不妊の苦しみ、その先に見えたもの
良い奥さんになりたい。
学生のころから、私が唯一持ち続けていた夢だった。
良い奥さんってなんだ、というのはひとまず置いておくとして。
この夢の中にはもちろん「子供が欲しい」という望みも含まれていた。
それが今はどうだろう。
4年前から続く先の見えない闘病で、生理はずっと止まっているどころか、家事すらままならない生活。
不妊、という言葉を使うラインにすら立てていない自分。
お前には子供を望む権利なんてないんだよ、と言われているような気さえした。
そういう中で、幼いころからずっと一緒に過ごしてきた親戚や、学生時代に仲の良かった友達がどんどん「お母さん」になっていく。
一言でいえば、地獄だった。本当に地獄だった。
今も現状は変わらない。でも、地獄だなんて思わなくなった。
親戚や友達の子供にも会いたいと素直に思えるようになった。
そんな今だから振り返ることができる、地獄にいた自分のこと。
今日は、そんなお話。
「嫌なら見るな」ができない苦痛
ネットでよく言われる「嫌なら見るな」。
それができたらどんなに楽だろうと思う。
子供を目にすることさえつらかった時期、なるべく子供から離れようと思った。
でもできなかった。
買い物に出掛ければ赤ちゃんを抱っこしたお母さんに出会う。保育園の子供たちが散歩をしている。
テレビをつければCMに子供が出てくる。
地域のイベントや観光地の心和むニュースでは、必ずといっていいほど子供連れの家族がインタビューをうけている。
こういったほっこりしたニュースではたいてい「幸せな家族像」に当てはまるような家族が映るものだから、とりわけ心えぐられる。
この類の映像が流れるたびに、製作者の意図とは裏腹に、凄惨な現場を見つめているような暗くて冷たい気持ちに叩き落されている人たちが私以外にもたくさんいるのだと思うと、本当にいたたまれなかった。
なんで私は子供を望むことが許されないんだろう。なんであの人たちはよくて、私はだめなんだろう。
某アニメの「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら、耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ。」というセリフが頭に響く。
自分の心を守るために今は子供という存在から距離を取りたい、ただそれだけなのに、そういう生活でもしないかぎり「嫌なら見るな」というのは不可能なのだ。
何もしていないのに、まるで犯罪者にでもなってしまった気分になる。
私も、ほっこりしたニュースでインタビューを受けている家族も、誰一人として悪くないというのに。
大好きな人たちがお母さんになっていくことを喜べない自分
なんでこういうタイミングなんだろう、と思うことは人生の中でいっぱいある。
友達や親戚の妊娠出産も、私にとってそのひとつだった。
本当にびっくりするくらい、1年の間に仲の良い人たちの妊娠出産が重なった。
私は子供を望むことができないのになんで、というつらさはもちろんあった。
でも、いちばん辛かったのは、心の底から大好きな人たちを祝福できないこと、それどころか呪ってしまいそうな自分さえいたことだった。
そういう自分に負けそうなことが一番悔しくてみじめでつらくて申し訳なかった。
人を呪ってしまうような自分になりたくなくて、負けたくなくて、祈るような気持ちで友達の安産祈願のお守りを買いに行った。
どうか、私の大切な人が無事に出産を乗り越えますように。
どうか、私自身に大切な人を呪わないで済むだけの強さが与えられますように。
子供のころから、大切で大好きでかけがえのない人たちなんです。
いっぱい悩んだりしながら、青春時代を、楽しい時間を、宝物みたいな時間を、一緒に過ごしてきた大切な人たちなんです。
神様どうか、そういう人たちを、呪ってしまいそうになっている弱い自分に負けない強い心をください。
神様、お願いします。
どうか、お願いします。
母と、義母と、それから祖母と
最初は、こういう気持ちを誰にも吐露する気持ちになれなかった。
そもそも言葉にできるほど、気持ちの整理もつかなかったのだ。
母や義母から、おばあちゃんになるという幸せを私が奪ってしまっているのだという罪悪感もあって、よけいに話せなかった。
それでも、ぽつりぽつりと、私は母にそういう気持ちを打ち明けるようになった。
母は「あんたたち夫婦が幸せだったらそれでいい。」と言ってくれた。
本当にありがたくて、本当に心が救われた。
母だけならまだしも、義母と、今年92歳になる祖母でさえ同じように言ってくれた。
義母にはそういう気持ちを打ち明けたことはなかったが、電話のたびに「いつも〇〇(夫)のお世話をしてくれてありがとう。二人が幸せで過ごしていることが一番だから」と言ってくれた。
祖母の家に遊びに行くと、突然なにかスイッチが入ったかのように「今はこういう時代なんだから、子供なんていなくったっていいのよ。いろんな生き方があっていいのよ」と熱弁しはじめた。
もう認知症が進んでいて、トースターの使い方さえあやふやで、身内の顔も少しずつ忘れているような祖母が、私の気持ちだけは忘れずに慮ってくれているのだ。
なんて有難くて幸せで恵まれた環境なんだろう。
病気はいつ終わるかわからないけれど、子供は望めないけれど、私は不幸じゃない。
病気だから、子供がいないから、それは必ずしもイコールで「不幸」につながるわけではないのだ。
みんなちがって、みんなたいへん
少しずつ、本当に少しずつ、時間をかけて、私の気持ちは形を変えていった。
子供の存在を遠ざけるのではなく、もっと知りたいと思うようになって、妊娠出産・育児・養子縁組などにまつわるエッセイなどを読むようになった。
そうして、子供がいるから幸せ、ではないのだと気が付いた。
夫にも全く別の話をしているときに言われたことがある。幸せそうにしてる人だってどこかで別の苦しみを抱えているのだ、と。
私がいかにないものねだりをしていたか、私がいかに自己中心的であったか。
自分ばかりが不幸になった気持ちでいた。
自分の視野の狭さを心から恥じた。
どうしても「健康な人」や「子供のいる人」は病気で子供のいない私と違って幸せで羨ましい、という妄想に引きずられてしまいそうになる。
でも事実はそうじゃない。
健康なら健康だったで、子供がいたらいたで、痛みや苦しみや辛さや悲しみや苦労がそこには確かに存在するのだ。
子供が欲しい気持ちは変わらない、それでも
今だって、子供が欲しいなあと思う。でも、いなくてもいいか、と思う。
もし子供ができなかったら、今よりも自然の豊かなところに引っ越して、家庭菜園をしながら、ペットに囲まれてのんびり生きていこう。
夫と、そんな妄想話を楽しむようになった。
いつだって、今この瞬間しか存在していない。
過去や未来はすべて頭の中の出来事だ。
今の自分に良いと思えることを、進んだりさがったりしながら手探りで積み重ねていく。
そうしているうちに、いつか子供を望めるようになるかもしれないし、ならないかもしれない。
病気が癒えていくかもしれないし、癒えないかもしれない。
いつだって、結果は天命にゆだねるしかない。
わからないことはわからないままにして、今できることをやるだけだ。
今だって、赤ちゃんや子供を見ると、心のささくれがぺりっと剥がれて少し痛む。
でも、親戚や友達の子供に会えることがとても楽しみだ。
どっちもほんとうの私の気持ち。
それで、いいじゃないか。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
私の体験談が少しでも参考になれば幸いです。
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