文章のチラリズム
最近なんだか自分が調子に乗っている気がする。
いや、調子に乗りすぎている!!
視聴者の方から褒められる機会が増え、YouTubeからの収益も発生し、リアルな友達ともYouTubeの話題で一花咲かせることができる。
これは、自分のやってきたことが数字という絶対的な証拠をもとに「成功」であることが証明された、と言ってもいいでしょう。
別に調子に乗っていること自体、僕自身は特にやばいことだとは思わないんだけど。
じゃあ急になんだよ、と。
人に見てもらう立場を名乗っている以上、その人に見たいと思われるような作品を作る必要がある気がするんだよな。
そして、例えばこのnoteもそうだけど、
何か"葛藤"がない文章、もしくは根拠のない自信を貫いている文章に、僕はあまり読む価値を感じない。
この理由をはっきりと僕は特定できていない。
でも、どこの誰が書いたのかもわからないような文章が、その人の栄光でがんじがらめになっていたとしても、見る気が失せる。
それだったら、自信に虚構が混じっておりその隙間から素肌が見える文章の方がよっぽど魅力がある。
多分、文章というのは普段は鎧を纏っている人が時々ちらつかせる素肌にこそ真骨頂があるんだと思う。
その"チラリズム"は多分、見せようと思って見せることができるものでもない気がする。
みんなが予想できるチラリはもはやエンタメであり、それの消費はもうみんな飽きている。
意外性という面においてチラリが有効であったのに、どんな人が書く文章にもチラリが見えるおかげで、意外性そのものが失われつつある気がする。
これは文章に限った話ではなく、漫画やアニメにおいてもそうだろう。
何か伏線が貼られているとして、その伏線が回収されることがもはや視聴者にとっては当たり前になってきた。
伏線とは本来伏せているからこそ意外性があるものなのに、この情報化社会において溢れる作品たちが「伏線の回収という意外性」をもおきまりのパターンに変えた。
話を戻すと文章でもその人のチラリが、もはや予想されるパターンと化してきたように思う。
だからこそ、僕はそのパターンにさらに意外性を持たせるために、自信で塗り固められ、もはや素肌がどこにあるのかわからない文章に価値があるんじゃないかって考えた。
最近バズってる文章なんかを見てみると一見揺らぎがあるように見えて、実は「自分が感じていることは絶対に正しい」という見えない自信をもとに書かれていることが多い。
例えば、最近読んだバズってるnoteで、可愛いということに対する違和感について綴った文章があった。
内容としては、確かに世の女性たちが感じていた違和感をスッキリまとめたものになっていたのかもしれない。でも僕にとっては筆者自身"は"絶対に間違わないと感じているからこそ、女性の意見を代弁してるような雰囲気をまとうことができているのだろうと感じてしまった。
世間ではそのような、自信を隠した上で別の次元でチラリを見せる文章がウケるようになってきているのかもしれない。
ステルスだけど、しっかり鎧を纏っているような、そんな文章。
器用すぎて僕にはできない(笑)
なので、自信で塗りたくるか古典的なチラリを見せるか、文章を書くとなったらその二択になると思うんだけど、自信で塗りたくった文章がどうにも面白くならない以上ほんとうは一択だ。
この文章も多分、古典的なチラリを見せる文章になっていることだろう。
100円で救える命があります。