2019年 F1 スペインGP レビュー

この原稿を書くために5回、スペインGPの映像を見直した。
どこかになにかネタが転がっていないか。スペインGPを5回見たのだ。
結果から言うと、何も書くことが無い。それどころか5回も見たのに何一つ覚えちゃいない。
さすがに5回目にもなると、解説のセリフの一つ一つも先回りして、次に何を言うかまで分かってくるのだが
肝心のレースの印象を語れと言われると口を噤んでしまう。
それくらい2019年のスペインGPというものは、私にとって「なんにもない」グランプリだったのである。

レースはあっさりきまった。
ヴェッテルがオープニングのラップでタイアを壊してあっさりと勝負権を失う。
メルセデスにハードスペックでは絶対に(言い切ってみる)勝てない、今年のフェラーリ。それなのにドライバーがこのようにあっさりと勝負権を失うような行動を行ってしまうところが末期的だ。
やることなすこと全て、かみ合わない展開。これがフェラーリのプレッシャーなのか。それとも今のフェラーリの組織は結局のところこんなものなのか。
確かなことは、そんな悲惨な状況にあるフェラーリが今のところストップ・メルセデスの最右翼のポジションにあるということだ。
これは紛れもない客観的事実であり、そして同時にこのスポーツ(かろうじてスポーツと呼ばれるだけの資格を有していると信じたい)の現在置かれている絶望的な状況を表している。

我々がドイツ製品にもつ、勤勉・正確・洗練というステロタイプなイメージを地で行くメルセデスに対して、これまたイタリアな気質丸出しのフェラーリ。
これが今年、メディアが描きたかった(すでに過去形で問題はないであろう)構図だったが、この勝負は本当に分が悪い。
分が悪いとはフェラーリ目線でモノを言い過ぎだが、準客観的に見たってこの勝負が勝負としての形式を既に失っているのは明らかである。
明らかに興行として不格好になってしまった2019年のグランプリだが、これをなんとか成立させようとしてうまれたのが「ベスト・オブ・ザ・レスト」なるF1の尊厳を奪うかのようなワードである。
「ベスト・オブ・ザ・レスト」自体は2017年ころからチラホラ耳に挟むようになってきたワードだが、今年のグランプリでその存在感を確実なものとした。
すでにチャンピオンシップの趨勢は決まっている。(断言してしまったが、これもまた問題ないであろう。むしろここから大逆襲があれば歴史的なシーズンになる)その中で見どころを無理やりにも作らなくてはならない。
そんなときに最適なのは「ベスト・オブ・ザ・レスト」なる便利なワードである。

たしかに2強時代、3強時代というのは過去のシーズンでもあり、そこでそれ以外のチームでどこが優れているかが注目されたこともあった。
大昔のターボ時代に存在したジム・クラークカップやコーリン・チャップマンカップだって、姿形を変えた「それ以外」のエントランスへの称賛の形ともとれるかもしれない。
だがそこが面白く見えるのは、あくまでモノホンのチャンピオンシップが輝いてるからである。コントラストが際立って見えるのだ。

ベストとは何かという話になってくる。
現状、メルセデスはベストである。この戦績を見て通信簿にベスト以外の評定をつけられる教師がいるならば、それはとてもへそ曲がりで子供たちからも人気が無いキャラクターだろう。
異次元のコーナーリングと抜群の信頼性を両立させたパッケージ。作戦ミスなんぞを起こすことがイメージできない司令部と、どんなオペレーションも迅速に実行するメカニックたち。豊富な資金。
ドライバーのラインナップも現時点では(現実的なラインで)最高と言えるだろう。
2019年現在、これがベストなチームであることは疑いの余地はない。

ではそれ以外はどうだろうか。
フェラーリは上に挙げた通りマシンスペックでメルセデスに遅れをとる中でオペレーションのミスを連発。マネジメントが行き届いていないことが露呈した。
ドライバーだって正直心許ない。ヴェッテイルは紛うことなき天才だがイタリア世論のプレッシャーにやられているのは傍目からも明らかだ。
ルクレールは将来的にこのスポーツの覇王となるべき才能をもっているが、2年目の彼にすべてをひっくり返すだけのことを期待するのは酷というものだろう。
セナにだってシューマッハにだってそれは無理な相談である。

三強の一角であるレッドブルはもっと悲惨だ。
なるほど、ホンダとしては過去の結婚よりはマシであろう。現時点ではレッドブルファミリーとホンダの目指すポイントに大きなズレは無いように思える。
出てくるコメントも基本的にはポジティブなものばかりだ。
だが、現状をしっかりと視点で見つめていればレッドブルの後退はあきらかだ。彼らが不幸にも三行半を叩きつけたルノーとの結婚期間の方が赤い牛は輝いていた。
もちろん、彼らに言い訳をする権利は十分にあるし、我々はそれに対してしっかりと耳を傾ける義務はある。
「今は将来に向けての学習の期間だ」、「メルセデスが異常に強いシーズンなだけで想定している成長スピードで推移できている」
そんな言い訳を用意していても不思議ではない。
なるほど、その言い分も理解はできる。間違ってはいないし、いくらレッドブルだって新しい結婚相手(ホンダ)と組んでワンシーズンで結果をだせるチームでは無い。
ものごとにはなんだって段階というものがある。ましてやモータースポーツの世界はトライ&エラーの繰り返しだ。
テストも大幅に制限される中で「進化」することはたとえそれが牛歩のごとき歩みでも評価されるべきだ。

だが、ここで我々は少し後ろのグリッド見てみよう。
そこには7つのチームがいる。その7つのチームのオーナーたち、ドライバーたちも同じような言い訳を話してくれるだろう。
「開発費用が・・」「テスト期間が短すぎる・・」「風洞とリアルではデータの差異が大きい」「ペイドライバーが満足に走ってくれない」
そうなのだ、負けているチームには言い訳がある。
言い訳という表現は少し酷いかもしれない。言い訳じゃないとしたら負けた「理由」だ。
ベストを尽くして戦っているが、これは勝負だ。勝者がいれば敗者も必ず存在する。敗者となったものたちが一生懸命に戦ったからこそ、勝者の価値は高まる。
これは勝負事の道理である。

「ベスト・オブ・ザ・レスト」は便利な言葉だし、そこに興行としての楽しみを見出そうとするのは間違ってはいない。
チームの出資者たちは現実的にどれだけのポイントを獲得して、そこからどれだけのアガリが得られるかを考えているだろう。
それは出資者としては間違いでは無い。チーム存続に向けてその視線が無いと生き残れない。

ただし、我々が必要以上に「ベスト・オブ・ザ・レスト」に夢中になる必要は無い。
レーシングとは勝者の総取り、ウィナーテークオールがその原則でありフォーミュラである。
2位は一番マシな敗者にすぎない。勝つためになにをやるか。悪魔に魂を売り渡してでも勝ちを求めるこの姿勢こそがF1が支持されてきたポイントだ。
その原理原則を危うくする、必要以上の「ベスト・オブ・ザ・レスト」への視線の注ぎ方はこの競技の根幹にかかわってくる問題だ。

レースを興行として捉え、マスコミはそれをどう刺激的に消費者に伝えるか。
その思いは評価するし、こういう原稿を書いているとそこにスポットを当てたくなるのでそこは理解でしる。
しかし結果的にその動きはこの競技の本質をスポイルして、長期的視野で見た場合この競技を衰退に追い込むことにならないか。
「ベスト・オブ・ザ・レスト」とは欺瞞に他ならない。それは結局のところレーシングを侮辱する行為であり、このカテゴリの未来を奪うワードと言える。

だからこのスペインGPは、「なにもなかった」ことが唯一にして最大のニュースバリューである。
3位以下は手も足も出せず、メルセデスの銀の矢がカタロニアを支配した。
それが最大のトピックだ。それだけメルセデスは強い。そうったチームがこのシーズンを席捲し蹂躙していることのみを我々は覚えておけばいい。
このグランプリはそういうグランプリだ。そりゃ、今は何も話すことは無いかもしれない。メルセデスの強さはそういう類の強さだった。
ただ数年後(もしかしたらその時F1はなくなっているかもしれないが)、そういう強さのチームがあったことを振り返る。その思い出話はきっと盛り上がるだろう。
このグランプリで「ベスト・オブ・ザ・レスト」を争っていたドライバー、チームを語るよりずっと。

#F1 #レース #モータースポーツ #スポーツ #観戦記 #フォーミュラワン

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