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五条楽園(京都)

河原町の地名は、河原院にちなむと碑に書いてある。「河原院」は河原左大臣こと源融(みなもとのとおる、822-825年)の邸宅の跡地とも伝えられる。源融は嵯峨天皇の皇子だが臣籍に下って源性を名乗り権力や財を成したと伝えられ、「源氏物語」の光源氏のモデルの原型の一人とも言われている。子孫に嵯峨源氏となり栄えた。
 
また歌人としても有名で、百人一首にも

  みちのくのしのぶもじずりたれ故(ゆえ)に
    乱れそめにしわれならなくに(河原左大臣 古今集/百人一首14番)
 
河原院はこの融が亡くなると、この奇怪な噂にまつわられるようになる。「今昔物語」や「江談抄」などに出てくる話ですが、融の息子、源昇がこの邸宅を宇多上皇に献上すると、上皇の滞在中に源融の亡霊がたびたび現れるようになり、また宇多上皇の愛妃もこの邸宅でたびたび物の怪に襲われたとのこと。
 
その後この邸宅は荒れ果てていき、源融の死語数十年も経つともはやかつての趣もなくただの荒れた邸宅となっていく。

  八重むぐら しげれる宿のさびしきに
    人こそみえね 秋は来にけり(恵慶法師 拾遺抄/百人一首47番)
 
この歌は荒れた河原院を詠んだもの。その後この屋敷は物の怪のすみかと言われるようになり、「源氏物語」でも「夕顔」の巻で夕顔という女性が物の怪に襲われて急死する舞台になっている。王朝末期になると鬼の跳梁する場所となっていきます。「今昔物語」には旅人夫婦が一夜の宿としたが、夜半に誰ともしれない者=鬼が妻をさらっていき翌朝に外傷もないまま死んでいるのが見つかったという話がある。
 
その後更に荒れ地となっていき、そして時は下って江戸時代以降、一画は遊郭として繁栄、平成に至るまで花街として残っていたという場所である。

現在はかつての建物はリノベーションしたホテルなどとなっており、外国人観光客で賑わっている。

(2023/4 撮影)

model;玉井ゆき  (X)
model;玉井ゆき (X)

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