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山田裕貴くんのTwitterから全く関係ないけど死について考えた
仕事終わり
— 山田裕貴 (@00_yuki_Y) July 4, 2020
久しぶりに買い物に
商品があること
それを作った人
食材や
それを販売する人
なんかすべてに感謝だなと
行き交う人たちと
すれ違うだけでも
幸せに感じられた
これが日常なんだと
まだまだ安心できないから
気をつけながら
生きていることに幸せを感じながら
生きようと改めて思った日
7月のツイートで彼の人柄が伺えるものがあって、それに出会った私はとてもうれしかった。
それは推しが幸せだということを私たちに向けてつぶやいてくれたからだけど
勿論負の感情であっても受け入れて読みたいと思うけれど、やはり素敵な思いというものは増えるのだなぁと。多分裕貴君は本当に日常に感謝の気持ちを持ったのだろう。
新型コロナウィルスという目に見えないものに翻弄されていた、いや今も用心しないとならないし、ワクチンが出来ない限り消えない恐怖と背中合わせで過さないとならないことに変わりはない。
だけど今日こうして普通に店が開いていて、ものが自由に購入できる状態であることに感謝と幸せを感じるのは確かな話だ。コロナ前にはきっと誰も思いもしなかった。
本当はいつも死と隣り合わせている。いつどこで亡くなってもおかしくないのはどの人にも平等なのだが、そんなこと日々意識している人は少ない。むしろ自分が死なないと思っているくらいだ。
若い頃、金城武と言う俳優が好きだった。
金城武はウォン・カーウェイの「恋する惑星」で人気が出たと記憶している。広東語(香港ムービーなので)が分からない私には金城武の演技は面白かった。その後人気が出て日本の映画「不夜城」にも出ていたが、日本語で俳優活動はしない方がいいなと感じた。スタイリッシュで見た目はいいので映像的にはとてもかっこよかったのを記憶している。
その金城武で「ニューヨーク デイドリーム」という映画がある。
なんというか、ストーリー的にはうーーんなんだが、突然美しい死神に12時間後に死を宣告された主人公を金城武が演じた。
映画はお勧めする様なものじゃないのだが、なぜか余りな話の展開に忘れることができない。こんなへんてこな映画もあるんだなぁと思う。
日本の映画じゃないからいいのかもしれないけど、ちなみにここでも金城武の日本語のセリフはほんと見てられなかった。まぁいい。結局こんな風に書く私は本当に金城武が好きだったかどうなのか分からなくなるが、結局は中身はどうでもいいから外見だけ好きってところだったのだろう。
どうも話が脱線して先に進まない。
この内容で見ていて、もし自分が24時間後に死にまーす!って言われたらどうだろうか?
予告ありの死。お前はすでに死んでいるのケンシロウじゃないがこの世から半日したらいなくなるとしたらあなただったらどうするだろう?
私はと言えば変わらない気がする。まぁ、あがいても仕方がないと悲しみながらも諦めて受け入れることだろう。だって時間がもったいないし。
とりあえず朝主人に挨拶してから仕事場に行ってみんなに挨拶して仕事をせずに帰宅して、今なら家を掃除して子供と過ごしてその時を迎えるだろう。
当然時間的にそんなことしか出来ない。多分ここにも何かしらことばを残すだろう。
飛行機落下で死を迎える予告をされた人々が家族にメールを残す話もどこかで聞いたが、人間は死ぬ事が決められたら直前まで誰かにコンタクトをとろうとするんだろうなと思う。
それはきっと自分に対して良くしてくれた人や大切な人に対しての感謝なのではないかと思う。
私たちは日々を過ごす中で、こんな人生を過ごしたくなかったと思うこともあるだろう。
だけど死んでいくときはきっと生まれてきたことを良かったと思えるのではないかと思う。
なんの根拠?と思うだろうが「生きている」これ自体が絶対的な価値なのだ。
私たちは生きている限り自由な思考力がある。
それでは脳死状態の人は生きていないのか?脳死は人の死か?という問題。
私は以前は脳死は人の死だと思っていた。だから臓器提供をして誰かの命を救えるならそれで良いと思っていた。
はすな先生と話していて、死の時を迎えるとどうなのか?という話を聞いた。
スポットライトの様な光が見えそこに向かうらしい。その場所に魂が向かっていく時にからだの死は確定するのだが、脳死の時には魂はそのままその人のなかにとどまっているらしい。
からだを動かすというのにはとてもエネルギーを使うらしく死体となった場合、瞳を開くことさえ出来るエネルギーがないということらしい。勿論話すことも。で、三次元が用済みになった魂はからだを抜け出して異次元へと向かうことになる。
が、脳死の時はそのスポットライトがみえないから、からだに魂が残っている状態。からだから抜けきって戻らなければそれは死となる。
そんな訳で脳死であっても魂はそこにある。
まだ魂はからだから離れようとしないということは何かをしたいがためだと考えられないだろうか。
本人が諦める時が死の時なのかもしれない。
人は生きている限り幸せになろうともがくのではないだろうか?
近ごろそんな風に思う。でもきっとメーテルリンクの「青い鳥」ではないが、どんな状態でもこころの中に青い鳥はいる。それに本人が気がつくか気がつかないかだけの様に思う。
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