「眠り姫」(自意識の向こう側)
瞳を閉じるおんなの絵画は美しい。
ひとつ前に書いた「ダナエ」もしかり、バーン・ジョーンズの「眠り姫」しかり。
バーン・ジョーンズの「眠り姫」はクリムトの「ダナエ」とは真逆な雰囲気を醸し出す。違いながらそれぞれが美しい。
ジョーンズの描く乙女が、固い処女である雰囲気は直線のからだの線で現しているからではなかろうか。眠っている限り永遠の処女。
まわり中全てが眠りの世界。
瞳をとじたおんなを美しいと感じるのは
なぜなんだろう?と考えると、瞳を閉じることで外界との関係をシャットアウトしているようにみえるからだろうか。
無心に内側にこもる姿が無防備でもあり、コケティッシュでもある。
自意識の向こう側。
ただ見られている姿に美しいと感じるのだろう。そこには「同じ次元に生きている」という実感はみじんもない。
観賞用に、標本にされた蝶のような美しさ、と言えばいいのか。
ここまで書き、
川端康成の「眠れる美女」という小説を思い出す。
私はこの小説を出てくるおんなたちと同じ年頃に読んだ。
十代の私は当時主人公を老人だと思っていた。
今読み直せばおんなたちより主人公の方に近い年齢となっている。
老いを感じる中で去ってしまった若さを思い、恋しくあこがれもする。
老醜と書いてしまえばただ悲しくなってしまうが、外見の老化と内面の老化は比例しない。
こう書いてくると最初の瞳を閉じた話からズレるが、
映画「ベニスに死す」にも若さと老いの対比が感じられる。
そしてそれは生と死にも繋がる。
タッジオ少年役の男の子が絵画の中から飛び出てきたような美しさで
画面に出てくるたびに誰もが胸をときめかせたのではないか、
と思ったりする。
本当はもうひとつ瞳を閉じた絵画の話をしようかと思ったが、それは次回に……。
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