て如来は迦維を見るによろしく、生を王室に託す」と。◯丹旐 葬列で棺を先導する紅い旗。白居易の七絶「履道居三首」其二(『白氏文集』巻五十八)に「東里素帷ほ未だをさめられざるに、南鄰丹旐又た新たに懸く」と。◯君自知 この表現、中唐・張籍の五律「韓庶子に酬ゆ」詩に「寂寞誰か相問はん、ただまさに君自知すべし」と。

 東陽の作は、七絶「宇士新の墓に題す」(『詩鈔』巻七)。

  俊才清德仰風流  俊才清徳 風流を仰ぐ
  博識精勤更少儔  博識精勤 更にともがらまれなり
  命世文章垂不朽  命世の文章 垂れて朽ちず
  明霞的皪照千秋  明霞てきれきとして千秋を照らす
◯清徳 高潔な品徳。◯風流 先人の遺風。◯命世 世に名高い。◯垂不朽 後世まで伝えられて朽ちない。杜甫の五古「重表姪王砯の南海に使するを送る」詩に「盛事垂れて朽ちず」と。◯的皪 きらきらと輝くさま。畳韻語。

 大典の作は明霞の文業が没後忘れさられるのを慨嘆するというよりむしろ諦観するような口調で詠じられているのに対して、東陽のそれは月並みとはいえ、文章の不朽を信じるという表現なされている点で、対照的である。
 南川金渓の『閑散餘録』には、明霞はほとんど外出することがなかったため、「閉戸先生」と称されたというエピソードを載せ、原念斎の『先哲叢談』にもこれを引くが、〈閉戸〉の称は『蒙求』巻上の「孫敬閉戸」をふまえたもの。その墓は上京七本松通下立売上の極楽寺にあった。菅原[高辻]家長(正徳5年[1775]~安永5年[1776])に「処士明霞宇先生墓碣銘」(『事実文編』巻三十七)がある。

※宇野明霞と大典との関係については、小畠文鼎『大典禅師』(昭和2年)の第三編第二章第二節「禅師と宇野士新」に詳しい。また中村真一郎『木村蒹葭堂のサロン』第一章の第十八・十九・二十節参照。

 ちなみに、東陽には展墓の作として七古「贈三位左中将楠公の墓に謁す」詩(『詩鈔』巻一)、五絶「楠公の墓を拝す」詩(『詩鈔』巻六)、「小楠公の墓」詩(同上)などの楠木正成・正行父子を詠じた詩がある外、七律「後藤年房の墓を弔ふ」詩(『詩鈔』巻四)、「山中幸盛の墓を弔ふ」(同上)、五絶「今井兼平の墓」(『詩鈔』巻六)や七絶「平公子敦盛の墓をよぎる二首」(『詩鈔』巻七)、「小督の墓を弔ふ」(同上)などが見える。就中とりわけ正成については寛政8年(1796)自序・文化12年(1815)自跋の稿本『忠聖録』(その稿本の影印が昭和10年に大阪府立図書館から刊行されている)を編むほど、強い敬慕傾倒の念を抱いていたが、ここでは省略する。これら歴史上の人物とは別に、七絶に「烏石山人の草冢」と題する作(『詩鈔』巻七)があるのは、興味深い。

  山人墨玅最超群  山人墨玅 最も群を超ゆ
  書艸蘊崇幾歳勤  書艸あつむること 幾歳か勤むる
  莫向冢頭輕觸石  冢頭に向て軽く石に触るることかれ
  龍蛇蟄處恐生雲  龍蛇蟄する処 恐らくは雲を生ぜん
◯墨玅 書にすぐれること。〈玅〉は、妙と同じ。盛唐・魯收「懐素上人草書歌」(『佩文斎詠物詩選』巻一七六)に「筆精墨妙誠に重んずるに堪ゆ」と。元・げいさんの七絶「王叔明の画」詩(『倪雲林先生詩集』卷六)に「筆精墨妙の王右軍」と。〈王右軍〉は、書聖と称された東晋・王義之。◯書艸 下書き。草稿。〈艸〉は、草と通用。◯蘊崇 集めて積み上げる。『左氏伝』隠公六年に「農夫の務めて草を去るが如くす焉。之をさんうんすうし、其の本根を絶ち」云々とあり、杜預の注に「芟は刈なり。夷は殺なり。蘊は積なり。崇は聚なり」と。◯向 文語の〈於〉と同じ。ただし、〈於〉は平声、〈向〉は仄声。◯触石 西晋・左思「蜀都の賦」(『文選』巻四)に「石に触れて雲を吐く」と。◯龍蛇蟄処 中唐・銭起の五排「常徴君を哭す」詩に「山閉ぢて龍蛇蟄し、林寒くして麋鹿群る」と。◯生雲 中唐・姚合の五律「殷堯藩が山南に遊ぶを送る」詩(『三体詩』巻三)に「渓静かにして雲 石に生ず」と。

松下烏石(元禄11年[1698]~安永8年[1779九])は、名は辰、字は君岳。烏石山人・青蘿主人と号した。自らは源君岳・葛烏石とも称する。江戸の人で、能書家として知られ、明和ごろ上洛し、西本願寺に寄寓したという。皆川淇園に七律「烏石山人の七十の初度を寿ぐ」詩(『淇園詩集』巻一)があり、その詩は後掲、三村竹清「松下烏石」に示されているが、那波魯堂の『学問源流』に見える次の逸話は、それに取り上げられていないので、ここに挙げておく。

「其比(そのころ)源君烏石ハ初メ廣澤ノ書ヲ學ビタレトモ、是ヲ改メ文徴明ノ流ヲ學ビ、學者モ皆書家ナリト称セリ。江戸ニテ南郭及僧萬庵其他徂徠ノ社中ニ親シク交ハリ、其板行ノ書ノ序文ヲカキタル多シ。七才子詩集、小本ノ新刻ハ、全篇皆烏石ノ書タルナリ。个様ノコトニテ書名自然ニ高ク、其流江戸京都ニ行ハレタリ。此烏石江戸ヨリ亡命ノ如クシテ江州膳所ニ来リ、程ナク京都ニ出テ、西本願寺ノ傍ニ居リシ時、余一日其居ニ訪ヒシ中ニ、寒温ヲ序シテ後、爐中ノカマノ湯ヲ酌テ茶ヲ點シ出セルニ、釜中琤然ノ聲アルヲアヤシミ、若其湯ヲ煑ル聲ノ為ニ石ナド入レ置タルヤト尋レバ、即ハシヲ以テハサミ舉ゲタルヲ看レバ、甲州金慶長金ノ類三五顆アリ。湯ノ中ニ是ヲヲカザレバ其味冝シカラズ、平生ノクセニ成テ已ムベカラスト云。又竃ノ下ヘモ時時伽羅ヲ少シヅゝ火ニ焚タルヨシ、是トテモ癖ニ成テ猶已ムコトヲ得スト云。客ノ来リタルヲ看テ、其前ヘ薩州ノアハモリノ大壺ヲ出シ、口ノフウヲ手ヲ以テ打チタゝキアケテ是ヲ勸ム。个様ノコト鮮ナカラズ。亦是ヲ以テトル之ヲト云モノナリ。其人知ルベシ」。
◯広沢 細井広沢(万治元年[1658]~享保20年[1739])。◯文徴明 明代の文人(1470~1559)。◯南郭 服部南郭(天和3年[1683]~宝暦9年[1759])。◯万庵 臨済宗の僧(寛文6年[1666]~元文4年[1739])◯徂徠 荻生徂徠(寛文6年[1666]~享保13年[1778])。◯七才子詩集 元文2年刊『七才子詩』七巻のこと。〈七才子〉とは、いわゆる嘉靖の七子すなわち李樊龍・王世貞・梁有誉・謝榛・徐中行・呉国倫・宗臣のこと。◯餂之 人の気を引く。『孟子』尽心下に「是れ言を以て之を餂るなり」と。

 もっとも、この条はすでに竹治貞夫氏の『近世阿波漢学史の研究』(風間書房、平成元年)第三章「那波魯堂」第二節「魯堂の遺著」に、「余一日」以下を引かれ、『学問源流』に挿入されている見聞録のなかで出色とされている。

※松下烏石については、三村竹清「松下烏石」(『近世能書伝』所収、二見書房、昭和19年。後に『三村竹清集四』。青裳堂書店、昭和58年)参照。また久保仁平「京都に存する葛烏石の碑」(「史迹と美術」33―6、昭和38年)がある。


覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(7)
覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(9)

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