表参道交差点の西側エリアは渋谷川(キャットストリート)に向かって下がっていく傾斜地であるが、兎に角、道が複雑である。 青山通りはもちろんAoビルやオーバルビル、国連大学などが立ち並んでいる。その並びには今は休館中だが都立の施設「子どもの城」跡がある。かつては青山劇場、青山円形劇場も併設され、大小の舞台作品が公演されていた。現在は囲いで閉ざされ、子どもの城前では岡本太郎の「子どもの樹」だけが存在感を放っている。 ただしこの青山通り沿いの大きなビル群の裏側は住宅地になっており
天然の山としては東京23区内最高峰の愛宕山の山頂(25.7mmである)には出世・火伏せ・縁結びなどでも知られる愛宕神社がある。比較的小さい境内にはいくつかの末社や弁財天が祀られている池、また講談の題材としてもしられる「出世の階段」で愛宕神社参道の急階段を馬で登った曲垣平九郎が手折ったと伝えられる梅の木などもある。(記念写真用の顔出しボードもある。) また「桜田烈士愛宕山遺蹟碑」「殉皇十二烈士女之碑・弔魂碑」など近現代の事件の跡を残す石碑も置かれている。「桜田烈士」は幕末の「
渋谷を流れる渋谷川の源流の一つは新宿御苑の池の湧水とのことだ。北から南になだらかに傾斜する地形の新宿御苑には池が点在し、その南東側、下の池の縁からは現在も水が湧いている。 江戸時代には北側の甲州街道沿いに整備されていた玉川上水の余水(雨天後など江戸市中に配水する量より多くなった場合の余った水)が余水吐(よすいばき)として流されており、現在もその後が新宿御苑の敷地の東側に沿って南に向かって残っている。四谷大京町、現在の交番のある辺りで外苑東通りの下を抜けていくが(現在もトンネ
女優、あべあゆみさんと初めて出会ったのは池袋だった。 その時は友人のイベントでだったが、それ以来、都内各地の中小の舞台、ゲスト出演する劇団"オフィス再生"や"ノーコンタクツ"の舞台や"美貴ヲの劇"などだけでなく、セルフプロデュース「あさがお企画」で行われる舞台作品、一人芝居などいくつかの演劇公演にも足を運んでいる。 彼女の特筆すべきはやはり「女」を演じられるということであろう。清楚な女であっても訳ありの女であってもファム・ファタールであっても、そして悪女にもなれる演技は素
「我善坊谷」について書いた時に少し触れたのだが、現在のアークヒルズ 仙石山森タワーのある辺りはかつては財務省(大蔵省)所管の土地であり、その前は皇室所有の東久邇宮邸、その前には江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室、いわゆる皇女和宮が晩年、静寛院宮として生活していた場所であるという。このあたりの経緯は鈴木博之 (著)「日本の地霊(ゲニウス・ロキ)」に詳しい。 またその向かいのエリア、現在は再開発で地形まで変わってしまっているのだが、御組坂(おくみざか)の坂下には、明治から昭和
JR目黒駅の南東側の丘は花房山と呼ばれている。俗に言う城南五山の一つで、他の4つは東に向かって池田山、島津山、御殿山、八ツ山と続く。江戸時代の大名家下屋敷跡や幕府施設跡、街道筋の山だった4つに比べ、花房山は明治・大正期に外交官や「日本赤十字社」社長として活躍した花房義質子爵の邸宅があったことに由来することから時代に差があり、「城南五山」というのもデベロッパーのキャッチコピーであろうと言われている。 江戸時代は三日月藩森家上屋敷があったそうだが、人工的な掘割である山手線の線路
天気が良い日には東京湾を挟んで富士山が見える。いささか風が強かったが、実際この日も海の向こうに富士山がきれいに見えた。 海岸まではJR京葉線の最も新しい駅(2023年開業)、幕張豊砂駅から歩く。眼の前はイオンモールがあり人の波はそこへ吸い込まれていった。幕張といえば幕張メッセやZOZOマリンスタジアムなどで知られるが、どちらも駅からは15分以上歩くことになる。海浜幕張駅からの方が近い場合もあるが、若干の差でしか無い。 以前に東京モーターショーや東京オートサロンなどのイベン
白金は隣の白金台を背にして南側の高台から北側の古川にかけての低地にまたがる地域で、エリアとしてはそれほど広くはない。高台のエリアには上皇后美智子さまの母校でもある聖心女子学院や鎮守である白金氷川神社があり、低地エリアには北里大学白金キャンパスがある。 その高地と低地を分けているのが地下鉄白金高輪駅方面から恵比寿方面に東西に走る道路で、その道路に向かって三光坂や蜀江坂など趣のある坂道が下っている。いずれも北側に開けた道であり、坂の上の開けた場所では景色が良い。高地エリアは前述
現在は都営地下鉄大江戸線の開通によって廃止されているが、かつてJR田町駅から三田、麻布を通り、四谷三丁目を経て新宿東口に向かうバスが六本木を通っていた。麻布十番から地下鉄と同じく現在の六本木ヒルズ下から六本木交差点に向かう一気に坂を登るルートで、六本木交差点のアマンド横の坂道(芋洗坂)が交差点から下るのみの一方通行(現在も同様)な為、坂を登ってきたバスは途中でかなり無理矢理に右折して坂道(饂飩坂)を上がり、ロアビル横から表通りの外苑東通りにアクセスするという具合であった(逆に
青山墓地の東側、青山公園(南地区)まで来ると、乃木坂駅や六本木の方が近くなる。青山墓地と青山公園に挟まれた道は、六本木近辺の客待ち渋滞を回避するために設けられたタクシー専用の路上駐車エリアで、タクシー以外は駐車できないそうだ。 青山公園は昔は旧日本陸軍の兵舎敷地で、昭和のクーデーター事件「二・二六事件」(1936年)では駐屯していた歩兵第3連隊も反乱に加わっている。太平洋戦争後は在日米軍に接収され、現在も在日米軍赤坂プレスセンターのヘリポートがあり、時折軍用のヘリコプターが
国道246号と表参道の交差点から南青山方面に向かうと、それこそコム・デ・ギャルソンやプラダ、ミュウミュウ、ステラ・マッカートニー、ヨージヤマモトなどのブランドの路面店が立ち並ぶ。近年は平日休日を問わず、人通りの多い道だ。その先の道沿いには金網のフェンスがあるが、これは港区の御三家などとも言われる名門の一つ、青南小学校の敷地。但し校門は人通りの多い道の反対側、裏側の道にある。校舎もブランドストリートとは離れた場所にあり、それなりに教育環境は担保されているようだ。先には根津美術館
青山には「青山」という行政上の地名は無く、北東から南西に走る青山通りを挟んで北青山・南青山と分かれている。さらに東から西に向かって青山一丁目、二丁目といった具合の町割りになっている。青山墓地があるのは南青山二丁目だが、隣の南青山一丁目とは六本木トンネルから北に伸びる道で、南青山三丁目四丁目とは外苑西通りで隔てられる。 青山墓地は東西の谷に挟まれた台地の上にある。目貫通りは東西南北に走り、中央部で十字に交差する。東西の道路は乃木坂トンネルを出た所で高架で都道319号環状三号線
夏の間は海の家も建ち、沿道からも水着姿の若者や子連れファミリーが闊歩していたりと海岸という場所全体の全体の気持ちが上がっている感じがするものだが、9月になればひと足も途絶え、砂浜も静かなものになる。 しかし日差しは強い。日中の気温はともすれば真夏並みにもなるので、午後の太陽に照らされていると汗が吹き出してくる。まだセミの元気な鳴き声が響く林の中の日陰に逃げ込んだ。 ちょうどこの日は休館日で、普段ならそこそこに人の出入りのする美術館にも人はいなかった。緩やかに下っていく美術
東京タワーから六本木交差点に向かって外苑東通りを進む。警備の厳しいロシア大使館を左手に、今のところ(2024/8現在)都内で一番の高さを誇る麻布台ヒルズを右手に見ながら進めば、飯倉片町の交差点に出る。この外苑東通りはいわゆる尾根道で、北側に折れれば溜池方面や赤坂方面に下ることになるし、南側に向かえば麻布に向かう坂道がいくつもある。途中、南側の急な坂を降りれば麻布狸穴町である。 飯倉片町の大きな交差点を左に折れれば麻布十番に向かうが、永坂という名前の坂を降りる。そもそも永坂は
都内には「高輪」の名前がつく駅が3つ、古い順から高輪台駅、白金高輪駅、高輪ゲートウェイ駅がある。高輪台駅は白金台に接し、白金高輪は古川に接して麻布に近い。高輪ゲートウェイ駅は山手線なので海沿い、むしろ芝浦に近い場所にある。 では高輪はどこかというと、これら各駅に品川を足した四駅に囲まれるエリアと考えて良い。つまりどの駅も高輪の端にある。 高輪は三田台から続く台地の上にあり東側は東京湾に向かって降りていく坂道が多い。西側は国道1号線に向かって同じく降りていく坂道が多い。尾根
五反田駅前、目黒川周辺にかけては飲食店街が広がるが、北に向かって登り坂となり住宅街が広がり、高知と低地でコントラストをなしている。 高輪台に向かって伸びる長い坂が相生坂、その坂を挟んで東側が島津山、西側が池田山である。どちらも「城南五山」であり、島津山は深い谷戸を挟んで高輪台、品川に抜けるソニー通りを挟んで御殿山に接し、池田山は西側に目黒駅を擁し谷を挟んで花房山に接する。 池田山は行政上の地名ではなく(住所で言えば東五反田)、江戸時代は備前岡山藩池田家の下屋敷があったため