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【雑感】「異文化共生」が「他文化強制」とならないよう祈りたい。
(石破)首相は「ルールを守るのが大前提だが、みんなが守るとは断言できない。ルールを守らない外国人によって日本人の生命財産に危害が及ぶことは、日本国政府として断じて許されない」と述べた。その上で「ルールを守らない外国人と共生はできない。そのような方々に日本にいていただかないようにするのは、日本国の責務だ」と強調した。
(『産経新聞』2025年2月21日)
「郷に入っては郷に従え」って、何も日本に限った事ではないと思いますけどね。そういった意味では「ルールを守らない外国人と共生はできない」ってのは至極真っ当ですし、むしろ「ルールを守っている外国人が一番迷惑を被っている」と思うのですが、、
不思議と「不法滞在は不法ではない」とか脊髄反射的に騒ぐ界隈からこういった「遵法意識のある外国人」の話が出てくることは無いのですよね、某ウソ上さんとか。
さて少し前ですが、仕事の延長で地域共生を模索されている学生さんや地域住民の方々とお話しをする機会がありまして、そこでも概ね「郷に入っては郷に従え」ってのがベースにあったなぁ、と感じました。
トピックとしては、ゴミ出しとか夜中の騒音、路上駐車や駐輪、(電気)自転車やキックボードの歩道逆走とかいろいろありましたが、これは何も「外国人」だけがやらかしている話でもなく、地域住民全体の課題として偏在しています。
この辺り、今までは「自治会」といったチャネルを通してそれぞれのコミュニティに緩やかに浸透させていたのが、ここ最近は「言語の通じにくい」外国人コミュニティに"も"どう伝えていくのか、なんて話が出ていました、まぁ、現実路線でしょう。
もしかすると、私よりもやや年嵩の方々だと「県人会」なんてのをイメージされると、なんとなくイメージも付きやすいかも知れません、方言周りでの齟齬も含めて。それが最近では「○○国人会」ってのも増えてるんですよ、といった感じでしょうか。
結局行き着くところは「話が分かるコミュニティの代表」、日本語が通じるというのはもちろんのこと、「いわゆる"郷に入っては郷に従え"との価値観を共有できる代表」と話をし、その人を通してコミュニティの内部でまずは解決してもらうようにする、といった枠組みは本質的には同じではないかな、と。
要はコミュニティ、、狭義での共同体の自浄能力に先ずは期待ってことでしょう。頭ごなしに共同体そのものを否定もしないが、かといって無批判に受入れることもせず、比較的属性が似ている者同士でまずは解決させる。
その上で、自分たちの世代で解決できないことは、先人達の価値観(ルール)をまずは踏襲する形で昇華し、消化しきれないものは、どこかのコミュニティだけが不当に扱われる or どこかのコミュニティだけが特権的に扱われる、なんてことが無い事を前提とした上で、孫子の世代に渡していく感じでいいのかねぇ、、
まぁ、「守破離」ってのは時間がかかるものですし、かけるべきとも思います。
あけすけに言えば「自分の祖父母や曽祖父母の時代の価値観をそのまま無批判に、丸々と(考えなしに)踏襲していますか」と尋ねられて、「しています」と答える方はどの程度いるのでしょうか、少なくとも私は「していません」との回答になります。
永遠の不変なモノなんて、この世には存在しないのですから(無惨様になりたいわけでもあるまいし)。
例えば、ややふわっとした言い方になりますが、自分の両親に言われて(やられて)嫌に感じたことなどは、極力息子には言わない(やらない)ように意識しています(どこまで出来ているのかの、可視化された形での効果測定は無理でしょうけど)。一方で、そんなことをわざわざ両親にも伝えません。
それでも、息子からすれば私や家内に言われて嫌なことなどもあるでしょうから、それは彼自身が昇華して、彼の子ども(私らにとっても孫)に投影させていけばいいと思います。少なくとも、倫理的、法的にあまりに眉をひそめる様な振る舞いでなければ、そうそう強権的、押しつけがましく出ようとも思いません(意見交換はするでしょうけど)。
言い方を変えれば「今どきの若い者は」ってな感じになるのかもしれませんが、こういった感覚は古代ローマ時代から連綿とあった"愚痴"で、それが愚痴で済んでいるうちは「緩やかに変化していた」からだったのだろうなぁ、、と。
個人的にはこういった感性は「保守」って流れの延長にあるのではないかな、なんて風にも感じます。
わが国においては、古くは十七条憲法にて「和を以て貴しとなす」、近代では五箇条の御誓文でも「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と、皇統を主軸にして大切にされてきた価値観が根っこにあると思います。
そういった意味では、今の世代では大きなズレがあっても、三世代位かけて徐々に融合していけばねぇ、なんて風にも。少なくとも「皇統という軸」がキッチリと護られていれば、昔から良いとこどりの魔改造が得意(好き)な日本(文化)、そうそう一方的には飲み込まれないでしょうに、と。
そういった意味でも、今の時代に悠仁殿下があられますことに感謝し、そしてそれを大切にしていかないとなぁ、とあらためて。
秋篠宮皇嗣殿下や秋篠宮皇嗣妃殿下はお二人ともに博士を修められていますし、悠仁殿下も高校生であられながら既に査読論文を著されています。まさしく「智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」を体現されている方々ですから、このまま日本文化を体現されている範ともしていきたいとの祈りとともに。