英語とアイヌ語との共通点について
さて、皆さん。ニック式英会話のニック・ウィリアムソン先生をご存じですよね。先生の「カタマリで覚える」というご指導に対して僭越ながら所感を申し上げます。大変僭越ながら、私は99%賛成なのですが、残り約1%ほど納得し切れない部分もございます。そういう自分自身に言い聞かせるため、また、僭越ながら、私と同じようなお悩みを持っておいでの方のため、先生の仰ることを別の角度から捉え直そうとするのが、今回の投稿の目的です。
(一例として)go home というのを塊として「帰る」だと覚えるのがよく、go と home とを別々のものだと意識している人は、 to が付くのか my が付くのか、とか house なのか home なのかな、とか、迷いが生まれてしまう、と先生は仰います(注1)。
お言葉を返すようですが、私は、(子供であれ大人であれ)頭の良い生徒さんほど、そのように迷うのだろう、と存じます。(子供であれ大人であれ)論理的思考力がある人は、上記のような発想をするのが当然だと存じます。カタマリで覚えろ、というお言葉のそこだけ拝聴すると、(英語学習の上では)論理的に思考することを停止しろ、放棄しろ、と仰っておいでだ、と誤解を受ける可能性があるものと存じます。勿論、そんなことはウィリアムソン先生のご本意ではないものと存じます。ですが、この部分だけどうしても引っ掛かってしまい、1%だけ賛成できない、というような言い方にならざるを得ないのです。
特に若年層の学習者からの、そのような論理的思考から来る質問の対応については、細心の注意を払う必要があるかと存じます。カタマリとして覚えろ、という指導を受けた若年層の生徒さんが、自分の論理的思考力に何かしらの問題があると指摘された、と誤解し、英語嫌いや勉強嫌いになってしまうことについて強く恐れる次第でございます。「go も home も全く別の単語なのに、そのそれぞれを個別に理解しようとするのがなぜ行けないのですか」「それぞれの単語の意味の理解の上で文や句全体の理解が成り立つのではないですか」と、(若年層の生徒さんから)追加質問があった際、ウィリアムソン先生はどのようにご対応なさるでしょうか。
さて、外れるようですが、孤立語(isolating language)、膠着語(agglutinative language)、屈折語(fusional language)、という言葉に加えて出てくることが多いとも言える、抱合語(polysynthetic language 、以前は holophrastic language と)(注2)という言葉をお聞きになったことがあるでしょうか。なお、正確には、抱合語には、輯合語/複総合語/複統合語(polysynthetic language)と、抱合語(incorporating language)との、二種類があるようですが、その違いについては割愛します。
話を戻します。実は、日本語にもそれに似た性質が一部ある、と言えるようです(注3)。例えば、「色づく」というと、これは(日本語では)一種の複合動詞と言え、1つの単語として認定されますし、「色が付く」や「色、付く」という言い方をしたときとは意味が異なっています。このような「名詞+動詞」で「1語」として認定されるようなものは、日本語では、これは、文を作る際の文法というよりは、語を作る際の造語法みたいなもののようにも思われます。一方、物凄く端折った説明で恐縮ですが、抱合語と呼ばれる言語では、これに似た現象が頻出して、それが文法的に必要でそれで多くの文が作られる、ということらしいのです。
wakka ku-ta 水、お汲みします
ku-wakkata 水汲みいたします
wakka 水
ku- 一人称単数接辞
ta 採る
※アイヌ語には日本語の「ヲ」に当たるような、目的語のようなものを示す(際にも使われる)助詞は無い模様。また、「私」に当たる代名詞を出すこともできるが、日本語同様出さないのも普通。日本語で謙譲表現するなら「謙譲語」が絶対必要なのに似て、ku- という一人称単数接辞は絶対必要。
日本語の場合、「水汲み」という複合名詞はありますが、「水汲む」という複合動詞はありません(「水汲みする」「水汲みをする」ならあります)。ですが、アイヌ語の場合、動詞の中に目的語に当たるような(人称接辞のようなものでない普通の)名詞を文法的に組み込んで「水汲む」という、1つの単語と同等と認定される動詞を作ることができるようなのです(注4)。そして、そのようにして出来た動詞は、「水(を)汲む」と、(何らかの表現の意図から)付けようと思えば「を」も付けられるような言い方で、日本語で言ったときの言い方、つまり、動詞の内部に目的語に相当するような名詞が組み込まれていない言い方と、意味が異なるようなのです。どう違うのかは分かりませんが、恐らくは(抱合語ではそうなる傾向があるとされるが厳密なものではないともされる)、日本語で「水汲みする」といった際、一般的な水汲みという行為を指すのに似て、動詞に組み込まれた際は、一般的なことを言い、組み込まれない場合は特定のものや個別のものを指す、ということのようです。アイヌ語では、このような方式を文法的に使ってドンドン色々な文が作られていく、ということのようなのです。
さて、「上回る」のように、名詞「上」と動詞「回る」との間に挟める助詞が見当たらないような「何か」も日本語にはあります。また、go と home とのように、その間に挟める前置詞が見当たらないような「何か」も英語にはあります。日本語の場合、上回る、という動詞があるなら、里帰る、という動詞があってもよさそうなものですが、実際には、里帰り、という名詞はあっても、里帰る、という動詞はありません。そして、なぜか、里帰りする、という、サ変動詞と呼ばれるものならあります。また、英語の場合、home run (野球のホームラン)という名詞があるので、あってもよさそうなのですが、なぜか home go という名詞はありません。ですが、run home(走って帰る)とも go home(帰る)とも両方言えます。また、homestay という名詞があると同時に、stay at home という言い方も、stay home という言い方もあります。
このように、アイヌ語、日本語、英語の事実を見ると、英語の go home は、日本語の、上回る、垣間見る、遠ざかる、のような、動詞と動詞以外の品詞との抱合語的な、単語と同等の複合語であり、アイヌ語の ku-wakkata(水汲みいたします)のように、造語法としてだけでなく、より文法的な操作としても作られる、抱合語的な、単語と同等の複合動詞だと言えるでしょう。日本語、英語の、複合名詞、複合動詞を作る造語法には、何かしらの制約みたいなものがあるようですが、日本語にも英語にも、明らかにアイヌ語と同じ抱合語的な側面がある、といえるかと存じます。
go home を、その複合動詞としての文法構造を活かした形で日本語に直訳するならば、外来語で「ホームゴーする」、漢語で「宅行する」でしょう。助詞や前置詞の挟めない抱合語的複合動詞は日本語にも英語にもあります。英語の場合、go と home との間になにかしら別の言葉、副詞や挿入語句等を挟むことはできるのか、また、もしできるとするとそれは一般的なことなのか、という、別の問題は措くにせよ(他の言葉を挟むことができたとしてもそれはいわば有線接続なのか無線接続なのかのような違いだけで大きな差は無いとみるべきかと)、go home というのは、抱合語的観点とでもいうべきものから見ると、1語に認定されてもおかしくないようなものだと、即ち単語と同等だと言えます。
このように段階を踏んで考え、英語の go home は、「上回る」に図式の似た「ホームゴーする」という、抱合語的単語に限りなく近い、という角度から、ウィリアムソン先生の「カタマリで覚える」というご指導を捉え直せば、残った1%の疑問も消えていくのではないでしょうか。
このように事実に即して考えると、屈折語に分類もされるが、孤立語的性質もある、ともされる(注5)、英語には、実は、中国語等のような孤立語的性質だけでなく、アイヌ語のような抱合語的性質もより強く含まれているのではないか、と見ることもできるわけで、こちらは大変興味深いことだと存じます。
また、ウィリアムソン先生の仰るカタマリだけでなく、フレーザル・ヴァーブ、句動詞、イディオム、ユニット、セット、パーツ、チェーン、パッケージ、チャンク、熟語、成語、成句、慣用句、表現文型、のような言葉を使って説明されているものの中にも、抱合語的性質という観点に照らして捉え直すことができるものがあるのかもしれないとも存じます。
末尾になりますが、ニック・ウィリアムソン先生に、重ねまして心底より、感謝、ご尊敬を、改めて申し上げます。
追記:英語の抱合語的性質及びニック式英会話の置き換え頭についての一考察
こちらのご動画(注6)で、ウィリアムソン先生が非常に興味深いご指摘をなさっていらっしゃいます。引用いたします。0:38くらいからです。
解釈の都合上、主語を加えて、I get the train home. という文にします。ウィリアムソン先生は、go (という自動詞とされるもの)と、get the train(という 他動詞+目的語とされるもの)とは、置き換え可能なものだとご認識です。これこそ、まさに、アイヌ語のように、目的語+動詞が抱合している事例のように見えます。the train という名詞句と、get という動詞とは、一体化(もっとはっきり言うと抱合化)して、動詞(抱合語という観点から見ないのなら動詞句になるが抱合語的に言うと単語化)として扱えて、go(という自動詞とされるもの)という動詞と置き換えることができる、と、そういうことを仰っていらっしゃるように存じます。
日本語の場合、「船旅」という複合名詞はありますが「船旅する」という複合動詞はなぜかありません。英語の場合、漢字で表記すると「車得」→「車得る」や「車得する」になるような、複合語・複合動詞と、文法構造のよく似た、語のような「何か」が存在するわけです( train の語源には、引っ張る、という意味があるようなので「牽得」→「牽得する」としてもよいのかもしれません)。そして、英語の場合、それは、アイヌ語同様、文法的操作によって作られるものなのです。
学校で習った文法ですと、S(I)+V(get)+O(the train)+M(home) となるものと存じます。こちらが間違っているとかそういうことが申し上げたいわけではありません。ですが、ここを基準に考えると、V(get)+O(the train) という他動詞句が自動詞句になっているのか(それって一体どういうこと!?)、とか、それが更に home と組み合わさってフレーザル・ヴァーブになっているのか(そんな句動詞は聞いたこと無いぞ!?)、とか、いや、まてよ…そもそも get home が「家に着く」という意味のはずだから、これって、get home と get the train とを足して2で割ったような文なんじゃないの、もしかして?でもそんな文法聞いたことないし…いや、そもそも get の後に on とか in とかが無いのって省略なんじゃないの?だったらそれって本当は自動詞句だったってこと?、のように議論が始まってしまうように思われます。私自身はそういう議論自体は大好きですが、英語自体の現実的な姿(もっとはっきり言えば文法構造)みたいなものの把握からは遠ざかってしまうような気もするのです。
実際は、ウィリアムソン先生が仰るように、go home というカタマリが日本語の「帰る」に対応するような何かで、そして、そのカタマリの go 自体も、get the train 等の、動詞と入れ替えられる何かと入れ替えることができるのです。その入れ替えることができる部分がどこで入れ替えることができるものが何なのかという認識は、S+V+O+Mという認識からは出てこないもののように思われます。問題はそこなのでしょう。このように、置き換えられる部分と置き換えられる内容とが何なのかという認識と、実際に置き換えられるようになる訓練とが重要だ、ということを、先生は仰ろうとしていらっしゃるものと大変僭越ながら存じます。
そして、先生が仰ることの理解の鍵の一つとして、アイヌ語等の抱合語に実は英語は似ているのだ、という観点が、役に立つものと思われるのです。
追記2(備忘録):置き換え頭についての一考察2
/go/ home
/get the train/ home
スラッシュを挿入して挟んだ部分が、置き換えられる部分です。そうすると、 こちらも置き換えているだけなのではないでしょうか。
/be on my way/ home → 帰る途中です
脱線しますが、勿論、シンプルに be getting the train home と時制(言語学のテンスとは異なる考え方)で対応しても同じような内容について言えるのでしょうが、それは別問題として、措きます。話を戻すと、そして、更にここに、丸括弧の部分を、いわば挿入して、詳説したり強調したりもできる、というだけなのではないでしょうか。
/be on my way/ (back) home
ウィリアムソン先生の仰る置き換え頭で考えれば、どれがどれを修飾しているのかとか、何かがまたどれかが補語なのかとか、そういう議論のそれとは少し違った視点で英語を見ることができるようにも思われるのです。そして、更に置き換えて、
/be on the train/ home → 電車で帰る途中です
のように言えるのかしらん。できれば、ネイティブスピーカーの方に伺いたいけど、取り敢えず検索してみよう、のように発展していけるのではないでしょうか。
追記3(備忘録):奇跡の応用についての一考察
When in Rome, do as the Romans do.
という英語の諺、箴言ですが、こちらは、
When /being/ in Rome, do as the Romans do.
という奇跡の応用の 動詞の ing の省略のようなものに思われます。すると、
When in Rome, do as the Romans do.
When /being/ in Rome, do as the Romans do.
/being/ in Rome, do as the Romans do.
の3つとも全部文法的には言える、ということになります。そして、
In Rome, do as the Romans do.
とも、勿論言えるわけで、そうすると、完全な文に足されている、ある種の前置詞句は、奇跡の応用の being の省略のようなもの(無いのが常態だ、ということであれば省略というのは当たらず「追加可能性」「追加可能語」乃至「出現可能性」「出現可能語」のように言う必要があるかと)だ、と見ることもできる、ということになるものと存じます。さて、
I weigh this final question on a train home midweek.
の中の home ですが、その被修飾語はどれなのかと議論が始まってしまいそうです。ですが、奇跡の応用の being の省略のようなものと見るなら、
I weigh this final question /being/ on a train home midweek.
/go/ home
/get the train/ home
/be on my way/ home
/be on a train/ home
home 以外の部分が置き換えられているだけと理解できます。home までをカタマリ即ち「抱合語的な複合動詞」として覚え(認識し)、置き換えられるものが何なのか覚える(認識する)こと及び奇跡の応用(の動詞 ing の省略のようなもの)として捉えることの合わせ技の方がよりシンプルに理解できるものと思われますが、いかがでしょうか。
注1:https://www.youtube.com/watch?v=dsrXs5WBST4
注2:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%B1%E5%90%88%E8%AA%9E
注3:影山太郎『複合動詞における⾮対称性と⽇本語の膠着性』中⽇理論⾔語学研究会第40回記念大会国際フォーラム2015
https://www1.doshisha.ac.jp/~cjtl210/data1/40_kageyama.pdf
注4:fugashi『アイヌ語概説 #3 単語の成り立ち』note2024
注5:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A4%E7%AB%8B%E8%AA%9E
注6:https://www.youtube.com/watch?v=X6C3QvFO2NM