コラム2~今年の「ものみの塔聖書冊子協会の年次総会」雑感
引き続き、次の予定記事「エホバの証人の歴史観と統治体(前後編)」が、難渋しており、息抜きに今年2023年10月の年次総会についての雑感を先に書きたいと思います。
今年は公式のストリーミング画像をリアルタイムで見ることができました。(これはかなりオープンだと思いました)。英語力の問題で、結局アメリカの掲示板などで文字起こしされたものや、話題になっているものを参考にして個人的に現時点で一番印象的だったことを2点だけを書きます。
1.奉仕報告が廃止(正確には簡略化)されたこと
これは、長老達に時間の過多を言われずに済むという面もあり、朗報と思う信者もいるでしょう。これは日本語公式でも既にアナウンス済みです。伝道しかたどうかをチェックし、研究の数を報告するという形だけになるのでしょう。(伝道者の場合)。まあそれでも実質的には報告は続きますが。
とはいえ、これも手のひら返しと言えばそうです。最新の「エホバの望まれることを行う組織」8章p80には、奉仕報告が重要であるということが「聖書的」な証拠を挙げて論じられていました。にも関わらず、「いらないの?」ということにならないのでしょうか。新しい光といえばそれまでですが。
ただ、私はこのことには別の理由があると考えます。これはあくまで私の勝手な推測ですが、タイミングが非常に重要だと思うのです。
近年、欧米の多くの国でエホバの証人の児童虐待問題が取り上げられ、訴訟も多くなっています。その際に繰り返し強調されているのは、エホバの証人が「組織として」子ども達を保護していないということです。公平を期して言えば、エホバの証人の個々人は子どもの福祉を気にかけており、会衆内でも子ども達を大切にしています。(その表現方法の是非は別にして)。しかし、ここで言われているのは組織の責任論であり、会衆が(組織として)子ども達が王国会館にいる間や伝道中に、責任をもって(危険や虐待などからの)安全管理しているかということです。
エホバの証人側の言い分としては、宗教活動はあくまで個人のものであり、会衆や法人組織はそのような責任を負うものではないというものです。しかし、このような論理は、北欧をはじめとして欧米諸国でかなり厳しい評価が政府によってなされています。(補助金の停止などをはじめとして)。日本でもジャニーズ問題や旧統一教会問題などと関係して、今後問題になって行くものと思います。
このような「個人」と「宗教法人」の距離感(責任)の問題が議論されてきた背景があり、エホバの証人は2018年前後からそれまで普通に使われてきた「成員」(Member)という言葉を使わなくなりました。(公式のマニュアルでも使用を禁止した)。
「エホバのご意志を行うための組織」(旧版)の4章では「会衆の成員」とありましたが、「エホバの望まれることを行う組織」(改訂版)の4章では「会衆の人たち」に変更されています。
なぜこのようなことが行われたかは明白で、「成員」(メンバー)とは、その組織の構成員であり、組織が責任を負うことになるからです。あくまで、会衆に集う信者は自発的にやってきた人達であり、会衆に管理されていないということを示す変更です。これによって、法的な責任を負うことを避けようとする意図は明白です。
もちろん、今回の報告の「簡素化」がこのような変更と同じ意図を持つものかはわかりません。単に、先進国を中心に減少が続いている統計的な報告を隠蔽したいという意図があるのかもしれませんし、善意を持って解釈するなら、余計な事務から長老や伝道者を解放しようということなのかもしません。しかし、何十年にもわたって「数字まで報告することが聖書的に重要である」と主張してきたことからすれば、かなり奇異な変更です。
2.「謝る必要はない」と言ったこと
今回の話なかで、統治体の新メンバー(統治体については「メンバー」はOK)ジェフリー・ウィンダー(Jeffrey Winder)の発言が非常に重要だと思いました。彼は見解の調整に関係して以下のように発言しました。(若干聞き取れない部分あり)。
かなり日本語訳があやしいですが、要は「以前の見解について謝罪の必要はない」というものです。これはあまりにひどい言い方で、あまりに無神経と言えます。(こういったことを言わないならまだしも)。
このような発言をする場合、自分達を神と同化させたことになり、自らを絶対化することになります。自分たちが不完全で過ちを犯すと度々言うにもかかわらず、このような発言はまったく矛盾します。本来ならば、「自分たちは神の経路として用いられるように努めるが、間違った場合は神の責任ではなく自分たちの責任だ」というのが筋なのです。
米国の掲示板redditを見ていたら、大変面白い指摘がありました。それは、ものみの塔2002年11月1日号の「なぜ謝った方がよいのか」という記事に矛盾するというものです。その記事にはこのような一節がありました。
今回の話は、この一文が巨大ブーメランとなって、戻ってきていると思うのです。わざわざ、「謝罪の必要はない」とまで言う必要があるでしょうか。ある種の危機管理として述べたのかもしれませんが、まったくの悪手でした。
以上2つの点だけ言及いたしましたが、「復活問題」、「大患難と救いのタイミング」など、いくつかの見解の調整もあったようなので、また来年1月(?)の日本語版の公開を期待したいと思います。
公式に提供される情報がこのような状況ですと、現役信者でも(このような「背教的」なnoteを見なくても)多くの方が違和感を覚えるのではないかと思います。
以上、「簡単な雑感でした。引き続き、次の記事に取りかかります・・。
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