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☆16歳~現在49歳、運命数33を知らずに生きて来た!☆

【運命数とは】


生年月日から計算され運命数が分かります。詳しくは「運命数自動計算」と検索してみてください。

人は生まれ持った運命数があります。運命数から分かる宿命と性格!
生まれた目的や意味が秘められたナンバー

運命数33を知ったキッカケは、転換期後、嫁から聞きました。私も過去に生年月日から同じ様に調べており、運命数は「6」と認識していました。

この49年間、私の心は3回死んで、3回生き返って、3人分それぞれ違う性格の人生を経験したかのように思います。

運命数「33」の意味と数字のシンクロが凄い!

<あるHP抜粋し自分の体験から一部修正しました。>
数秘術における「33」という数字は、愛と癒しのマスターナンバーとされています。この数字を持つ人は、高いスピリチュアルな波動を持ち、人々を導くことに長けているとされます。しかし、この強力なエネルギーは、持ち主にとって大きな挑戦となることもあります。なぜなら、彼らはしばしば自己犠牲の精神に駆り立てられ、他人を助けることに自らを失いがちだからです。

【16歳~27歳、高校生から結婚まで波瀾万丈】

私が16歳、高校1年生の時に父親が他の女性と同居を始めたので、持ち家を出て行きました。

17歳の時に両親が離婚し、私の親権は母となり、私と妹と母親の3人で借家で暮らしを始めました。
持ち家(5LDK)2階建てから、借家(2DK)へ引っ越す事になり、今でもその時の風景が蘇ります。
これは潜在能力の一部だと思いますが幼少期から現在まで、心に残る映像が鮮明に蘇るフラッシュバック現象が度々起こります

離婚後は、生活保護となり、私も部活を辞めてバイトへ週末と各長期休みに行って、運転免許取得と車購入のために2年間で150万円貯めました。
毎日、冷蔵庫の中を見ては何も無く、危機感しか感じませんでした。
この時のトラウマで今も冷蔵庫を見てはその時事が度々蘇ります。
食事もカップ麺ばかり、バイト先のまかない料理が唯一の楽しみでした。

高校の成績だけは、1年1学期中間3位、期末2位、2学期から卒業まで、首席でした。大学進学も特待生で某有名私立大学へ推薦で行くことも可能でいたが、金銭面で諦めました。400万円はどう頑張っても稼げません。

そこで、母が毎日のように某インフラ会社は安定しているし給与も良いはずだからと言わんばかりに洗脳され入社しました。入社後は、私が18歳で会社の寮で暮らす事となりました。

入社して思ったこと仕事は自分から取りに行かず待っている方が大半で、この会社は、自分がやりたい仕事は無いの?と不思議な感覚でした。

そんな中私は、自分のスキルや成長のため、先輩の仕事のやり方を見て盗んで自らそれやりますの精神で仕事をこなしておりました。

そのおかげで転勤も同期よりも早くいろんな事業所へ行っては、グループ員の方との交友関係も良好でした。

私が20歳の時、幼少時からの親友が白血病で他界しました。
この時、初めて人の死について考えました。

自分も何れはと思い、悔いが残らぬように親友の分まで人生をやり抜くと決めました。

父親とは、20歳の時に再開し一緒に飲んだり、旅行へ行ったりと馬が合ったので、めちゃ仲が良かったです。

そこで真実が明かされました。
私が高校時代の苦しい生活保護の生活、毎日食べる物も大変だったことを話すと父はビックリして泣き出しました。

離婚時手放した持ち家は、購入時2千万円で売却3千3百万円、借金1千万円残っていたので、残り2千3百万円のうち1千5百万円を母へ渡したと言ってました。
父の話が本当か嘘かは分かりませんが、母から3人生活するのだからと請求されたそうです。
それなら何故あの苦しかった生活はとも思いましたが、過去は今ではどうすることも出来ないです。
ただ妹が18歳で家を出て彼氏と同居後、20歳結婚、その後離婚、2年前に再婚とこの時のお金の話は未だ話せず墓場まで持って行くと決めております。

私が25歳から交際して、現在の嫁と結婚し順風満帆の人生を送れるとおもった矢先でした。

【28歳~49歳、結婚から現在まで波瀾万丈】

仕事では、私が調査した報告書が上長が行った事へすり替えられ、美味しいところだけ奪われ、私は転勤させられる言う羽目になりました。

結婚して、長男が2歳になった頃、社宅から持ち家へ引っ越し、そこで、私の母との同居生活が始まりました。

この同居から不幸の連続でした。
新居へ引っ越してから半年後に家から200km離れた遠方の事業所へ転勤となり、母親だけ新居へ残し、我々家族は遠方事業所の社宅へ入居し、2重生活が始まりました。家電も買い揃え、週末は新居へ帰り家の片づけ(母親は汚すだけ汚し何もしない方でした。)と社宅と新居の移動生活は1年数ケ月が経ちようやく落ち着くかと思いきや母が帰って来るなり、太々しい態度で何で帰って来たと言わんばかりでまるで母の家に我々家族が割り込んだかのような態度でした。ここで私は毒親だったと気が付きました。

長女が生まれ、生活も忙しくなる中、依然母は家の事は嫁まかせ手伝う素振りも無く、母の用事だけ聞いて買い物連れて行けとか自分勝手が良すぎるので、フル無視が続いており同居とは、言えないありさまでした。
母には生んで貰った代わりに親孝行と思い同居を決断しましたが
同居前と後での態度は180度凶変、子守もすることなく自分勝手な振る舞いばかり、ご飯も作らずただ自分はパートしてるから忙しい(まるで父親みたいな振る舞い)の一点張りで協力もありませんでした。

嫁をお手伝いさんのように扱いこれでは家族崩壊寸前と思った矢先
私が夜勤から帰って来たら台所で嫁が倒れていて、それも見ないふりした母親に「人殺しか」私の口から出た瞬間「母親じゃなかったんだ」と気が付きました。もう私の中では他人でした。私の心は1回目死にました。

速攻で救急車を手配し約10日間嫁は入院しました。
その間に母には「人殺し」が、この家で一緒に住むことはありえない旨を言い家から出ていって貰いました。
そして、文書で親との縁切りにサインしてと言って渡したら、200万円払ったら押すと言われ、また幻滅しました。
私が払う訳も無く、親と縁切りの文書なんて、この世に無意味な事も承知で渡したのに最後は「金」で縁を切るとは毒親ならではでしょうね(笑)

最悪の同居生活は7年経過し終わりを告げました。
今後の連絡先も聞かず、同じ地区で住んでいることは知りました(スーパで見かけた)が、今生存しているのかは分かりません。

私が38歳、事業所を転勤し、その先上司から主任へ昇級させるから、嘘でも良いから報告書を作成しろと命令されこれまた拒絶、幻滅させられ人間不信となりました。
私の心は2回目死にました。

その後も部署を変わりましたがパワハラが数年続き、私が43歳の時いある上長から戻って来いと言われ復活しました。
この暗黒時代は、趣味のラジコンだけが私の生きがいでした。

私が45歳で他の事業所へ急遽転勤、転勤予定者が転勤先の上長との不一致となり休職したため、代替で異動させられました。
そこでもパワハラ上司で有名らしいですが、私には免疫が付いていたので、問題なく過ごせました。

私が47歳でまた他の事業所へ転勤し、数日後に父がこの世を去りました。
コロナ禍だったので、お見舞も数回しか会えず、父の念願だった妹との再会も果たし悔いは残ってないとは思います。

現在49歳、前回紹介[転換期]を見て頂く分かります。
創造者へのギフトを頂くストーリーです。

ギフトを受け取る前に私の心は3回目死にました。

長文ですが概要です。
まだ趣味やいろんな楽しいことも記事にしたかったので、次の機会に紹介したいと思います。

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