2019年 F1 アゼルバイジャンGP レビュー
またもや退屈な週末を視聴者に提供することとなった2019年のF1グランプリ。
おそらくこれが、年末まで続くであろうことはもはやなんとなく覚悟はしている。
思えばマクラーレンが16戦15勝したあのシーズンもそうだったし、2002年、2004年のフェラーリ全盛期もそうだった。
そして近年のシルバーアローが席捲するグランプリだって現象としては全く同じで、特段目新しいものでは無い。
参戦するチームがコンストラクターではいけないという前提条件がある以上、開発の方向性を外すチームは必ずいる。
むしろ、ウィナーテークオール。勝者以外はトレンドを外していると言い切ってしまっても問題ない。
90年代以降、多くのシーズンで1チームによるグランプリ制圧が行われてきており、好む好まずに関わらずF1の象徴的なシーンとして存在している。
では、そんな1チームによる制圧が退屈だったかというとそうでもない。
マクラーレンが全グランプリをとるのでは無いかとドキドキして見ていたり、フェラーリの強さに興奮し「さすがは皇帝だ」なんて訳知り顔で納得するのは、
それはそれでグランプリの歴史の生き証人になったような気がして、まんざらでもない気分になったものだ。
なので今回のメルセデス旋風だって、退屈する等と悪口を言うのはてんでフェアでは無いのは明らかだ。
道義的におかしい。勝者がシーズンを制圧することはグランプリにとって日常風景のはずだ。メルセデスの時だけそれを認めないなんておかしい。
どうしてこうなってしまったのだろう。
アゼルバイジャンはバクー市外地を利用したストリートサーキットである。
旧共産圏が資本を受け入れた街にありがちな、綺麗だがどこか背筋が寒くなるような街並みでグランプリカーが走る。
リバティが推し進めるF1のイメージアップにふさわしいシチュエーションと言える。
ただ、市街地サーキットは退屈だ。
市街地が面白いのは、誤解を恐れずに断言してしまうがモンテカルロだけだ。
あれとて、レイアウト単体で見たら褒められたものでは無い。伝統と風光明媚なその立地がモナコGPに特別のポジションを与えているに過ぎない。
市街地戦は、基本単調になりやすい。
どこの都市計画で、130度前後の高速コーナーと、スリリングはヘアピン(その前にはじゅうぶんにスピードがのるストレート)、高低差のせいで縦Gまで感じるコーナーを一つの都市に作るというのだ。
サーキットが面白いのは、(面白かったのは)その土地の形にあわせた三次元的なデザインが施されているところである。
もちろん、マシンスペックがそれなりの場合は市街地戦はスリリングなものになる。
前提条件としてグリップを過度にエアロダイナミクスに依存していない、(相対的に)アンダーパワーである。タイアのグリップもそれほど高くない。なにより勝ち負けの要因がハードスペックよりドライバーのテクニックに委ねられている場合だ(イコールコンデションのマシンを使用するとか)。
そんな条件だと市街地戦は極上のエンターテイメントだ。マカオのF3やフォーミュラEはそれで成り立っているではないか。
対してミドルフォーミュラは上記の殆どに当てはまらない。唯一インディカーはギリギリのポイントでそれを成り立たせようとしているが、それだってオーバルを限界ギリギリで抜けていくあの快感には遠く及ばない。
ながながと書いたが、市街地戦は本来退屈なのだ。
バクー市街地コースも退屈だ。たしかに幅広な車線をつかったストレートな、従来の市街地コースには無い新鮮なデザインだが、基本的にラインどりにシビアであるF1であの広さは必要ないし、
そもそもDRSを効かせることで人為的なオーバーテイクが可能となった最近のF1ではあそこまで広いコースは無用である。
アルバートパークのような狭さでもDRSとKERSがあればオーバーテイクが可能であることは、立証済みではないか。
そこのコースをメルセデスが圧倒する。
だれもボッタスとハミルトンについていけなかった。
ボッタスは危なげなく勝利をものにして、コンストラクターズポイントではすでにフェラーリに対してダブルゲームだ。まだ開幕してから4グランプリだというのに!
たしかに今回のグランプリが退屈な理由はわかった。
だが、この退屈な感じは過去数年続いている。グランプリはバクーだけで行われているわけでは無い。
では、なぜ、こんなに退屈なのか。
断っておくがメルセデスはまったく悪くない。
筆者はフェラーリ贔屓だが、それを差し引いてもこの問題の要因をメルセデスに求めるのは間違っている。
独走を許しているのはライバルチームが不甲斐ないからである。
メルセデスだけが特別なテクノロジーを使っているのではない、レギュレーションは誰に対してでも公平だ。
他チームがレギュレーションブックを更に深いところで読み解き、ハードワークを行い、メルセデスより優れたクルマをグリッドに並べる、それだけでこの問題は解決するお話である。
だが、それだけでお話をすましてしまうのは申し訳ない。優れたクルマを作りたいのはどこのエンジニアも一緒だ。ただ相対的にメルセデスのフォーミュラワンマシンがそれより優れているというお話である。
ではどうしてここまで支持をされないのか。
それは(前回もこのワードを出したが・・)「物語性」に尽きると思う。
2000年代のワークス戦争時代、メルセデスはマクラーレンにエンジン供給という形で戦った。
フィアット(フェラーリ)は言うに及ばず、トヨタ、BMW、ホンダ、フォード(ジャガー)、ルノーはそれぞれその形に差異はあったものの、ワークスチームをもちグランプリを戦った。
しかしメルセデスはマクラーレンとタッグを組むことで、このワークス戦争を乗り切ったのである。
メルセデスが自前のチームをもったのはワークス戦争が終結し、焼け野原になった2010年のこと。ご存知ブロウンGPをバイアウトして体裁を整えたものがそれだ。
そしてブロウンGP自体、ホンダワークスの慣れの果ての姿であることは周知の事実だろう。
自動車会社が尻に帆をかけて逃げ出したあの時代、ワークスとして参戦することでグランプリの価値を維持してくれたという点は感謝すべきかもしれない。
だがそれよりなにより、奇跡のレーシングチームといわれたブロウンGPを買い取って自前のチームにしてしまった、その行いに我々は「物語性」を感じられなかった。
これがコツコツと自前のチームで2000年代前半から戦ってきた成果が今出ているというならば、そこになんらかの物語を見出すことができる。
レッドブルはどちらかと言うとそれだろう。ジャガーを買い叩いてチームを結成した出自があるとは言え、ヴェッテルの成長とレッドブルのチームとしての成長が綺麗にリンクしていた。
そこに物語は確実にある。
メルセデスの悲劇はその過程を吹っ飛ばしているところにある。いや、無論彼らなりの言い分はあるだろうし、大儀もあるだろうがそれは我々の知っている言語では書かれていない「物語」なのだ。
無論、メルセデスも分かりやすい脚本を書きたがっていた節もある。シューマッハとロズベルグというドイツ系で固めたラインナップなどわかりやすい。
だが、シューマッハが退場し後にきたハミルトンには、そこに説得力は無かった。
勝つべくために、必要な道具(ドライバーもこの場合は道具だ)を揃える。これは正当すぎる行為だ。むしろこれをやらないチームは叩かれてもしょうがない。
だが、それはあくまで参戦する側の論理であり、資本の論理である。
ファンはさらにめんどくさい。そこに応援するに足る理由を求めてしまう。それが今のメルセデスには足りなかった。
メルセデスはシステマチックで高機能でクリーンだ。それは彼らの市販車に通じるイメージだ。
そして今のF1もシステマチックで高機能でクリーン、そんな世界観でいこうとしている。
どこか非人間的なバクーの街並みを見ながら、彼らが行きたい世界と我々が大好きだった世界は離れつつあるのかなと感じた。
共産主義を捨て、資本経済を受け入れたアゼルバイジャンの姿は、時にそんなことも教えてくれるのである。
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