等身大でない、SFノート③
「完成」した予告編はこちら
①の「始まり」はこちら
②の「受け」はこちら
肝は<我慢してまで書くかどうか>だ。
自分は
我慢しない!(きんに君/一般人風)
飛躍かも知れないが「陶酔的逃避」が大事なのではなく、やはり陶酔=逃避なのだ
ここを踏まえレバ「深入りしない」「なんでもありの世界」を要約できる。
批判をせず完全に受け入れる
これです。
自分が小説に(体制的に見れば)億劫になっていること、留学の話も書きたいのに「恥ずかしいから書かない」と言っていること、そして”規制”の先鋒なのに「家族の話」を未だ書かないのはここに理由がある。
<鋭い方はこれだけでもうなんとなくお分かりかとも思う。>
規制だらけの○○で***の楽しく〜〜〜世界を描く
平たく書けば現代のサイエンスフィクションは
イカれた世界の話
でしかあり得ないと断言できる。。
嘘か真かはともかく「経済成長」みたいのを信じていた時代の作家なら「キ○ガイ」を昇華させればそれで良かったろう。
今は「サイコ」でも足りず「稲穂」レベルの人間でないと書けない。少なくとも見た目的には<立派>な人でないとサイエンスフィクションは書けない。
生まれつきの性質や生まれ育った環境だけが原因で、規制だらけの世界を描こうと思うほどの自分が「恥ずかしく」なるほど長期の留学などするわけがないのである。時代が一昔前の「さいえんすふぃくしょん(←)」から一巡しており、今はストレートに気○いにすらなれない。
一度「陶酔的逃避」を、陶酔=逃避と知っていながら挟むくらいの勢いで失速しないとここには辿り着けない。
つまり自分が完成形(・)だと言いたいわけだが、ここには勿論異論の余地がふんだんにある。(鹿市内
あとは、自分が認められたら、「こうこう」と書けば良いのであって、まずはこれだけを書かせて頂きたかった。
読んで頂きありがとうございました。カメ人