恩師の言葉たち
僕の周りには「教員」の仕事についている友人が多い。
大学院を卒業して、今年から教員の道に進む人も含めると、小学校の教員が6人、高校の教員が4人だ。友人の母数が少ないので、かなりの割合で教員の友人が締めていることになる。また、「教える」というカテゴリーでくくって、サッカーの指導についている友人も含めるとさらに多くなる。
ジム・ローンの「あなたの周囲5人を平均したものが、あなたである」という有名な言葉を借りてしまうと、僕はもう選手ではなくなってしまうのではないか。それぐらいに周りには教えることを得意、好きだとする者が多い。人間的に素晴らしい人ばかりなので、それぞれ教えられる立場の子どもたちを魅了していくに違いない。
僕も多くの教育者(教員・指導者)に影響を与えられたうちの一人である。その人たちがいなければ、あのとき、あのタイミングで、と思わざるを得ないことが沢山ある。そして、自分に影響を与えてくれた人たちの言葉や行動は記憶のどこかに保存されていて、ふとした瞬間に蘇ってくる。長くなってしまうが、小学校から大学までに出会った、恩師と呼べるような教育者から頂いた言葉を、思い出しつつまとめていくことにしたい。
小学校
小学生のある学年の担任だったS先生。近頃はコロナの影響で会えていないが、高校生のときに連絡をとるようになり、今ではご主人、子どもさん含め仲良くしてもらっている。迷惑とわかりつつ帰省前日に連絡しても、時間をとっていつも暖かく迎え入れてくれる。小学生時の担任であるため、15年以上も前のことだが、不思議なことに今でも覚えている言葉がある。(記憶違いだったら、ごめんなさい)
「外に出なさい。ここにいてはダメ。」
ジブリのワンシーンのような響きのある言葉で個人的に僕は好きな言葉だ。決して僕が外遊びをしなかったわけではない。僕は小さいとき「お山の大将」で、弱いチームの主役で強いチームに勝つことこそ美学だ、というよくわからない思想にとらわれていた。S先生はそんな僕に、「井の中の蛙、大海を知らず」ではダメだぞ、と小学生にもわかるように噛み砕いて教えてくれていたのである。そのときにはわからなかったが高校の時に県外にでて鼻をへし折られることになるので、もっと真剣に聞いておけば、、と思い返した記憶がある。
また、何気ない会話も子どもは覚えていたりする。それは給食の時だった。プロになるスポーツ選手は「人差し指よりクスリ指が長い」らしいという話をした記憶がある。僕の指を見て、もしかしたらあなたもなるのかもね、とふと言ってくれた。何気なく話のネタとして持っていたのだろうが、子どもとしては純粋に嬉しかった。理由はどうであれ、幼少期において自分のことを肯定してくれる存在は大切だ。先生、まだまだ底辺ですがなんとかプロで頑張っていますよ!
教員の意図やメッセージが子どもに伝わるには時間がかかる。時間のタイムラグを理解し、その時に完全に伝わっていなくても、子どもにタネを植えるようなイメージで接してくれていたのだと思う。コロナが落ち着いたらまた会いにいきたい、いや会いにいこう。
中学校
中学生のとき、一時的に学校のサッカー部が無くなり、僕はクラブチームに入ることになった。そこで2年半指導してくれたYコーチ。下手くそでサッカーのサの字も知らなかった僕を最後まで信じて指導してくれた。
サッカーノートを本格的に書き始めたのもこの時期。最近ノートを振り返ることがあったので、あるページを紹介したい。(僕の幼稚な試合の感想に関してのコメントは受け付けません。)
いきなりうまくなることはありません。
今、何ができるか。
今、何ができないのか。
自分のことをしっかりわかってそれに対して
必死にチャレンジしたら今はできないけど
1、3ヶ月後にできるようになるのなら素晴らしいこと。
ケイスケならできます。
最後まで信じてFW(点を取るポジション)で使ってもらった。教えられる立場として「信じられている」ときに発揮する大きなパワーを感じられた期間だった。そして、まだまだうまくなるよ、といつも背中を押してくれていた。「●●ならできる」というセリフは簡単に言えるようでなかなか言えない言葉。指導してもらう立場としては、1番嬉しい言葉なのかもしれない。
高校
高校は担任のH先生とサッカー部のコーチだったH先生。
まず、3年間担任をしてもらったH先生。基本、対面での対応は「塩対応」一本だったのと、僕自身宿題と授業がありすぎてあまり高校のクラスでの記憶は残っていない。でも、「文武両道」を少しでも体現しようとしていた僕を最後まで応援してくれて課外授業の調整をしてくれたり、試験の日程を調整してくれたり「生徒のために」を言葉だけでなく行動に移してくれた先生だった。
僕は3年間、創立者の名前が付けられた「徳野常道 賞」というスポーツで全国大会優勝かつ現役で九州大学以上合格で受賞、というあるかどうかもわからない賞を必死に追っていたが、実力不足で最後は受賞することができなかった。それでも、最後に卒業式の卒業生約800人の総代として卒業証書を受け取る役目が与えられた。それは、あとからH先生が推薦してくれた、という話を聞いた。最後まで感謝の言葉以外見当たらなかった。
◆
次に、体育の先生でありサッカー部のコーチだったH先生。
サッカーを理詰めで考えるキッカケをくれ、特に入学して一発目の合宿のMTのメモは、今振り返ると大切なメッセージばかりだった。
「実れば実るほど、頭を垂れる稲穂かな」
これを高3の最後まで持てていたら、、と後悔しても遅いけど、夏のインターハイ優勝を心のどこかで捨てきれないまま冬を迎え、結果的に目標は達成されなかった。失敗してから響く言葉は多くある。初心忘れべからず、そんな言葉もかけてもらっていたような気がする。これからも、常に慢心せず、教わった稲穂のように謙虚な姿勢でありたい。
大学
最後に、大学サッカー部の監督だったK先生。いろんな言葉をかけてもらったが、同期や先輩が同じく挙げているように、心に深く刻まれているのは、この言葉に尽きる。
「現状維持は、衰退」
みんながK監督について、インタビューや記事で語り尽くしているので、僕から特別伝えずともこの言葉の意味はわかる。だが、あえていうのなら、部員がその姿勢を目の当たりにしていることだけは強調したい。あんなに仕事・サッカーに真摯に向き合っている人を見たことがない。全国探せば沢山いるのかもしれないが、少なくとも僕の周りにはいない。
僕みたいに頭でっかちで、言葉が先行している人もいる。やはり、言葉で伝えるからには行動を伴わせなければならない。僕が在籍していた4年間、「シーズン最後の試合が一番良いパフォーマンスになるように」とずっと言われていたし、それが設計された練習の中でプレーしていた。そのためにどうしたら練習がうまくいくか、毎日微調整しながら選手のことを考えて指導にあたってくれていたのだと思う。遅くまで電気の付く研究室の明かりは今でも目に焼き付いている。
思い返すたびに、今、現状に満足していないか?と問うことのできるこの上ない言葉だと思う。僕が受けてきた言葉の多くは抽象化すればこの言葉に行きあたるのかもしれない。現状に満足するな。これからも忘れず、胸にしまっていたい。
これから
まだまだ書きたかった言葉はたくさんあるが、長くなってしまったのでこの辺で閉じたい。これまでのように、これからも指導者から多くの言葉を受け取るのだと思う。また、受け取った言葉は自分で噛み砕いて共有できたらなと思う。
そして職業に関わらず、いつか誰かの胸に何十年も残る言葉を伝えられるような人間になりたい。それが、今まで受け取ってきた教育者の方々への恩返しだと思う。バトンをつなげるように、頑張ろう。おう。