キース・ヘリングとぼく
キース・ヘリング。NYの地下鉄でのサブウェイドローイングからキャリアをスタートさせた、80年代ポップアートの申し子。エイズにより若干31才で夭折した天才アーティスト。ぼくはずっと、彼のアートが苦手でした。でも、最近になって彼の絵がすごく好きになった。今回は、そのいきさつについて書いてみました。(約5,400字)
キース・ヘリングが愛した街、表参道
先日、2018年8月9日から19日まで表参道ヒルズのギャラリーで開催されていた『キース・ヘリング生誕60年記念特別展キース・ヘリングが愛した街表参道』に行ってきた。
キース・ヘリングのコレクションの多くは山梨県にある中村キース・ヘリング美術館というところに収められている。
今回の特別展はそこからポスターなどのコレクションを持ち出して、さらにキースが表参道の路上でライブペインティングを行なった当時の写真を世界初公開のものと併せ一挙に展示する、という内容だった。
入場は無料、かつ撮影も自由というオープンさ。
会場では当時“ポップショップ”と呼ばれたキース・ヘリングのオフィシャルグッズ直販店も再現され、かなりの種類のグッズが販売された。
ぼくはそこで初めて彼の作品を包括的に観ることができたのだけれど、いずれも文句なく素晴らしかった。うん、アートというのはこうあるべきだよな、としみじみ思ったし、彼の博愛精神あふれる活動や人間味あふれるエピソードを知ることができて、少しほろっとしたくらいだ。
だけど、ぼくは昔からキース・ヘリングが好きだったわけではない。
むしろぼくはずっと彼の絵が苦手だった。
ぼくとキース・ヘリングとの間には、大きな隔たりがあったのだ。
お好きですか? キース・ヘリング
かつてのぼくが彼の絵に対して抱いていたイメージは、実にひどいものだった。
安っぽく、能天気。無自覚に暴力的で、繊細さを欠いた、悪趣味な絵。
どうしてぼくはそこまでのバッドイメージを持っていたのだろう?
いろいろ考えたり思い出したりしてみたところ、思い当たる仮説がふたつ出てきた。
まずひとつは、単純にぼくが彼の絵が持つパワーに圧倒されていたということ。
つまりキース・ヘリングのアートが発する有り余るパワーを、ぼくは押し付けがましいものとして捉えてしまっていたのではないか。
それに加えて、彼のアートスタイルを象徴するシンプルな人のフォルム。それは目鼻口といった表情は持たない代わりに、体の動きで感情を表現したものだ。
ぼくは、そこに本能的な怖さを感じていたような気がする。
でも絵そのものが持つこうした印象だけでは、先に羅列したようなイメージにはならないだろう。それを埋めるのがもうひとつの仮説なのだが、それを語るにはぼくの幼少の頃の記憶まで遡らなければならない。
それは、かつての日本のバブリーなイメージと無関係ではないからだ。
テレビ番組に取り込まれたキース・ヘリング
80年代後半から90年代前半にかけてのバラエティ番組全盛期。
バブルが崩壊して、それでもまだその余韻に浸っていた頃。
当時のテレビ番組のセットやロゴは、ポップアートからの影響が非常に大きかったと記憶している。
なんせぼくがまだ幼稚園とか小学生の頃の話だからあまりはっきりとは思い出せないのだが、具体的に言えばビートたけしやとんねるず、ダウンタウンあたりの番組が思い浮かぶ。
良くも悪くも勢いのあった当時のバラエティ番組を、ぼくもそれなりに楽しんで観ていたとは思う。けれど、善悪の区別もつかない子どもが見てもいい内容なのだろうか、という漠然とした不安もあった。
そこで繰り広げられていたのは、笑えれば何をしてもいい、という価値観に基づく、理性を欠いた世界だ。
安っぽく、能天気。無自覚に暴力的で、繊細さを欠いた、悪趣味な番組。
つまり、そうしたテレビ番組のイメージと、そのビジュアルイメージとしてのポップアートというものが、そのときぼくのなかで結びついてしまったのではないか。
そしてそれが、ぼくをキース・ヘリング嫌いにさせた原因のひとつだったのではないか?
これが、ぼくの考えるもうひとつの仮説だ。
キース・ヘリングとポップアートの役割
だけど、もちろんこれは誤解だ。
キース・ヘリングのアートを、例えば彼が制作した何らかのポスターを見れば、彼はそうしたテレビ番組のやり方に決して賛同しなかっただろう、ということはすぐにわかる。
意外に思われるかもしれないけれど、キース・ヘリングはそのピースフルなコマーシャルイメージと反して、アグレッシブで意味深な現代批判的アート作品も数多く世に残している。今回の特別展や画集で包括的に彼の作品を振り返ると、むしろそうした絵の方が多いような気がするくらいだ。
そのなかには、テレビ番組のようなマスメディアの持つ無自覚な暴力とステレオタイプによる偏見を暴き、正そうとしたものも決して少なくない。
彼は常に弱者の立場に立つアーティストだった。
そして弱者を守るために、アートで戦うことを厭わないアーティストだった。
そのことは、特別展で実際にポスターを見て、よりはっきりと感じたことだ。
しかし、彼のそうした絵がTシャツになったりすることはほとんどない。彼の絵には、より無害で、ほどよく無意味に見え、商品として扱いやすい絵がほかにたくさんあるからだ。
無防備なポップアートとしてのキース・ヘリング
彼のアートの持つエネルギー。キャッチーさ。
それを可能にしたのはあのシンプルさだろう。それはシンプルであるが故に力強いが、同時に模倣も生まれやすい。資本がキース・ヘリングのアートスタイルを利用しようとするのは当然の流れだ。
一般的に多くのアーティストは、自らの作品をそんな風に利用されないように、あるいは利用されても大丈夫なように、各自戦略を練って作品中にさまざまな仕掛けを施す。
例えば、生前キースも親しくしていたアンディ・ウォーホールやロイ・リキテンスタインといった、鋭い視点と賢さでポップアートの世界を開拓したアーティストたち。彼らは積極的にコピーという手法を用いることで、そこに大量消費社会への批判的な態度を加えることを忘れなかった。
その結果、例えばユニクロのTシャツに彼らのアートが使われたとしても、そこに残されたアイロニーは現代でもまだかろうじて有効性を保っているとぼくは思う。
彼らの場合、絵そのものというより、アートと社会に対する批評的な態度とそこから生じる距離感、それこそがアートの主軸を成していたように思えるからだ。
ポップアートをそのように定義した場合、キース・ヘリングの立ち位置は少しばかり微妙だ。彼はすべてのイメージを自分の手で作り出していた。彼の手にかかればアンディ・ウォーホールとミッキーマウスを合体させたアンディマウスだって、二次創作というよりまったく新しいオリジナルキャラクターになってしまうのだから。
前述したように、キース・ヘリングのアートに現代批判的態度がないわけではない。ただ「アートはみんなのもの」というモットーを持っていたというキース・ヘリングは、それよりも自分の絵を世界中にパンデミックさせることを第一に考えていたのではないだろうか。
そのために、彼はあえて無防備な絵を、模倣されやすい絵をたくさん描いた。
そんなときの彼は、まさに純度100%のポップアーティストだったのだ。
そして彼の思惑通り、世界中に彼の絵は広まっていった。
それは素晴らしいことではあるけれど、同時に「安っぽく、能天気。無自覚に暴力的で、繊細さを欠いた、悪趣味なものたち」に利用されることにもなってしまった。シンプルで無防備な絵を描き続けることは、誤解を生む可能性を孕んだ諸刃の剣でもあった。
本来持っていた毒やアイロニー、過激さ、もどかしさ、根の深い問題のむずかしさといったアートとして重要な部分はすっかり漂白されて、愛と平和ばかりが強調される、というのはどんなアーティストも避けては通れないお決まりのパターンだ。
特にそのアーティストの死後は、そんな現象がかならずと言っていいほど起こる。わかりやすい例を挙げれば、日本における手塚治虫だってそうだろう。
キース・ヘリングも、その流れには見事なまでにハマってしまった感がある。
“ポップショップ”の登場と敗北
生前のキース・ヘリングは、世界中の街角や印刷物に自分のスタイルを模倣したまがい物が溢れてきて、どう対応するべきか悩んだ時期もあったようだ。しかし、そこで彼は自らの著作権を主張してコピーを食い止めようとしたり、あるいは大企業と契約して自分のグッズを売り出したりはしなかった。
その代わりに、彼はまさにDIYのインディーズ精神を発揮して、自分たちの手でグッズを作り、売るということを始めた。
キース・ヘリングによる、キース・ヘリンググッズの直販店。
それが東京の表参道でもかつて存在した“ポップショップ”だ。
今ではアーティストがみずからグッズを作り、通販や即売会で売ることは珍しくないことだけれど、そうした活動に先鞭をつけたのはキース・ヘリングだった。
しかし、そこには敗北もあった。NYに続き東京表参道でもポップショップをオープンしたところまではよかったものの、すぐに出来のいい偽物があちこちで氾濫し、また大手百貨店からグッズの引き合いがあっても取引せずあくまで直販で売ることにこだわったため、結局一年も経たないうちに表参道店は閉店へ追い込まれてしまったという。
キース・ヘリングとの再会
さて。キース・ヘリングのアートに対しそんなマイナスイメージを持っていたぼくが彼の絵と再会を果たしたのは、長年に渡って勤めていた会社の食堂でのことだった。その食堂には、額縁に入った複製画が2枚飾ってあった。
1枚はパブロ・ピカソの描いたスケッチ。
もう1枚がキース・ヘリングの描いた絵だった。
ほとんど毎日彼の絵を見ている間に、ぼくはただの絵としてそれを見られるようになり、その良さが段々とわかるようになってきた。
あるとき、ぼくは服屋さんでキース・ヘリングの絵がプリントされたTシャツを見つけた。
それは、四つん這いになった人を描いた絵だった。
ぼくは常々「この絵はいったい何を意味しているのだろう? どうしてこいつは四つん這いになっているんだ?」と疑問に思っていた。
調べてみると、それは赤ん坊のアイコンであることがわかった。
どこへでも四つん這いで行こうとする、元気な赤ん坊。
彼の代表作のひとつである“Radiante Baby(光り輝く赤ん坊)”だ。
キース・ヘリングは、無垢な赤ん坊の持つ無限の力を、自らのアイコン代わりとして積極的に描いた。
NYの地下鉄に、世界中の街角や教会に、初めて会った人のTシャツやジーンズに。
彼が死の間際にあって最後にベッドの上で描いたものも、その"Baby"の絵だったそうだ。
そうしたことを知って、ぼくは一気に彼のことが好きになった。
28年後にのこされたもの
1990年2月、若干31才でエイズによる合併症でこの世を去ったキース・ヘリング。
彼が表参道の路上でライブペインティングを行なったのは、その2年前の1988年1月のことだった。
彼の没後28年がたった今、改めて彼のアートを見てみる。
今や、マスメディアがキース・ヘリングのアートを模倣することもない。
バブル時代の記憶も過去の彼方に追いやられた。
彼のアートをまっすぐ見るのに邪魔となるものはすっかり影を潜めている。
時が流れて、彼のアートの善き部分がよりはっきりと浮かび上がってきた。
おかしな話だけれど、ぼくは彼が生きていた時代よりも現在の方が、彼の絵を絵として見るのに適しているのではないか、という気がしている。
彼が描こうとしたものは、人々の自由さや、明るさ。
協調することと、愛し合うことの素晴らしさ。
それらをセレブレートすること。
そして、それらを守るために敢然と戦うこと。
その際には、決してユーモアを忘れないこと。
単純にそういうことなのだ。
表参道ヒルズでの特別展では、実に多くの若い人々が足を運び、壁一面に展示されたポスターに圧倒されてはスマホで撮影し、グッズを購入していた。
キースと生前関わりがあった人たちによるさまざまなエピソードも紹介されていたのだけれど、ほんの一瞬関わった人から一緒に仕事したような人まで、彼と出会った人は誰もが彼との間に素敵な思い出を持っていたのがとても印象的だった。
無防備で正直だからこそ、愛せずにはいられない。
彼のアート同様、彼自身も本当にチャーミングな人だったのだろう。
新たな時代のヒエログリフ
ぼくがキース・ヘリングのアートを見ていて思い浮かべるのは、古代エジプトの象形文字、ヒエログリフだ。
きっと古代エジプトにもキース・ヘリングのように圧倒的な才能を持った天才がいて、その人がヒエログリフの原型を完成させたのに違いない。
あのような力強いデフォルメの才能は、いくら人数がいたって年月を掛けたって、そうやすやすと生まれるものではない。
たった一人の天才だけがそれを可能にする。そういうタイプの仕事だ。
キースのアートには、そう思わせるだけの説得力が充分にある。
これからも彼のアートは、新たな時代のヒエログリフとして機能していくことになるだろう。
彼のアートを素直に見られるようになるまで長い時間が掛かってしまったけれど、今ではぼくも彼のアートが大好きである。
参考文献
1992年『キース・ヘリング』ジョン・グルーエン著 木下哲夫訳 (株)リブロポート