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人生で一番泣いた日

去る7月13日。大好きだった父が亡くなった。人生100年時代と言われている現代、70歳というのは少し早い死なのかもしれない。

あまりにも突然のことで、しばらくは現実を受け入れることができなかった。

いや、意図的に受け入れようとしなかった、というほうがしっくりくるのかもしれない。

ようやく少し落ち着いてきたので、あの日のことを忘れないために。

父のことを忘れないために。

書き綴っていこうと思う。

元々、父は酒・たばこが大好きだったが、3年ほど前の健康診断で不整脈があると診断されたそうで、それをきっかけにたばこをスッパリやめた。

「77歳まで生きたい」と口癖のように話していた。どうして77歳なのかは後で知ったことだが、私からみたら祖父に当たる父の父が77歳でこの世を去ったため、その年齢を超えたい、というのが理由だそうだ。健康診断で「このままたばこを吸いすぎるとあと10年も生きられない」と医者に言われたそうで、一日ひと箱吸っていたたばこをやめた。禁断症状などが全く出なかったそうで、そのあたりは芯の強さと「77まで生きる」という強い意志が禁煙を成功させたのだろう。

不整脈があるとはいえ、普通に仕事してたし、半年に一回は私の住む山梨まで来たりとアクティブな人生を送ってきていたし、逆に私が実家に帰った時は、「やよい軒」のチキン南蛮定食をご飯お代わりで完食するくらいだし、「これは暫くはまだ大丈夫そうだな」と安心しきっていた。
だから、万が一のことなど話したこともなかったし、話そうともしなかった。

少し前の、2019年4月末。

ゴールデンウィーク前に私が東京へ帰った時。そんな健康体の父が「最近、年のせいか歩くのがかったるくなってきた。息切れするようになった」と弱気な事を口にするようになった。一緒にやよい軒行った時も、半分以上ご飯もおかずも残していたので、少し心配していた。

が、当時は「まあ、本人が年のせいって言ってるんだから」とあまり気に留めなかった。小食になったのも加齢が故だろう、と思っていた。

ところが2019年6月末。運命の歯車が狂い始める。

毎週日曜日、私は父の携帯に電話をするのが、山梨に来てから10年の日課だった。大したことではないが、声を聞く・聞かせるだけでも親は安心するというし、お互いのメインレース(←競馬)の本命馬を言い合う、というのが何よりの楽しみだった。

6月30日も、いつも通り電話をかけるが、いつも5コール以内には出る父がなかなか出ない。やっと出たかと思えば、かすれた声で「体調が悪いから寝てる」と。ただ、それだけ。

いつも20分くらい話しているが、1分もまともに話せないので流石に心配になり「明日病院に行きなさい。街中の病院じゃなくて、大きいところでシッカリ診てもらったほうがいい」と言って電話を切った。

7月3日。兄からLINEが入る。「父が7月2日から入院してます。不整脈ではなく心不全です。予定では2~3週間くらい。拝島の〇〇病院です。大変かもしれないけど一度お見舞いに行くように」と。

心不全・・・なんか嫌な寒気がした。「死」を連想させる病気だし、身内や知人がかかる病気の中でも聞きたくない病名の一つではないだろうか。

仕事の都合で、お見舞いに行けたのは7/8だった。思った以上に元気だった。「多少の食事制限はあるけれど、状態は安定している。お前の言った通り、病院変えて良かったよ」と言ってもらえた。
まだ長い時間話すと息切れを起こすが、主治医の先生は「急性ではなく、不整脈からくる慢性心不全なので、安静にしていれば大丈夫。状態も安定しているので、週明けにも点滴を外して、注射での治療に切り替えてリハビリを開始しようと思います」と言っていた。

一時間くらい父のそばにいて、他愛もない話をして「拝島から甲府は遠いんだから。そろそろ帰りなさい」と言われ、「じゃ、また近いうちに来るから」と言って別れた。

まさかそれが、父と会話した最後の言葉になろうとは、この時考えもしなかった。何故かというと、3週間後には退院できると言っていたし、私もそのつもりでいたからだ。

帰り際、病院の入口で主治医の先生に呼び止められる。「実は一点だけ心配な点がありまして。血の塊が脳にいかないか・・・それだけが心配なんです。」と。

・・・そして7月11日。その心配事が的中してしまう。

登録していない電話番号から着信がある。私は登録していない電話番号には出ない主義なので、出ないで放置。その間にネットで電話番号検索をすると、「八王子〇〇病院」とヒット。

・・・八王子?と思っていると、兄からLINE。「容体が急激に悪化して、八王子の〇〇病院へ転院した。もしもの時のために、病院へは、お前の電話番号も教えておいた。今病院にいる。帰ったら電話する。大事な話をするから必ず出ろ」、と。

夜勤前で寝ていたが、もう寝るどころではなかった。兄からの電話を待つ。

電話があり、出る。内容は要約すると「恐れていたことが起こった。脳出血を併発した。取り敢えず集中治療室からは出たから、お見舞いは出来るが会話はできない。今日か明日、行けたら病院へ行ってくれ。そして主治医の話を聞け。質問したいことがあったら考えておけ」と。11日は夜勤だったので、12日に行くことを約束して電話を切る。
夜勤中は、ただただ、病院から電話来るな。兄から電話来るな。と思いながら仕事をしていた。

7月12日。仕事を終えて、八王子の病院へ直行。
病院で見た父の姿は、4日前に見た姿とはかけ離れていた。何本もの管で繋がれ、機械から酸素を最大値にまで供給され、ようやく呼吸ができる状態。
血圧もかなり高く、脈拍は200オーバー。
直視することが出来なかった。

主治医の先生と挨拶を交わし、CTを見せてもらう。
昨日の夜勤中、脳出血についてネットで調べていたので、ある程度「脳出血の画像」の知識は仕入れていたつもりだったのだが、ハッキリ言って、想像と違った。思わず口に出してしまった。

「・・・アカン」と。

左側(右脳)が、真っ白だったのだ。(出血しているところが白くなる。)
主治医からは、「今日から2、3日がヤマ。ここを乗り越えたとしても、脳の状態から二度と意識が戻ることは無い。残酷かもしれないが、変に期待を持たせるよりもハッキリと伝えることも慈悲だと思う」とズバリ言われた。
その時点で私と兄は覚悟を決めた。

7月13日。運命の日。
元々ヴァンフォーレの試合のため休みを取っていたので、甲府には帰らず実家で一晩を過ごす。
が、いつ病院から電話が来るか不安で、ロクに眠れなかった。
兄と母は仕事へ出かけたので、14時くらいに家を出て病院へ向かう。
忘れもしない。14時39分。電話が鳴る。病院だ。嫌な予感がした。
「お兄様と連絡がつかなくて・・・非常に危険な状態です。すぐ来てください!」
もう、豊田までは来ているので、あと20分くらいで着きますと言って、すぐに家族に伝える。
15時05分。病院で面会の手続きを済ませたら、明らかに昨日と様子が違う。すぐ内線?で、「次男様が到着されました」と伝えられ。
病棟のあるフロアに着くと、エレベーター前で看護婦さんと主治医の先生に「お待ちしておりました」と出迎えられ。
案内されると、昨日は開いていた病室のドアが閉まっている。
看護婦さんに開けてもらうと、昨日までの苦しさから解放され、眠るように・・・今にも眼を覚ますんじゃないかと思うくらい安らかな表情で息を引き取った父の姿があった。
「貴方に電話をした直後でした。あと20分と伺ったので、頑張ったのですが・・・すみません」と。
主治医の先生に深々と頭を下げられる。

受け入れられない、肉親の死という現実。
一番想像したくなかった、見たくなかった場面。
頭が混乱して、その時は泣かなかったな。
兄が来るまでの時間、主治医の先生は病室を離れ、残った看護婦さんと少し話をした。が、すぐに父と2人にさせてくれた。

数十分後、兄が到着。改めて主治医の先生から「最後の診察を行います」と、心拍・呼吸の停止を診断してもらい。
ドラマとかで聞く「7月13日。◯時◯分をもってご臨終です」と通達される。

このとき知ったのだが、死亡時刻というのは、医師や家族が看取った時間ではなく、この死亡診断を行った時間が正式な死亡時刻になるのだそうだ。

悲しんでいる暇はない。病室は直ぐに明け渡さなければならない。その場で葬儀屋を手配し、いざ病院を出発。改めて主治医の先生と看護婦さんに頭を下げられた時に、緊張の糸が切れたのか一気に泣いた。人目もはばからず。
良い先生、良い看護婦さんに当たって良かった。

帰りの道中、兄も私も無言だった。
SNSでヴァンフォーレ甲府の勝利を知った。
歓喜に沸くツイッターとインスタグラムに少しだけ元気をもらった。
これが無かったら、気が狂いそうだった。

「一旦気持ちを落ち着かせるために甲府へ戻る。15日の葬儀にまた来る」と言い残して帰ったけど、帰りの特急の中〜翌朝まで、ずっと父のことばっかり考えていた。この日の夜は一睡もしなかった(出来なかった)な。
眠れないので、今後の手続きをネットで調べていたらまた涙が出て来た。
ほんの2週間前まではありえなかった事態。
直視したくないが直視しなければならない、肉親を失ったという現実。

あれから2週間経ったけど、あまり切り替えの早い方ではないので、完全に立ち直るまでは、もう少し時間がかかるかもしれない。

ここまで読んでくれた方へ。
声を大にして言いたい。

親は大切にしてください。親元を離れている方は特に。
万が一の時の事は、家族が元気なうちにシッカリと話しておいてください。不謹慎?いや、大事な事です。今は、エンディングノート(終活ノート)というものがあるらしいので、書いておくのも良いでしょう。

何か体調の変化を感じさせる言葉を発したり、目で確認できたら、強制的にでも医師の診察を受けさせましょう。
4月末、食が細くなった。息切れするようになったと聞いたときに、無理矢理にでも?病院へ行くように言っていたらと今でも後悔しています。
もしかしたら、これが予兆だったのかもしれない。その時に病院に行っていたら、今頃こうならなかったのではないかと今でも考えてしまいます。

色々書き綴って、少し落ち着きました。ここまで付き合ってくれてありがとうございます。






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