生殺与奪を他人に預けちゃったひと
前に見たおばあちゃんの話。
あ。身内ではない。
その人は若い頃に離婚した。で、とある男のもとに転がり込んだ。
再婚はしなかった。なんでか。
詳しいことはわからんが、ちょっと男にだらしがないというか。
ひとりになってもすぐに男ができる、というタイプの人だったそうだ。
受け答えがいつもふんわりしていた。
依頼心が強くて、すぐ人を当てにする。
善意を信じているという感じではなくて。
自分にしてもらう、そのことに疑いがなかった。
厚かましいともいうけど、悪意はなかった。
そのせいか抜けてる感じもあって、可愛げのある人でもあった。
ま、そんなこんなで。
籍は入れてなくても男女ふたり、夫婦として仲良くやっていた。
たまに困ったさんでもあったが。
ところが、男性が先に亡くなってしまう。
さて、ここで問題になるのは年金だ。
同居している夫婦ないし内縁関係の高齢者ってさ
ふたり分の年金でどうにか生活している。ことが多い。
統計はとってないけど。
このおばあちゃんの場合、そもそも内縁の妻兼専業主婦。
自身の年金はゼロだった。余計悪い。
結局、自治体の福祉課が乗り出す。
生活保護からの施設暮らしに落ち着いた。
これはめちゃめちゃ幸運な例だ。
男との関係だけを頼りに、自身はたまにパートに出る程度。
老後のことなーんも考えてない。まさに浮草暮らし。
それでも、最期を診てくれるところに漂着できた。
行政ありがとう、の例。
似たようなパターンで、夫が先だってしまったおばあちゃんがいる。
この人も、あんまり先のことを考えられない。
なんでも「お父さん(夫)がしてくれるから」で止まる人だった。
夫婦で自営業をしていたので、年金はあったが二人合わせてやっと。
なので、独り身になるとたちまち困ってしまう。
ところが、こちらは妙にプライドが高くて困窮を訴えられない。
自分の子どもとも、地域の福祉係とも些細なことで決裂してしまう。
で、ぎりぎりになるまで周囲にもらさなかったので、結構な騒ぎになった。
どうにか助かったのかどうか、そこまでは知らない。
福祉も伸ばした手を取ってくれる人でないとどうにもならないという例。
まあ、それはさておき。
このふたりは結構な年齢のおばあちゃん。
女が自立して生きていける、そういうことが簡単だった時代の人ではない。
戦前か戦中生まれじゃないのかな。知らんけど。
この人たちは、自分のことを自分で決められなかった。
結婚して、「誰かの女」になったら、男が。
子どもを産んで、「誰かの母」になったら、その子が。
日々暮らしているだけで、その「誰か」が自分の面倒を見てくれると。
多分”考える”こともなく、それを当然として生きていた世代。
男の所有物として、誰かの付属品として。
女には、そういう生き方以外の選択が難しい時代があった。
「妻として番える身体」「母になれる身体」を持った体に価値があるとされ
生きていくために、その価値によって結婚という仕組みに加わった。
ミソジニーに浸食された男たちは気軽に言う。
「女はいざとなれば身体を売れる。イージーだ」
イージーなのは、そんなことを考える脳みそだよね。
男だって身体を売れるし、内臓だって売れる、いざとなれば。
臓器2つってのもあるんだし。
でも、やらない。普通に生活していたらやらない。
だって、それは尊厳を売る、ということだもの。自分を売ることだもの。
時間貸しのレンタルルームじゃない。
不可侵でなくてはならないのに。
自分の心と体を切り売りする行為は、必ず何かを壊す。
自分への決定権をなくすか、薄れさせていく行為だ。
誰かの属性になる、というのは、
自分のことを自分で決められなくなる、ということ。
多分、おばあちゃんたちは毎日の買い物以上に
「自分のことを決める」なんて考えもしなかっただろう。
これが格差だ。
もちろん、おばあちゃんたちは、身体を売ったわけではない。
女の身体をもって生まれて、属性となることで生きてきた。
前者の買春は社会悪であり犯罪になるが、後者は社会の後進性である。
生産できる体、男にとって需要のある体、という側面。
それは女性の権利が軽い社会では決して否定できない要素だ。
「女」の部分で誰かに、何かにぶら下がると、結局そこに行き着く。
属性となっても夫婦ならまだいい。法律が守ってくれる。
「女」だけを切り売りして時間貸ししたら、誰が守ってくれる?
「女はいざとなれば身体を売れる」
これを言うやつは、80歳のおばあちゃんの身体に金を払ったりしない。
自分たちに都合のいい商品になってほしいだけなのだから。
若い女を金で買いたい、の言いかえでしかない。
そういう人は、ラブドールでは満足しない。
性欲ではないから。我欲だから。人格だから。
生きた人間が必要。自分を認め受け入れ評価し、他人に誇れる……。
ものすっごいエゴ。
他人に体を時間貸しすると、生殺与奪の権をだんだんと無くしていく。
無くさない頑強な人もいるけれど、そういう人は稀だ。
誰でも範馬勇次郎に生まれつくわけじゃないんだから。
おばあちゃんたちの生殺与奪の権は夫にあった。
それは彼女たちが、彼らが、意図したことじゃない。
けど、現実としてそうだった。
そういう生き方が好きな女もいるかもしれない。
男にもいるかもしれんけど。
でも、おばあちゃんたちは「選択」したわけじゃない。それしかなかった。
ちなみにね。
どっちのおばあちゃんも癖はあったけど、面白くてかわいいとこがあった。
自分は嫌いじゃなかった。
でも、もうおばあちゃんたちの時代には戻らない。
絶対に、戻らない。
生き方を選べる社会であってほしいので、書いておくよ。
そういう生き方だったおばあちゃんたちの話。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?