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見たことないものを見たい。知らなかったものを知りたい。

最近制作や自分の活動について考えたことがある。

これまでずっと、街の壁を題材として絵を描いてきた。街の壁はモチーフとして大変魅力的で大好きだ。

博多の街で4年前に見た壁をモチーフに描いた作品群。
ただいま福岡でグループ展に出展中。(@Artas Gallery/〜2月17日まで)

だが、必ず壁でないといけないのかというと、案外そんなこともなかったりする。
更に突っ込んで言ってしまうと、私自身が表現したいこととか特段無いのでは、と薄々思っている。
ここでいう表現したいこと、というのは「絵画として成立させたいこと」と言っていいかもしれない。わざわざ絵画にしたいことは特にない、というか。キャンバスが最適な表現方法ではないのかもしれない、というか。(歯切れ悪くてすみません……)

キャンバスで表現するとき、いつもどこかに、座り心地の悪さを少々感じている。それが何なのかはわからない。作品は完成し着地する。ちゃんと座れる。だがわたしの心の一部でどうも違和感を感じている節がある。
(ちなみに、良い絵であることと作者自身が座り心地の悪さを感じながら制作していることは両立すると思っている。)


最近キャンバスによる表現以外に始めたことが2つある。
1つ目は昨年6月にスタートし、今年第3回を迎える路上観察系イベント「熱視線」の運営。

2つ目はつい最近始めたばかりの動画コンテンツ「大阪府下468駅くじ引き散歩」。

(活動内容はあとで少し触れますが、詳しくはリンク先を見てください。)
どちらも、美術かと問われるとなんとも言えない。動画コンテンツなんか、youtuberとあまり大差ないと思う。
だがこの2つに携わっているとき、少なくとも私自身は、座り心地の良さを感じている。なんかしっくりきているのだ。何故だろう……

理由を考えていてふと思ったのは、タイトルにもあるように「見たことないものを見たい、知らなかったものを知りたい」という欲求がそう感じさせるのかもしれない、ということ。

よく考えてみれば、壁をモチーフとして絵を描くプロセスの中で一番「最高だ!」と思うのは、塗装を溶剤で落としたときの偶然できる色形であったり、下地の鉄板から鉄錆が浮き出てきた時だったりと、画面がuncontrollな状態に突入し、見たことのない画面が生まれる瞬間である。
作品完成のタイミングではないのだ。


イベント熱視線に関しては、当初より、私だけでなく多くの人にこの「未知との遭遇」をしてもらうための場であると考えている。
この世界を様々な角度や視点で捉えている人たちの"眼"を通して、zineや雑貨やアートなどの形に出力されたものを一堂に集め、来場者も参加者も、今まで知らなかった視点や世界に触れる機会にしたい、というのがイベントのコンセプトだ。

zineだけのイベントではない、というのがミソです。
表現の形はzineだけではないと思うから。


最近始めた動画コンテンツ「大阪府下468駅くじ引き散歩」に関しては、もう完全に自分のためでしかない。(まだ1回しか動画撮ってないけど笑)
行ったことない場所、知らない風景に出会いたいから、その行き先をくじ引きでランダムに指定してしまおうという話である。
次の行き先も、現地で出会った人に引いてもらう。なにもかも風まかせで未知との遭遇を待つ。

くじ引き散歩、第1回は緑橋駅でした。
駅前をあてもなく散歩した記録、というシンプルな内容です。


私が見たことないもの、知らないものが何であるかは、今の私自身にはわからない。世界は広いので当然知らないことばかりだが、だからこそ、今私が何を見たことがないか知らないか、を指定することができない。
それは見たことないものとの遭遇でしか認識することができない。

なんとなく自分の活動の輪郭がぼんやりみえてきたのかも。まだまだこれからですね。

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