闘病生活で痛感した「できないことをしない」の大切さ
闘病生活を送る上で、私にとって最も大切で最も難しいこと。
「できないことは、しない」
それはつまり「できないことはできない、と認める」ということ。
私はいつもここでつまずいてしまう。
努力と根性と忍耐があれば、なんでも乗り越えられると思っていた。
働いていた頃は、自分の病気も職場や実家の理不尽も「負けない泣かない挫けない」とまるで呪文みたいに毎日唱えて乗り越えてきた。
そうやって頑張ることが、無理をすることが、私のアイデンティティになってしまっていた。
だから寝たきりでなにもできなくなった時、本当に絶望した。
なんにもできない。
ほんとうに、なんにもできない。
ベッドの上で、ただひたすら空を眺めて過ごした。
働いて自己実現をすること、家事で旦那さんを支えること、子供を望むこと、食べること、眠ること、歩くこと、何もかもが私にとって「できないこと」のカテゴリにお引越ししてしまった。
「できること」のカテゴリの片隅でひっそり体育座りをしてるのが「生きること」くらいだった。
できないことをできないと認めることは、惨めで情けなくて悲しくて、とてもじゃないけどやりきれなかった。
できることに目を向けるべきなのだと、頭ではわかっている。
生きていることに感謝すべきなんだと。
生きているだけで充分なのだと。
足りないものの数ではなくて、足りているものの数を数えるべきなのだと、父にも言われたことがある。
だけどやっぱり、そうやって納得するのは、私には難しい。
それは今でも変わらない。
だんだんと普通の生活が戻ってくると、健康な人たちと比べて、あるいは健康だった頃の自分と比べて、「私にだってできるはずだ」と性懲りも無く「できないこと」を必死にやろうとする。
そのたびに、できないことはできないんだって思い知る。
私にはできないことがいっぱいあるんだって現実に打ちのめされる。
でもきっと今は、これでいいのだとも思う。
「できない」に肩を落としながら、「できる」を探し続ける自分の諦めの悪さを、微笑みながら見守るくらいの余裕ができたらいい思う。