5.エホバの証人の教理の考察⑬「高等教育について」~その1
序論
1.問題の本質
再入院等の体調不良で、頭の回転が鈍く論点がまとまらず、更新が滞りました。今回のテーマは書き始めてかれこれ半年以上になります。自分自身がエホバの証人二世であったゆえの強い思い入れ(後悔や被害者感情)もあり、冷静な思考が難しい分野でもあるからでしょう。結果、非常に冗長な論考になりました。独善的な部分も否めませんが、自分なりの思考の整理という意味で記録したいと思います。あまりに長文になったため、例外的に2回に分けることにしました。今回は「その1」です。
最近は所謂「宗教二世」問題もかなりクローズアップされるようになりました。国会での議論や新聞での報道など、遅きに失したという感じもしますが、良いことだと思います。日本でもエホバの証人二世の書いた本などがかなりの話題になっており、これも良いきっかけになるのではと期待しています。
ただし、注意すべきなのは、これらの本や情報の質は玉石混淆で、間違いではないにしても、あまりにデフォルメされているものも多いことです。(これには出版社の意向やプライバシーに関係した法的な問題もあるようですが)。また、組織の内部事情をあまり知らないままに書かれたものもあり、誤った情報も散見されるのは残念なことです。さらに、エホバの証人には以外と(特に昔は)ローカルルールが多く、地域差があることも見逃せません。非常にのんびりおおらかに育ったという人もいますし、恐怖の連続だったという人もいます。小さな社会である「会衆」やその運営をする長老団によってもかなり違うのです。私を含め元エホバの証人の証言が全て事実だと鵜呑みにすべきではありません。(私は事実だと思っていても、絶対はないので)。多くの証言を積み重ねて判断していただきたいと思います。
また、時代が変わったこともあります。昨今の報道で多いのは、過去の体罰の問題です。多くのニュース報道では、現在の問題のように扱われていますが、少なくとも2000年代以後の会衆で体罰を王国会館でおこなっている例はきわめて希であることも指摘しておきます。(これは上記ローカルルールもあるでしょうけれど)。私の育った頃は体罰は確かに存在し当然でした(物差しがいいとか、ホースがいいとか・・)が、それは学校等でも同じでした。(竹刀や木刀で叩かれても親が逆に陳謝するぐらいの時代でした)。また、私は近所のおじさんに叩かれたこともあり、それも地域共同体の性質でした。(それを「良さ」ととらえた時代でもありました)。
この点で今も思い出すのは、子どもの頃よく見ていたNHKの「大草原の小さな家」のワンシーンです。息子(アルバート)がお父さんに鞭で打たれるシーンです。お父さんはきわめて理性的で、「こういうことをしたときはどうするんだったか覚えているか」と言うようなことを言い、子どもも納得してむち打たれるというものです。子供心に、なるほどこれも愛情なのだなと思った記憶があります。ただ、これはもはや今では通用しない価値観ではあるのでしょう。また、実際の虐待事件を未然に防ぐためには、もはや(愛情かどうはは別にして)「体罰そのもの」を問題視すべき時代にもなったのでしょう。
この論考の前提として重要なことは、エホバの証人であれそうでない人であれ、何らかの価値観の影響を受けて生きているという事実をまず認めることです。その上でこのテーマを考えないと、独善的な価値観の押し付け合いになってしまうでしょう。何かを無批判に「絶対だ」と信じることには大きな危険がともなうのです。常識を疑いつつ、柔軟な発想で考えて行きたいと思います。
そして、ここで考える問題は「高等教育が重要だ」ということではありません。学歴がないと絶対不幸になるという話でもありません。ここで考慮する問題は以下のような点についてです。
【囲み1】このnoteで考える論点
ここで、公平を期すために申し上げれば、エホバの証人は教育そのものを否定しているわけではありません。また、あとでも触れますが、エホバの証人で大学に進学する人が絶対いないわけでもありませんし、進学すれば即排斥(破門)というわけでもないことも申し添えたいと思います。(これは次のnote「その2」でまた考えます)。また関連して、高等教育を受けるかどうかの選択は公式には「強制されるものではない」「あくまで個人の決定」とされています。ただし、この点は改めて実質がどうなのかを考えたいと思います。
このような前提のもとにこれからいくらかのことを考えてきたいと思います。
2.高等教育についてのエホバの証人の見解
教育についての近年の見解のまとめ
教育の目的に関する近年(既に30年経ちますが)の基調をなす記事は1992年11月1日号の「ものみの塔」誌の記事(※以下「92年の記事」と言及)です。もちろん、この記事以前から高等教育は厳しく批判されており、今以上にラディカルな時期もありましたが、この「92年の記事」はある意味でバランスを取った、内部的には「評判がよかった」記事でした。まずは、この記事から引用してみます。ちょっと長くなりますが、そのまま文脈もふくめて引用します。以下はものみの塔92年11月1日号内の「目的のある教育」と題する「研究記事」(集会での勉強会の資料になるもの)です。「教育に関する釣り合いの取れた見方」という18ページから始まる副見出し全体を引用します。
この「92年の記事」は、それ以前の論調と若干ニュアンスが違う部分のある記事で、あまりに極端な見解を調整し(ある程度)バランスを取った見解になっています。信者にも大方歓迎された記事でした。この記事の主要な点は「目的のある教育」という考え方を打ち出したことです。(この「目的」は結局はエホバの証人としての宗教生活というものではあります)。就職し自活するために必要な訓練が高校卒業後に「さらに」必要かもしれないことが示唆されました。同時に、あくまでこれは個人の決定であり、他者が批判すべきではないことも強調されました。
もちろんそうはいっても、基本的な部分は変わっていません。高等教育の不健全さや、道徳的危険についてはこれまで通り警告されています。続く部分の引用を掲載します。
ただ、上記引用の最後の部分で『中学、高校、さらには職場でも結局は同じ危険があるのは認めなければならない』と述べた部分は画期的でした。言い換えれば、この社会で暮らしている以上、「危険」は同じ(もちろん危険度は大学が高いという認識でしょうけれど)という認識の表明です。
この記事は信者たちに大きな影響を与え、人によっては「都合良く」解釈して高等教育の解禁かと言う人達もいました。(建築、外国語、医療などは「実用性」のある高等教育と「解釈」した人もいる)。確かに私も、この記事で若干ムードが変わったのを覚えています。
ただし、この記事が出て直ぐの12月(私のいた会衆での時期)に行われた巡回監督(いくつかの会衆を管轄し定期巡回する監督)と会衆の長老の会合の際には、これは「大学教育の解禁ではない」とはっきり釘が刺されたことも鮮明に覚えています。
その後10年ほどは、同じようなトーンでしたが、2005年ごろからかなり論調が変わってきます。(昔に戻ったという言い方もできます)。2005年10月のものみの塔の記事です。
基本的に「92年の記事」を踏襲しているように見えますが、全体的なトーンはきわめてはっきりしており、「もってのほか!」という雰囲気が強くなっています。この記事は、出典部分をみてもわかるように、親に対しての記事で、親が子供にどんな教育を望むのかという趣旨で書かれたものです。
この年(2005年)の雰囲気については、次の項目で引用するR.フルリの回想もご参照ください。
そして、これ以降も同じような記事が続きます。少し飛んだ2013年の記事を以下に引用したいと思います。
最期の引用は、公式サイト内の質問コーナーにある記事です。なので、これが現時点での回答であるとも言えます。
ここでははっきりと「高等教育はモラルや神様との関係を損ないかねない」と断言されています。表現はソフトなのですが、「そのような環境に置かない」とはっきり述べられています。
以上の資料で言及されてきた事柄をまとめますと、大まかにわけて以下の3点になります。
【囲み2】エホバの証人の高等教育への考え方
この3つの点は、後ほど本論(4以降)の中で考えたいと思います。
3.その実態と批判
では本論に入る前に、この教義についての実態を考えたいと思います。
日本の実態
まず、客観的なイメージとして日本の状況を最初にまとめてみたいと思います。日本はやはり真面目な国民性もあって、高等教育に関する否定的な見方が諸外国以上に徹底していると思います。
特に、正規開拓奉仕者(全時間伝道者。生計を立てるためアルバイトなどをしながら伝道を中心に生活する人達。主婦も多い。「要求時間」という伝道時間のノルマがある)の比率は、最大信者数を誇るアメリカでは15%ですが、日本は、信者数にたいして30%という割合を「誇って」います。(この数の主要な部分を担うのは主婦ですが)。ちなみに、開拓者比率がダントツで多いのは、台湾、タイ、韓国などで、韓国の40%台を筆頭に、30%以上の割合になります。やはり経済だけでなく国民性が関係しているのでしょうか。さらに補足しますと、ヨーロッパは個人主義が激しいせいか、開拓者の割合はアメリカ並みかそれ以下です。(スペイン、イタリアが15%で、イギリス、フランスが10%強、ドイツやスイスになると10%を切るという差あり。2021年調べ)。
以下に、日本のエホバの証人の「イメージ」を箇条書きにしてみました。
実際は、上記のように多様であり、厳密な意味で選択が不可能なわけではありません。しかし、基本的に「若者が進むべき道」ははっきりと示されており、「模範的信者」と見なされるためには、その「組織からの提案」に従って進路を選択することになります。組織内に「居場所」を求める場合、常に「進歩」し「模範的である」ことが求められるからです。
もちろん、若いころから意欲的で熱心な信者は、自ら進んでこの道を選択します。何か圧力をかけられて決定したとはまったく考えない人も多くいます。(気づいていないだけかもしれないが)。なので、実際多くの若い信者たちは生き生きと伝道生活をしており、男性であれば、援助奉仕者(旧奉仕の僕)~長老という道(悪く言えばヒエラルキー)を進むことや「日本支部(ベテル)での奉仕」などを夢見ながら生活をしています。ただし同時に、そのような「レール」を歩むのが負担になったり、自分を押し殺すことになる若者も一定数確実におり、大きなストレスを生むことにもなります。結果として組織から早く離脱する人もいますし、(私のように)中年になってから悩んだあげく離脱する結果になる場合もあります。(第三の道として、なんとなく楽しくやって行くというスタイルの人もいます)。
次に、実際の統計を見てみたいと思います。日本では信者数が少ないため、第三者による調査は知りませんが、以下の米国での調査について考えたいと思います。
米国の調査結果
定期的に宗教についての調査をしていることで有名な、アメリカの調査会社ピューリサーチの米国についての宗教調査で、エホバの証人は学歴が非常に低いことが数字でも明らかになっています。以下は2014年の調査です。(詳しい主要宗教に関しての全国的調査は公開されているU.S.Religious Landscape Survey 2008などを参照)。
以上のように、エホバの証人の高等教育否定の教義は、忠実に守られていることがわかる一方、必然的に所得は低い結果になっています。
学歴に関してもう少し補足すると、エホバの証人で専門学校レベルの学校を出た人は25%、大学は9%、大学院は3%という調査結果です。ここにはもちろん、信者になる前に得た学歴である場合も多く含まれるので、注意は必要です。ただアメリカの場合、既に4世、5世と代々エホバの証人だという人も多いので、そう考えると日本以上に信者になってからの学歴の反映であるとも言えます。また米国の場合、日本ほどパートタイムの仕事に恵まれているわけではないようなので、高校卒業後そのまま就職しつつ信仰を続ける人も多いという違いはあります。この点はアメリカより日本が教育に関する問題が深刻=被る影響が大きい・・ということを示すものです。
ここで、公平を期すために提示したいのは、精神的な幸福度や心の平安についての調査です。
この調査結果は、素直に受け入れる必要があるでしょう。ただ、これはキリスト教国であり個人主義が激しい米国での調査結果であり、日本の場合は、ある種の集団心理が「忠実さ」には反映されるものの、「幸福度」という点では米国より落ちるかもしれません。いずれにしても、エホバの証人は「すべて」不幸であるなどと私は決して言うべきではないと思っています。(自分がどうであっても・・)。不幸になる人「も」いるというのが正確なところです。ともすると「そんな宗教していると不幸になるよ」と言ってしまうことがあるかもしれません。しかし、これは結局主観同士のぶつかり合いになるだけなので、あまり建設的な言い方とは言えないでしょう。
ロルフ・フルリの批判
最近私が気になっているニュースで大きなものは、別の論考でも取り上げましたが、エホバの証人の「御用学者(セム語の専門家)」(BC607年の教義など)でもあったノルウェーのロルフ・フルリ氏の排斥です。2020年の近著「MY BELOVED RELIGION — AND THE GOVERNING BODY」では、特に高等教育否定の教義を批判している部分がありました。
フルリは信者として高等教育を受け、後にオスロ大学で教鞭を執るようにもなった人です。(地域監督も経験)。旧約やセム語の専門家であった彼を「便利に使っていた」のは「統治体」でした。にも関わらず、異論を唱えるようになると、直ぐに排除されてしまいました。そんな彼が上記著作で高等教育に関して意見を述べています。(ただ彼は今でもエホバの証人の教義全てを否定しているわけではない)。
彼は、前述の「92年の記事」が、平衡の取れたものだったと評しており、その後の軌道修正を厳しく批判しています。ものみの塔誌2005年10月1日の記事(既に引用)についても批判し、高等教育が有無を言わさず否定されていることを嘆いています。
彼は教育者として、統治体が高等教育を「闇雲に」否定することを批判します。実際に高等教育を受けた自分やエホバの証人の若者の例、大学教育の実態や教育とはどうあるべきかなどが論じられています。ここでは一部のものみの塔の記事への批判だけを参照したいと思います。以下は、彼の書籍からの情報になります。(英語力の不足からの誤りがあればお詫びします)。
上記2005年のものみの塔誌が発行される直前の2005年5月22日には、イタリア(ミラノ北部モンツァ)における地帯監督の訪問イベントがありました。(地帯監督は国よりも大きな管轄区域を監督する。世界本部から統治体メンバーなどが派遣される場合も多い)。この際、統治体のゲリト・レッシュが、高等教育を厳しく批判したことが記されています。彼は話の中で、「そのような『危険な行為』は、自殺しようとして生き残る確率に等しいと」まで言ったのです。レッシュは正確には「ライフルを買って、口に入れて引き金を引いたが助かったようなものだ」と言ったとのこと。これは表現も不謹慎ですし、高等教育は「ほぼ絶対に許容できない」と言ったことになります。
同じ2005年のベルギーでの地帯訪問の際に、地帯監督として訪問したD.スプレーンの話も報告されています。そこでも例えが話され、ダビデがゴリアテに立ち向かった例が話されました。ゴリアテに対応するような試練の一つとして経済問題が指摘され、世間は高等教育がその対策になると言っていると話は続きます。しかしスプレーンは、この終わりの日に何年間も高等教育に時間を用いるなら、エホバの組織から引き離されてしまうと警告したと言います。その際、前記の「92年の記事」(「目的のある教育」の記事)に言及しました。スプレーン曰く、その記事では「高等教育」という言葉は一度も使用しておらず、あくまで「補足的な教育」という言葉が使われたと。(しかし、前記引用の通り実は「高等教育」という言葉は使用されている)。スプレーンは、「補足的」というからにはその教育はあくまで数ヶ月から1年程度、あるいは必要ならさらに若干というレベルのものだと主張します。さらに、高等教育を受けても就職には役に立たないことを力説します。フランスのパリでは配管工が足りないそうだが、コンピューターサイエンスの学位を持っていても、壊れた配管を修理することはできないと皮肉るのです。これもあまりにひどい議論です。確かに、大学を出ても就職できないという事情は多くの先進国で存在します。しかし、同時に良い教育を受けていた方が就職にやはり有利だというのも事実なのです。
2005年にこのような話が各地で統治体の成員によってなされたのはやはり意味があり、その年のものみの塔(前掲)に示されているように、組織が高等教育への見方を(さらに)厳しくし始めたと考えることができます。
今回、「92年の記事」についてのフルリの説明を読んでいて、恥ずかしながら初めて気づいたことがありました。それは、92年の(場合によっては許容される)「補足的教育」の中には明らかに「大学教育」が含まれているということです。もちろん、この92年の記事の「解釈」として大学教育も許容されるかもしれないという理解はありました。しかし、上記フルリの説明によれば、記事では(解釈ではなく)きちんと「文章で」示唆されていたのです。たとえば、「学者風を吹かせてはならない」というような戒めがなされていますが、「補足的な教育」に高等教育が含まれるからこそ警告されたのです。機械の操作を学ぶようなことだけが「補足的教育」だった場合、それだけで「学者風を吹かせる」ようなことにはならないでしょう。また、文脈を見ていると、「職業訓練」と「補足的な教育」は対比されていて、ぼかされているとは言え、「補足的な教育」は、多くの場合高等教育(やそれに準ずる教育)を指すと読めるのです。おそらく当時の執筆者や統治体もおおっぴらに「高等教育も場合によってはあり」とは書けなかったのでしょう。そう考えると、やはり92年の記事はかなりバランスが取れた記事だったということになるのでしょう。(それでも否定的であるには変わらないのですが)。上記の2005年のスプレーンの言い方は、過去の公式な記事を頭から否定はできないが、詭弁を弄してなんとか否定しているという感じが明らかです。否定するなら堂々と否定すれば良いのです。このような「言い訳がましい」ごまかしの態度が問題だと思います。(ちなみにスプレーンが統治体に任命されたのは1999年ではありますが)。
さて、ここまででエホバの証人の実態やそれについての批判について考えてきました。特にこれまでの組織批判は、教義や寄付、スキャンダルなどに関係したものが多かったと思いますが、今回のフルリの教育者の視点からの批判は重要な視点ではないかと思います。しかし、組織内からの批判の声に耳を傾ける余裕も誠実さも、今の統治体にはないでしょう。
本論:
4.エホバの証人の見解を検討する
前置きが(大変)長くなりました。ではこれから本論に入りたいと思いますが、もう一度、冒頭に掲げた「エホバの証人の高等教育への考え方」を以下に簡略化してまとめておます。(これは、インデックスの【囲み2】の囲み記事と同じです)。
これから、この3つの主張について、一つずつ考えていきたいと思います。それぞれの主張の具体的な根拠については、既に引用したものみの塔の記事をご参照ください。(「教育についての近年の見解のまとめ」の見出し)。いずれも重複する議論があり、若干冗長になっておりますが、ご容赦ください。
4-1.「教育はあくまで、自活や宗教活動のためのもの」という見解について
最初に引用した「92年の記事」でも述べられていたとおり、エホバの証人の教育の目的は「できるだけ多く,できるだけ効果的にエホバに仕えること」です。それゆえに、大学での教育は自活にはほとんど役立たないので、自活のための技術を身につける職業訓練などを推奨するということになります。エホバの証人の教育とは、ある意味で職業訓練であるとも言い換えることができます。
この、「自活するための教育」という主張自体はある意味では正しいでしょう。読み書きの能力などから始まって、基礎的な学力は確かに就業して自活するための重要な能力です。そして、「教育は自活できる最低限のものでよい」というのも、「宗教活動の為のものである」というのも確かに自由ではあります。
しかし、ここで重要なのは、その選択の自由があるかどうかということです。子供はまだ将来の可能性に満ちているので、ごく初期から選択肢を閉ざしたり、選択の幅を狭めるのは後々後悔を生むかもしれません。実際には、経済的な事情や健康など様々な事情で、進学を始め思うように行かないことがこの世の中にはたくさんあるでしょう。しかし、「もし許されるなら」、「選択できるのなら」自由に決定する権利が担保されていることは重要です。これはまた4-2、4-3の論点とも関係してきますが、何が正しいかを親の価値観だけで決めてしまうのは問題があるということです。親は良かれと思って子供にいろいろなことを教えますし、その責任もあるわけですが、子供も一つの人格であり将来を自分の意思で決めて行かなければならないのも事実です。
重要なのは、教育を何のために受けるのかを選択する権利だといえます。
もちろん、こういった選択ができるのは、日本が豊かで治安も良いからかもしれません。世界には義務教育すら受けられない子供や児童労働の問題などが引き続き存在しています。ただ、ここでは少なくとも日本のことを考えています。
「大学に行きたいけど、信仰故に断念する」のではなく、「大学に行きたいから目指す」とか、逆に「自分は大学には行きたくないので就職する」であって欲しいのです。そして、もちろん「自分はエホバの証人として伝道生活を送りたいので、進学はしない」と決めるのも自由です。ただし、そこに圧力がないことや、しっかりとした信念があっての話です。逆に言えば、そのような確固とした信念をまだ持てないのであれば、決定を先延ばしにするのも重要だと思います。
教育の多くは就職や自活することに直結しないものも多いです。哲学や宗教、歴史などを学んでも、それが直ぐに職業につながるケースは少ないでしょう。しかし、これらは見識を広め、心を豊かにする教育です。であるなら、宗教的な進路を取るエホバの証人の若者達にこそ、そういう「無駄な」教育を受けて欲しいと思うのです。(これは次の4-2でも考えます)。
さて、1番目に考えた論点は、一般社会やメジャーな宗教でも起こりうる問題であり、これだけなら(周りの反対があっても)本人の自己決定であるなら自由だということになります。芸能界を目指す人も経験するかもしれませんし、寺院に出家したり修道院に入ると宣言する場合にも経験するかもしれない問題です。しかし、以下で続いて考慮する、2つの点(「4-1不健全だから」とか「4-2終末が近いから」)は、いずれも単に本人の自由だという風に片付けられない問題を含んでいます。
4-2.「『不健全な教え』に汚染される」という見解について
「不健全な教え」を吹き込まれるという理由が高等教育否定の最も大きなものだと言えます。前出の記事の中では「クリスチャンの親は子どもを4年もしくはそれ以上の間、あえてそうした環境に置くべきでしょうか」という一節がありました。
エホバの証人がよく使う例えも、このような考えを反映したものです。それは、「子供を車通りが多い危険な場所で遊ばせる親はいない」というものです。つまり、高等教育はそのような危険な場所に子供を放置することであると考えるのです。
たしかに、保守的な宗教の立場からすると、「余計な知恵」をつけることは信仰を損なうものだと考えるのも理解はできます。保守的キリスト教であれば、悪魔サタンの計略にはまるものだということになります。(関係する聖句はいくらでも上げられるでしょう)。そもそも、高等教育に限らず、「背教的」な教えに非常に過敏であるのが、キリスト教の伝統でもあります。初期教父のポリュカルポスは、新たな教えを説いていたマルキオンに「サタンの長子!」と面罵したと言われますし、後にはガリレオのように、実用的学問と神学の境を少しでも越える(と判断される)と異端の嫌疑をかけられることにもなりました。
しかし、もはや現代社会においてそのような情報統制は少なくとも自由主義国家では不可能です。玉石混淆ではあるものの、今では様々な情報にアクセスできる時代になっており、一般社会と違った価値観を信じるのであればなおさら、まずは調査が必要なはずです。そもそも何が「不健全」なのかを判断するためには、広い見識も必要なはずです。そうでなければ、(特に現代においては)それは信仰というより盲信です。また、本当に「真理」(つまり真実)なのであれば、高等教育を受けたとしてもびくともしないでしょうし、ますます確信が強まるはずです。子供はいずれ大人になって「車通りの多い通りを」一人で歩かなければならないのです。
特に以前にも取り上げた「リベラルな聖書学」や「進化論」などは大学における「不健全な知恵」の筆頭かもしれません。このような学問に警戒するのはエホバの証人の子弟に限らず、保守的なクリスチャンも同じです。大学でそのような学問に接した「敬虔な」若者達の当惑について、以前も引用した新約学者のバート・D・アーマンの著作からちょっと引用してみます。
もし、エホバの証人の若者たちが高等教育を受けるなら、確かに上記のような戸惑いや拒否反応を経験するかもしれません。(もっとも、上記学生たちは保守的クリスチャンであっても、進学を否定されているわけではないのですが)。
もちろん、この問題を考えるにあたっては、(私のような)批判する側(リベラルな側)も注意すべきことがあります。上記アーマンの言葉の続く部分に、こんなことが書かれていました。
私も、「エホバの証人の誤りを示すような情報」に接するとつい、本能的に賛同したくなり、いわば「鬼の首を取ったような」気持ちになるときがあります。しかし、そんな時には注意が必要なのでしょう。聖書が述べるように、人は自分が聞きたいことだけに耳を傾ける傾向があります。(テモテⅡ4:3)。私も注意しつつ、この論考を続けたいと思います。
いずれにしても、何が「不健全」なのかや、聖書がほんとうに信頼に足るものなのかどうかを判断することは、やはり広い知識を学ぶことで始めて可能になるものです。引き続き、アーマンの言葉を引用します。
アーマンのこの考え方は非常に重要だと思います。彼は師匠であるB.M.メッツガー(新約本文批評学の大家)よりもかなりラディカルな研究者だと思うのですが、それでも上記のように注意しながら学生を指導しているのを見ると、考えさせられます。
現役の信者だったころを思い返してみると、聖書が信頼できる理由を「組織の提供する出版物」だけを調べ、納得し、感動すらしていました。しかし、ほんの少し聖書学の世界を「のぞき見」した私は大きなショックを受けました。聖書学者の意見すら玉石混淆で、学説も多種多様なのです。(地球は平らだという学者すらいる)。エホバの証人が引用する学者たちはほぼ例外なく「保守的」で「護教的」な学者です。そしてかなり古い時代の人だったりもするのです。アーマンが述べるように「先入観や結論を疑って見る」のが大切なのでしょう。別に特定の学説が絶対ではないですし、聖書をすべて否定することも極端です。冷静な議論のためにも、「不健全」とされる学術書も読んでみる価値はあるでしょう。何が正しいのかを求めて読む必要はありません。むしろ、諸説がたくさんあって、何が正しいかがわからないという部分が重要なのです。聖書はそれほど絶対的なものではないという発見が大切だと思います。
エホバの証人の教育は洗脳なのか
ここで重要な点について考えたいと思います。
このような教育方法は「洗脳」になるのではないかという意見もあるでしょう。この点に関しては研究している学者たちの意見も分かれています。私個人(経験者)としては、「洗脳」とまでは言えないという意見です。(ただ、言葉遊びや言葉狩りのようになるのも良くないので、あまり厳密には考えないようにしていますが)。このような意見に異を唱える方も多いと思いますし、それも尊重されるべきだと思います。ただ、「洗脳」は多くの場合暴力や監禁、閉鎖環境での強制や繰り返しによる思想改造を意味します。広辞苑でも「新しい思想を繰り返し教え込んで、それまでの思想を改めさせること」となっています。子供の場合まずは白紙状態からの教育であることや、語源となったと言われる中国共産党の思想改造の収容所のように閉鎖環境でもないわけなので、安易に「洗脳」という言葉を使うことは慎むべきでしょう。
また、マインドコントロールという言葉もあります。これも数十年前の旧統一教会問題のころから多用されるようになった言葉です。広辞苑では「個人や集団を催眠状態に導き、暗示をかけて自分の意のままに操ること」と書かれていました。多くの場合、本人が気づかないうちに、特定の思想や思考パターンに誘導する行為を指すように思います。ただ、この言葉は学問的にはまだ仮説の域を出ず、心理学や宗教学などにおいては懐疑的な学者も多いことを忘れてはいけないと思います。この言葉もエホバの証人にそのまま当てはまるかと言えば、私はかなり懐疑的です。
同様に、「カルト」(米国)や「セクト」(欧州)、「新興宗教」(日本)などの語の用い方にも注意が必要だと思います。(この詳しい定義に関してはここでは立ち入らない)。ちなみに、アメリカでは6大カルトにはエホバの証人は入っていません。(旧統一教会は入っている)。エホバの証人はどこに行っても「有名」で反対する人も多いわけですが、アメリカにおける信仰の自由の確立に果たした役割が欧米ではかなり高く評価されてきたことが関係しているように思います。ただし、昨今の人権重視の欧州などではエホバの証人への見方が厳しくなりつつあるのも事実です。
宗教学者の島薗進氏はエホバの証人についてこのように述べています。
当事者として、このように冷静に評価できるかは別にして、この意見は多くの学者たちが述べる一般的なものではあります。
また、キリスト教諸宗派を始め多くの宗教は「異端」という言葉に非常に敏感で、他者を批判する武器にもなってきました。そのために多くの血が流れてきたのも事実です。このような態度は結局エホバの証人と変わらない排他的思考であると思うので、私は「異端」は使わないようにしています。
そのそも、キリスト教はその初期から外部からの批判にさらされてきました。たとえば、2世紀の哲学者ケルソスは、キリスト教への痛烈な批判をおこないましたが(オリゲネスの「ケルソス駁論」に引用されて残る)、その中でもキリスト教徒は子供を改宗させて家庭崩壊を招いていると批判しています。これは教育問題とは直接関係ありませんが、家族への影響という意味では注目できる記録です。このように、批判自体、昔からある問題だという理解も重要です。
私は、このようなレッテル貼りになりやすい言葉はできる限り避けるべきだと考えています。似たものにAC(アダルトチルドレン)などという言葉もあります。これは学問的実態というより、ある種のレッテル貼りであり、差別や自己正当化、自己嫌悪など様々な悪影響があると思われます。
世間はセンセーショナルな表現を好みますが、まず重要なのは彼らにレッテルを貼るのではなく、理解することです。法的な問題を考える場合でさえ、この前提があった上で何ができるかを、ともに考えて知恵を出し合うのがよいのではと考えます。
大切なのは、見聞を広げることであり、偏った情報だけに頼らないことです。私たちは宗教を持っていなくても日々いろいろな価値観に接し、それによって思考が形作られます。無意識に思い込んでいることもたくさんあります。ある意味でこれも特定の思想に染められていることにはなります。ただ、重要だと思うのは、それを「疑って見る」ということです。ナショナリズムなどが良い例でしょう。子供のころから相手を憎いと教えられれば、そう思うようになります。この場合でも、その憎しみの理由を疑って見ることは重要です。懐疑主義になるのも問題ですが、広い視野を持つことは今後ますます重要になるのでしょう。
このような点を踏まえて、エホバの証人の教育や「しつけ」は、どう評価できるでしょうか。私は「押しつけ」(圧力)と表現したいと思います。もちろん、エホバの証人の親たちは子供達の自由を尊重していると言うでしょうし、多くの親は子供を心から愛しています。ただ、親の期待が圧力になったり、気づかぬうちに「押しつけ」になる場合はあるものです。「親のレール」という言葉があるとおり、世間一般でも親は子供に期待し、愛情からよかれと思うことをし、場合によっては価値観を押しつけます。これは多くの人達が通る人生の一場面でもあります。エホバの証人のような宗教二世の場合は、その束縛が普通以上に強いケースが多いということです。
この問題に関係してエホバの証人の特徴を挙げると、エホバの証人は社会との軋轢が多いにもかかわらず、オープンな環境で子育てをおこなう、と言う点があります。そんなに「世の者にならない」という教義を実践したいなら、アーミッシュのように村を作り、輸血をしない病院を建て、武道や進化論を教えない学校を運営して生活すればいいわけですが、そうはしないのは本当は矛盾です。しかし、少なくとも「村」にこもってしまうよりは社会との接点がある方が子供の可能性をつなぎ止めるチャンスにはなります。ただ、このような姿勢は結局子供に大きなストレスを与えることになっていることも忘れてはならないと思います。
この点についての追記:
(この箇所は、この論点を長い時間をかけて書いているなかで最後に追記したものです。私の思考の変化という意味で、「追記」と明記しました)
ただしです。最近わたしは、エホバの証人の組織の中に、「洗脳」に近いと言える要素が芽生え始めていることを感じています。(それでもこの言葉自体はまだ不適当だとは思っています)。それは、JWブロードキャスティングの、子供向けの番組です。これは2011年ごろから放映されている、カレブとソフィアのシリーズです。公式の解説では、90年代にはアニメ制作の要望はあったものの、却下されたようです。(この意味では、旧統治体はまだ良識があったと言うべきか)。しかし、現在では10年以上この番組が制作され続けています。
私は正直苦手な絵柄のアニメですが、楽しんでいる子供達がいることも否定しません。しかし、冷静に内容を考えて見ると、思考を鼓舞するより感情を鼓舞している要素が強いものです。最近その傾向はさらに強くなったと思います。そのため、子供に関して言えば「洗脳」に近いという言い方をすべきかもしれません。私が最近驚いたのは、2022年の年次総会で放映されたアニメです。(この記事を書き始めた時には日本語版がなかったが、2023年1月に公開済み)。
アニメ冒頭で、エホバの証人の子供である主人公は、クラスのみんなが同じようなキャラクターグッズを持っていることに気づきます。そして、先生までも胸にキャラクターグッズの「缶バッジ」をつけているのです。これを見た時になんとも恐ろしい気持ちになりました。それはもはや戦時中のプロパガンダアニメのようです。つまり、エホバの証人以外の「世」の人達は何か悪いもの一色に染められている敵であるというイメージを植え付けます。人間はもっと多様なものであり、その多様性を認める社会の恩恵を受けているのがエホバの証人です。しかし、このアニメではエホバの証人以外みな「全体主義者」のような描かれ方をしています。また、これまでのアニメもそうでしたが、「悪役」の描き方が非常にステレオタイプで、人を善悪に簡単に分けて考える思考を植え付ける危険があります。ヒーロー漫画やファンタジーの世界の話ならまだしも、現実世界を描くアニメの表現方法ではないと思います。結果的にこのようなアニメ番組は誤った考えを早い時期に植え付けてしまうと危惧します。おそらく一般社会でも(例えばNHK教育放送などで)このような教育番組があったとすれば、かなり問題になるはずです。こういった問題は、少なくともアニメのような教材に頼らず、親子の打ち解けた会話の中で話し合われるべきことです。このようなアニメは逆に、この「世」の人々への偏見を子供達に植え付ける可能性すらあります。
このnoteで高等教育というテーマを考えていますが、組織が以前にもまして先鋭化していることを危惧します。これは組織が「狂信化」しているというよりも、むしろ体裁は昔より良くなり、メディアも多用して一般大衆に「すり寄っている」かのようですらありながら、内部で進行している問題です。改訂された「新世界訳聖書」はむしろ一般のキリスト教の翻訳に近づき、ITを多用する様子はおしゃれな宗教という感じすらあります。
ただそれでも、世間がエホバの証人を見る目は非常に厳しくなっています。これは世界的に宗教への懐疑があると同時に、人権意識の高まりも重要な要素になっています。
客観的な見方をすれば、宗教の変化速度が、時代の変化に追いついていないということなのでしょう。ここ数年でも常識と思われていたことがもろくも崩れ去る様子を見てきました。エホバの証人のような宗教には「伝家の宝刀」があり、「それこそ終わりの日のしるしだ!」ということになるのですが、それでもフォローしきれない速度な気がします。なんとなくですが、(筋金入りの信仰保持者は別にして)一部のエホバの証人は「呆然と立ち尽くしている」感じがします。児童虐待など人権に関係した問題は特にそうで、「心ある人達」はなんとなく内部に居ても違和感を感じるようになっていると思います。
もちろん、世界が混沌とするなかで宗教をよりどころにする人が逆に増えているという面もあり、単純には語れない部分はあります。それでも、以前は(古き良き)保守的な考え方として一定の評価を受けていたことでも、「人権蹂躙」と取られるようになっています。エホバの証人はこの点で今後大いに試されるでしょう。たとえば、児童虐待そのものはエホバの証人各個人が憎むことですが、指導層の問題の扱い方には社会的に見ても大きな問題があることが指摘されてきました。今後は、「昔は許されていた」ようなことでも、問題とされることが増えてゆくでしょう。
そして、私が危惧しているのは、大人も含めて、文字を読んで思考する習慣が衰退し、映像に感情的に反応する時代になり始めていることです。高等教育の話からは若干ずれましたが、昨今の組織の傾向を危惧していることを追記させていただきます。
さて、ここまで考えてきたのは、何が「不健全」なのかということでした。その点で親が子供に広い見識を持つよう促しているかがとても重要だと思いました。親が子供に期待したり願望を抱くのはもちろん、間違いではないでしょう。それは人情です。しかし、親が「真理」を見つけた!と確信する場合でも(動機は愛情からであっても)、親の考える「真理」が子供にとっても「真理」であるのかどうかを、しっかり見定めるための時間と教育が必要だということです。
かなり長くなりましたので、ここまでで前半とさせていただきます。冗長な記事になりまして申し訳ありません。冷静な議論になっていない部分もありますがご容赦ください。以下「その2」に続きます
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