敢えて情弱であること
知らぬが仏
という言葉があるが私は好きだ。
今の世の中は情報化社会で、
より多くの情報を得て
それを適切に扱うことができるものが勝者となる仕組みだ。情弱などという言葉がネットスラングであれ日常的に使われていて、
彼らが明確な敗者として位置づけられてしまうのがいい例なのかもしれない。
どう扱えるかが重要というか、全てとも言えるが、
その前提として、情報社会の勝者となるために
多くの情報をインプットする必要性があるというのもさして違和感はない。
では多くの情報を得て、
知ることばかりではどうなってしまうかというと、
そこには失望が待っている気がする。
芸能界と反社会勢力との癒着、政治汚職、ステルスマーケティングの発覚など例をあげれば枚挙に暇がないが、我々は知ってしまったが最後、失望することが多い。
悪しき情報は過去を破壊する。
これが大変にたちが悪い。
ステルスマーケティングの例をとってみれば、
いいなと思った商品を買ってそれを長らく使い、
その時点で満足感なり幸福感なりを得ていたとしても、
一度ステマが発覚した途端、
消費者は「騙されていた!」と感じ、
結果、過去に得ていた経験まとめて失望感や絶望感に置き換わる。当時得たのは満足感なのにだ。
もちろん、騙す側に問題があるのは言わずもがな、
知る側が完全なる被害者で、一切責任がないというのも私は頷けない。
知らなければ、
知ってる側からすればいいカモにしか見えずとも、
当人においては楽しめるのだ。
知ってしまうから失望するのだ。
極論になるので補足すると、
当然知ることでいい面もたくさんある。
基本そうだ。やっぱり現代、基本は知るが仏だ。
しかし、
何でもかんでも知ろうとしてあれやこれやに手を出すと、たまに潜むバツを引かされ絶望する。
知らなくてもいいと思えることは無理に知ろうとしない、
その塩梅を伝える能力がないのが悲しいのだけれど、
時として情弱であることを受け入れること、
そんな姿勢も今日生きとし生けるわたしたちには
大切なのではないか。
駄文失礼、気が向いたらまた。