遊戯三昧(ゆげざんまい)の意味を考察する~禅の世界~
遊戯三昧(ゆげざんまい)という言葉を知っているだろうか。
現在、西麻布にあるバーのオーナーバーテンダーである島地勝彦先生から教わった言葉です。
シマジ先生はそもそも週間プレイボーイの伝説的な編集長であり100万部の売上をたたき出した実績がある。
そのシマジ先生のコラムを好んで拝読していたところ「遊戯三昧」というワードが出てきた。
元をただせばシマジ先生のメンターの1人である今東光大僧正のお言葉だそうだ。
今回はこの「遊戯三昧」というワードを深堀りしていく。
まずはネットで調べた。
goo辞書によれば
「自由気ままに遊びほうけること。物事にふけって、夢中になること。もとは仏教のことばで、何ものにもとらわれることなく、自由であること。」
だそうだ。
表面的な意味である。
次に浄土真宗本願寺派の理解を調べてみた。
「日常生活に関わることすべてを遊びのように徹してやろうということです。何かにとらわれることなく、遊ぶことも遊び、働くことも遊び、どんなことも遊びとして受け入れるのです。このように悟った人には遊びと仕事の区別がありません。」
「人生は、楽しいことばかりではない。興味のないことや都合の悪いこともたくさんある。目の前のすべてのことを全力で遊ぶのです。不真面目で適当というわけでない。「今日が最後の日」と生きる姿。」
「阿弥陀さまは「遊ぶように」私たち凡夫(煩悩を抱え苦しむ者)を救い、それが楽しみと説かれています。」
ちょっと意味が変わってきたのがわかるだろうか。
辞書的には三昧は夢中になること。遊戯は遊ぶことなので2つのワードの意味を単純に合体させたことがわかる。
浄土真宗的には遊戯三昧を1つのワードとして捉えている。
ただし、夢中に、全力でという点は共通している。
ではいよいよ。今東光大僧正はどのように考えられていたのだろうか。
「青春も人生も人間も、遊戯三昧の境地にならにゃあ、真の人生も人間も青春もわかりゃしねえんだ。だから大いに遊べ。遊戯三昧で、遊んで遊んで遊びつくせば、何かに突き当たってつかむものがある。とにかく人生は遊戯三昧よ。スポーツも恋愛も勉強もな。それに没頭しつくして、とことんやれば必ずなにかがある。だからそこまで行け!
『遊戯三昧』と書いて壁に貼って、オレの教訓だと思ってやんなよ。」
凄い。言葉の力がすごい。もともと禅語なのでロジックの世界ではないことが薄っすらと理解できる。
あえて言語化するならすべてを全力で楽しみなさいとでもおっしゃっているのであろうか。
藤原東演住職の見解はこうだ。
「我を忘れて、無心に遊んでみないか。仕事も、趣味も、生活でなすことも、さらには人生の運不運もすべて遊び心で生きることがすばらしい。」
「遊びは何かのためにという目的がない。その成功とか失敗なんか関係がない。成果など計算したら、それは遊びではない。人の評価も気にする必要がない。ただやることが面白い、楽しいからやるのである。」
続けて、山田無文老師。
「働くことがそのまま遊びなんです。人のためにすることがそのまま遊びなんです。苦しい目に逢うこともまたそのまま遊びなんです」
無文老師は臨済宗だが浄土真宗の考え方と類似している。
他者への救いが遊びであると説いているのだろうか。
さて。
引用をこれ以上続けてもキリがないのでそろそろ考察を始めよう。
はじまりを確認する。
『遊戯三昧』は禅の書「無門関」の「趙州狗子」に登場する言葉だ。
「あたかも一箇の真っ赤に燃える鉄の塊を呑んだようなもので、吐き出そうとしても吐き出せず、そのうちに今までの悪知悪覚が洗い落とされて、時間をかけていくうちに、だんだんと純熟し、自然と自分の区別がつかなくなって一つになるだろう。これはあたかも唖(おし)の人が夢を見たようなもので、ただ自分一人で体験し、噛みしめるよりほかないのだ。
ひとたびそういう状態が驀然(まくねん)として打ち破られると、驚天動地の働きが現われるだろう。それは、まるで関羽の大刀を奪い取ったようなもので、仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺すという勢いだ。この生死の真っ只中で大自在を得、迷いと苦しみの中でも遊戯三昧の毎日を楽しむようなことになるだろう。」
無門関は禅の中でもメジャーで古典な書であり、書いてある内容を確認すると「悟り」について結構ダイレクトに述べている。
つまり、禅の中でも重要な書の中で重要な禅話の締めに使われている言葉だ。これは大変なことになってきたぞ。
ところで。
無門関をはじめ、禅の書は何冊か読んでみた。また、偉いお坊さんの禅問答の解説書も何冊か読んだことがある。
解説では例えば犬に仏性はあるか?「無」その意味は・・・・ とか、
パンと打った柏手。この音は右手からでたか左手からでたか?「心の内から鳴っている」とか。
多分、禅問答は引き金であって解説や答えに意味はあまりないかもしれない。腹落ちという言葉があるが、問答の答えは感覚的なもので言語化できるものではないと思う。
私の中国拳法の先生がたまにたとえ話をしてくれた。
その話の1つで
「師は牛を水飲み場へ連れていくことはする。そこで水を飲むかは牛次第だ。」
という話がある。
恐らくこれと同じ話。
このたとえでいえば禅問答は水飲み場へ連れていく行為であり、悟りのきっかけなので段階や個々人によって正解は異なるだろう。老師は個々人の回答のみでなく様々な観点から観察したうえでその弟子の考え方や認知、意識の現在地を測り、答えるのだろう。
一方で落語の蒟蒻問答のとおり、市井では馬鹿にされることが多い禅問答。
確かに悟りに何の意味があるのだろう。私も蒟蒻屋のおやじと同じだ。
ただ、一休禅師の逸話は面白いしわかりやすい。
まずは一休という名前の由来から。
禅の公案『洞山三頓棒』を紹介する。
洞山(とうざん)という坊さんが、長い旅の末、ようよう雲門禅師の
所にたどり着き、入門を乞うた。
雲門に「どこから来たのか」と問われて、洞山は「査渡(さと)より」と
答えた。すると「昨夏はどこで過ごしたか」と重ねて問われ、
「湖南の報慈(ほうず)です」と答えた。更に「そこを出立したのは
いつか」と問われて「8月25日」と答えた。すると、雲門は
「汝に三頓の棒を放(ゆる)す」 と。
「一頓」は20発を意味する。
つまり「60発。棒で殴ってやりたいところだが、今日はこらえておいてやろう」
正直に答えたのに「棒で殴られる」とは?
洞山は、何がなんだかさっぱりわからない。一晩苦しみ悩み
考えても解けない。そこで翌日、また雲門の所へ行き、
「私のどこが間違っていたのでしょうか」と問うと、雲門は、
「禅の盛んな江西湖南を廻りながら、この無駄飯喰いが!」と
大喝した。そこで洞山は大悟。
これに対して一休禅師が出した答えが以下。
「有漏地より無漏地へ帰る一休み 雨ふらば降れ風ふかば吹け」
有漏地は煩悩や俗世。無漏地は清浄な悟りの世界を指す。
これを聞いた一休禅師の先生である華叟和尚は一休の名前を彼に与えたそうです。
おわかりいただけただろうか。私はさっぱりわからない。
もうひとつ。
山伏 「仏性はどこにあるか」
一休 「この胸三寸にある」
山伏 「さらば、その胸を切り裂いてやろうか」
一休 「年ごとに咲くや吉野の桜花木を割りてみよ 花のありかを」
こちらはわかりやすい。
どこかの禅師が「悟りの境地のイメージをあえていえばおなかのあたりに観音開きの扉があって、それを開けると眩しいくらいに光輝く金銀財宝が溢れ出てくるイメージ」と言っていたがこれに近いか?
西洋の哲学者ホイジンガは中世の秋で人間が人間たるのは「遊ぶ」からであると説いている。ホモルーデンス。
宗教は遊びであり、文化は遊びから生じると喝破している。
社会が宗教を体験し亭受するときの心的態度は当然に厳粛、神聖な真面目さだ。自発的な遊び心でさえも、真面目さのなかにある。遊んでいる人は全身全霊をそこに捧げる。「ただ遊んでいるだけなんだ」という意識は心の奥に後退している。遊びと結びついている喜びは緊張に変わるだけではなく、昂揚感、感激にも転化する。遊びの気分の両極をなす感情、それは一方では遊び、もうひとつは宗教。つまり遊びは宗教とイコールであり、宗教は遊びと同じものだとホイジンガは主張する。
ここで言う人間とはパスカルの言う「人間は考える葦である」の人間であり中国哲学における「大人」と類義になる。
では中国哲学に遊びのワードはでてくるか?
老荘思想の荘子にあった。
「天地の正に乗じて、六気の弁に御し、以て無窮に遊ぶ者は、彼はたなにをか待たんや。」(逍遥遊篇)
「物に乗じて心を遊ばしめ、やむを得ざるに托して中を養う。」(人間世篇)
「心に天遊なければ、すなわち六鑿相いみだる。」(外物篇)
老荘思想においても遊びは重要視されているようだ。
閑話休題。
『遊戯三昧』に戻ろう。
今東光大僧正が多くの弟子に説いている『遊戯三昧』
私の敬愛するシマジ先生がモットーにしている『遊戯三昧』
シマジ先生のバーに飾ってある今東光大僧正直筆の『遊戯三昧』
一体何を教え説いているのか。
私の見解を述べたい。
はじめに元もこうもないことを言ってしまえば、『遊戯三昧』はそもそも禅語であり、その境地を言語化することに意味はない。
言語化するとしたら『遊戯三昧』の境地に達するヒントだろう。
人間の摂理として喜怒哀楽、生老病死がある。
喜びと楽しみ。誕生と成長は容易に夢中になれる。心の束縛は解き放たれるだろう。
ある程度大人になると喜びの後には悲しみが訪れることや楽しみの中に怒りの種が潜んでいることを知っている。
誕生は死の始まりであり成長は老いを意味し、いきつく先は死。
いずれ死ぬなら人生になんの意味があるのだろう。
苦しみの先に喜びがあるとしてもいずれ死を迎えるならば自身の成長は実に下らない作業に過ぎない。
村上龍は人間を「遺伝子の運搬人」と評したことがある。
人生とはくだらない質の悪い冗談なのか?
違うだろうよ。
赤ちゃんは悲しくて泣くんじゃない。生きたくて泣いている。
その証拠にお乳をあげれば泣き止むし、母が抱きしめれば笑う。
必死に生きようとしている。
死にたいと思っている赤ちゃんなんていない。
生きたいからぐんぐん成長するし、不幸にも病にかかったとしても泣いて泣いてなんとかして生きようとする。
赤ちゃんにとってどの瞬間も真剣で必死だ。
泣くにも笑うにも理由なんてなく、モーレツに生きている。
そこには喜怒哀楽も老病死もなく純粋にただただ生がある。
生を、自分を極めることが『遊戯三昧』ではないか。
宿命や運命は人それぞれだが、それぞれの立場で自分の枠の中で一心不乱に目の前の出来事に取り組む。
別に目を見開いて、鼻息荒くするわけではない。
どんな運命からも逃げず、真剣に向き合うこと。
大いに喜び、本気で怒り、大声で悲しみ、本気で人生を楽しむ。
死が訪れる間際までそうすることができれば死を恐れることはない。
真剣に老いを克服しようとする。必死で病に立ち向かう人は死を思う暇なんてない。
そんな心構えの人は世界のすべてに感謝を捧げる。
そして世界はその人に感謝を伝えるだろう。
これをもって『遊戯三昧』が完成し、仏道が開かれる。
合掌。
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